#15「俺とエルフ、お互いをあだ名で呼び合った日」
まぶたの裏に、じんわりとした光が差し込んでくる。
重い瞼をどうにか持ち上げると――そこは、見慣れた天井じゃなかった。
石造りの白い天井。
薬草の匂いが鼻をつく。
「……ここ、は……?」
かすれた声を漏らした瞬間、視界の端に柔らかな金色が揺れた。
ベッド脇に腰掛けていたエルフが、ぱっと顔を上げる。
「……キョウマ!」
その瞳は、驚きと安堵がごちゃまぜになっている。
胸の奥がざわついた。こんな顔をさせた覚えなんて……いや、あった。
オーガの一撃で吹き飛ばされ、意識が途切れる寸前の光景。
「……生きてたのか……俺……」
「当然よ。あのまま死なせてたまるものですか」
強がるように言うけど、その声はほんの少し震えている。
ベッド脇には、見覚えのあるモップ――ルミナスが立て掛けられていた。
そのとき、扉が軋んで開いた。
白衣姿の医者が入ってくる。
「おお、目を覚まされたか。幸いだな。……傷は治癒魔法で塞いである。しばらく安静にすれば問題ない。今日中に退院して構わん」
「……マジか。ありがたい」
医者は軽く頷き、診察を終えるとすぐ出ていった。
室内に残ったのは俺と、まだ少し顔を曇らせているエルフだけ。
「……ほら、行きましょう。退院できるんでしょ?」
「……ああ」
俺はベッドから身体を起こし、ルミナスを杖代わりに立ち上がった。
足取りはまだおぼつかないけど……歩ける。
白い病棟を抜けて、扉を押し開ける。
外の風が肌を撫でた瞬間――
どこか現実に戻ってきた気がした。
夕暮れ時の大通りに足を踏み出すと、潮風と焼いた魚の匂いが鼻を突いた。
アルメル港の喧騒――行商人の呼び声、荷を担いだ労働者の怒鳴り声、そして波止場から聞こえる船の帆を揺らす音。
どれも「生き延びた」ことを嫌でも実感させてくる。
「大丈夫?まだ顔色が悪いわ」
エルフが隣にぴたりとついて歩く。肩が当たりそうなほど近い。
「平気だっての。子供扱いすんな。俺はもう三十路だぞ」
「三十路って何?……まぁいいわ。見てられないのよ」
「勝手に保護者ぶるな」
そう吐き捨てたが、彼女は気にも留めず歩調を合わせてくる。
潮風よりもしつこい付きまといに、俺は溜め息をついた。
通りの露店の前で立ち止まったとき、エルフがふと真剣な顔を向けてきた。
「ねえ……あなたには、あだ名とかないの?」
「……は?」
「呼びやすい名前。家族とか、仲のいい人しか使わないようなやつ」
なぜそんなことを聞く?エルフの瞳はきらきらしていて、単なる世間話じゃないのはすぐにわかる。
「……別に。あだ名なんか大人になってから呼ばれちゃいない」
「子供の頃は?」
「…………」
一瞬、記憶がよぎる。
まだ子供だったころ、近所の奴らや親から呼ばれてた名前。
……黒歴史だ。口に出したくもない。
「……おい、なんでそんなこと根掘り葉掘り聞くんだ」
「いいじゃない。私だけの呼び方が欲しいのよ」
「……はぁ?なんだよ“私だけの呼び方”って」
「文字通りよ。他の誰でもない、私とあなただけの」
さらっと言ってくるもんだから、余計に背筋がむず痒い。
港町の喧騒なんて一瞬で耳から消えて、目の前のエルフだけが浮き上がって見えた。
「……バカかお前。そんなもん言ったら……」
「言ったら?」
「……調子に乗るだろ」
「誰が?」と首を傾げる仕草は妙に無垢で、余計にタチが悪い。
このまま押し切られたら、俺は間違いなく弱みを握られる。
「……ほんとはあるのね?」
「っ……」
図星を突かれ、視線をそらす。
「やっぱり。あるんでしょ?」
「……ないよ」
「嘘」
即答で切られる。
エルフはほんの少し口角を上げて、追撃してくる。
「隠したって無駄よ。顔に書いてあるもの」
「……クソッ」
俺は苛立ち紛れに早足で歩き出した。
人混みを避け、潮風をたどるように細い坂道を登る。
やがて喧騒が遠ざかり、石畳は小さな高台へと続いていた。
港全体を見渡せる見晴らし台みたいな場所。
白い帆がいくつも海に並び、波が陽光を反射してきらめいている。
人混みの声が遠のいて、波音と風だけが残る。
「……子供のころな、近所で呼ばれてたのがあったんだよ」
「なに?」
「“キョーくん”」
言った瞬間、自分の耳が熱くなるのがわかった。
十年以上も忘れてたのに、口に出すとあの頃の恥ずかしさが一気に蘇る。
「…………」
エルフはしばし無言で俺を見つめていた。
そして――
「……“キョーくん”」
小さな声で試すように呼んできた。
「なっ……!」
思わず振り向くと、彼女はどこか満足げに微笑んでいた。
その表情は、光を透かす波みたいに柔らかい。
「……ねえ、また“チャピ”って呼んでくれない?」
「は?」
「私のこと…」
心臓が一拍遅れて跳ねる。
――あれは名前が覚えられなくて、やけくそで呼んだだけだろ。
「……別に深い意味はないぞ。名前覚えるの昔から苦手なんだよ…」
「…でも……嬉しかった…」
真剣な瞳に射抜かれて、逃げ場がなくなる。
結局、俺は観念して――
「……“チャピ”」
口にした瞬間、“チャピ”は一瞬だけ驚いた顔をして、すぐに花みたいに笑った。
潮風が吹き抜け、港の喧騒も夕焼けの光に溶けていく。
なんだこれ……やけに胸がざわつくじゃないか。




