医師との再相談
体育祭が終わった翌日の月曜日、未来は複雑な心境で学校に向かった。昨日の田村との親密な時間、遥斗の寂しそうな表情、そして自分の中で揺れ動く二つの感情。
すべてがごちゃごちゃになって、頭の中が整理できずにいた。
「おはよう、桜井」
田村がいつものように爽やかに手を振ってくれた。
「おはよう、田村くん」
「昨日はお疲れさま。君と一緒に走れて、本当に良かった」
田村の嬉しそうな表情を見ていると、胸が苦しくなった。こんなに素直に喜んでくれる人を、自分は悩ませているのかもしれない。
「私こそ、ありがとうございました」
「今度の休日の件、まだ答えを急がなくて大丈夫だからね」
田村の優しい配慮に、未来は申し訳ない気持ちになった。
授業中も、未来は集中できなかった。ノートを取りながらも、頭の中では記憶が戻ってから の混乱した気持ちがぐるぐると回っている。
遥斗への過去の愛情は確かに蘇った。9歳の自分が感じていた、純粋で深い想い。一緒にいると安心できて、彼の笑顔を見ているだけで幸せだった気持ち。
でも、17歳の今の自分には、田村への自然な恋心もある。記憶とは関係なく、彼の優しさや温かさに惹かれている気持ち。
どちらも嘘ではない。でも、どちらを選ぶべきなのか……。
昼休み、えみが心配そうに話しかけてきた。
「未来ちゃん、体育祭お疲れさま。でも、なんだか元気ないね」
「うん……記憶が戻ってから、余計に混乱しちゃって」
「そっか……やっぱり複雑よね。二人の間で迷うなんて」
えみは、以前聞いた話を思い出しながら言った。
「でも、私が前に言ったこと、覚えてる?今の未来ちゃんの気持ちを大切にした方がいいって」
「覚えてるよ。でも、実際に記憶が戻ってみると、そう簡単じゃないんだ」
「時田くんへの昔の気持ちも、蘇ってきたの?」
「うん……確かに、9歳の時は遥斗くんのことを本当に大切に思ってた。でも、今は田村くんへの気持ちもあるし……」
「難しいわね……」
えみは真剣な表情で考えた。
「でも、未来ちゃん。9歳の時の気持ちと、17歳の今の気持ちは違って当然よ。どちらも本物だけど、今の自分がどう感じるかが一番大切だと思う」
「えみちゃん……」
「時田くんのことを気にしすぎて、自分の本当の気持ちを見失わないでね」
えみの言葉は理解できたが、未来の心は整理がつかなかった。
放課後、文芸部の活動があった。久しぶりに遥斗、美桜、健太が揃っていた。
「未来先輩、体育祭お疲れさまでした」
美桜が明るく声をかけてくれた。
「ありがとう、美桜ちゃん」
「3位入賞、すごかったです!」
「時田先輩も、とても嬉しそうに応援してましたよね」
美桜の何気ない言葉に、未来と遥斗は気まずい空気になった。
「桜井さん、お疲れさまでした」
遥斗が静かに声をかけてくれた。
「ありがとうございます」
「とても素晴らしい走りでした」
遥斗の優しい言葉には、いつものような温かさがあったが、同時に何か諦めにも似た静けさがあった。
「時田くん……」
「はい?」
「あの……」
未来が何か言おうとした時、松本先生が部室に入ってきた。
「みなさん、お疲れさま。体育祭も終わったことですし、今度は文化祭の準備に取り掛かりましょうか」
「文化祭ですか?」
「はい。文芸部としては、部誌の発行を予定しています。みなさんには、それぞれ作品を書いてもらいたいと思います」
「どんな作品でしょうか?」
健太が聞いた。
「テーマは『選択』です。人生の中で、私たちは様々な選択を迫られます。その選択について、それぞれの視点で書いてみてください」
松本先生の言葉に、未来はドキッとした。まさに今、自分が直面している問題そのものだった。
「未来さんは、どんな作品を書いてみたいですか?」
「私ですか?」
「はい。最近、何か大きな変化があったようですが」
松本先生の鋭い観察に、未来は驚いた。
「そうですね……選択することの重さについて、書いてみたいと思います」
「素晴らしいテーマですね。楽しみにしています」
部活動が終わって帰る時、遥斗が未来に声をかけた。
「桜井さん、少しお時間いただけませんか?」
「はい」
二人は、誰もいない廊下で向き合った。
「体育祭、本当にお疲れさまだった」
「ありがとう、遥斗くん」
「田村くんとの関係、順調そうだね」
遥斗の言葉に、未来は胸が苦しくなった。
「遥斗くん……」
「未来ちゃん、無理をしないで」
「無理って?」
「僕のことを気にして、自分の気持ちを曲げる必要はない」
遥斗の優しさに、未来は涙が出そうになった。
「でも……」
「僕は、未来ちゃんが幸せになることを一番に願ってる。それが僕でなくても」
「どうして、そんなに優しいの?」
「愛してるからだよ」
遥斗のストレートな言葉に、未来の心臓が大きく跳ねた。
「でも、愛してるからこそ、未来ちゃんの幸せを邪魔したくないんだ」
「遥斗くん……」
「もし、田村くんと一緒にいることで未来ちゃんが幸せなら、僕はそれを応援する」
遥斗の深い愛情に、未来は圧倒された。
家に帰ると、美津子が心配そうに迎えてくれた。
「お帰りなさい。今日は疲れた顔をしてるわね」
「うん……色々考えることがあって」
「記憶が戻ってから、大変でしょう?」
「お母さん、私、田中先生に相談したいの」
美津子は、娘の真剣な表情を見て頷いた。
「分かったわ。今度の土曜日に予約を取りましょう」
その夜、未来は自分の部屋で一人考えていた。
記憶が戻ったことで、確かに遥斗への特別な感情が蘇った。でも、それは9歳の時の気持ちだ。
今の自分は17歳で、田村という素晴らしい人に出会った。彼への気持ちも、確かに本物だ。
どちらを選ぶべきなのか?
そして、どちらを選んでも、誰かを傷つけることになるのではないか?
土曜日の朝、未来は母と一緒に田中クリニックに向かった。
「おはようございます、未来ちゃん」
田中医師は、いつものように優しい笑顔で迎えてくれた。
「おはようございます、田中先生」
「お母さんから聞きました。記憶が戻ったそうですね」
「はい……でも、とても混乱しています」
田中医師は、未来を診察室に案内した。
「詳しく聞かせてもらえますか?」
未来は、タイムカプセルを見つけて記憶が戻ったこと、遥斗との関係、そして田村への気持ちについて話した。
「なるほど……確かに複雑な状況ですね」
「田中先生、私はどうしたらいいでしょうか?」
田中医師は、慎重に答えた。
「未来ちゃん、まず理解してほしいのは、どちらの感情も本物だということです」
「本物?」
「はい。9歳の時の遥斗くんへの愛情も、17歳の今の田村くんへの想いも、どちらも未来ちゃんの真実の感情です」
「でも、どちらを選ぶべきなのか……」
「それは、未来ちゃん自身が決めることです。ただし、いくつかのことを考えてみてください」
田中医師は、椅子に座り直して続けた。
「まず、過去の感情に縛られる必要はないということ。人は成長し、変化します。9歳の時の気持ちと、17歳の今の気持ちが違っていても、それは自然なことです」
「そうなんでしょうか?」
「はい。そして、もう一つ大切なことは、誰かに申し訳ないと思って選択するのではなく、自分の心に正直になることです」
田中医師の言葉は、えみや両親が言っていたことと同じだった。
「でも、どちらを選んでも、誰かを傷つけてしまいます」
「それは避けられないかもしれません。でも、中途半端な選択をすることで、結果的により多くの人を傷つけてしまうこともあります」
「どういうことですか?」
「例えば、遥斗くんに申し訳ないと思って彼を選んでも、心から愛せなければ、遥斗くんも幸せにはなれません。逆に、田村くんへの気持ちを無視して我慢していても、それは本当の愛ではありません」
田中医師の説明に、未来は深く考えさせられた。
「それでは、どうやって答えを見つければいいでしょうか?」
「まず、静かな環境で、自分の気持ちと向き合ってみてください。誰かのためではなく、純粋に自分がどう感じるかを」
「自分の気持ちと向き合う……」
「はい。そして、どちらと一緒にいる時に、より自然な自分でいられるかを考えてみてください」
「自然な自分?」
「そうです。無理をしたり、演技をしたりしなくても、ありのままでいられる相手。それが、本当に愛する人の条件の一つかもしれません」
田中医師のアドバイスに、未来は希望を感じた。
「もう一つ、大切なことがあります」
「何ですか?」
「どんな選択をしても、未来ちゃんは悪い人ではありません。恋愛で悩むのは、人として自然なことです。自分を責めないでください」
「ありがとうございます」
「そして、もし選択に迷った時は、いつでも相談してください。一人で抱え込む必要はありません」
診察が終わって、未来は少し気持ちが軽くなった。
帰りの車の中で、美津子が聞いた。
「どうだった?」
「田中先生のアドバイスで、少し整理できた気がする」
「良かったわ」
「お母さん、私、しばらく考える時間がほしいの」
「もちろんよ。焦る必要はないわ」
その日の夕方、未来は一人で近くの公園を散歩した。
田中医師の言葉を思い出しながら、自分の気持ちと向き合ってみる。
田村といる時の自分……自然体で、楽しくて、安心できる。彼の優しさに包まれて、素直な気持ちになれる。
遥斗といる時の自分……懐かしくて、特別で、でもどこか緊張もある。過去の記憶に引っ張られて、9歳の自分と17歳の自分が混在している感じ。
どちらも大切な感情だが、確かに質が違っていた。
公園のベンチに座りながら、未来は空を見上げた。
答えは、まだ見つからない。でも、田中医師のアドバイスのおかげで、どう考えればいいかが少し分かった気がする。
スマホが鳴って、田村からメッセージが届いた。
『桜井、今日はお疲れさま。体調大丈夫?』
『はい、大丈夫です。心配してくれてありがとう』
『良かった。無理しないでね』
田村の変わらない優しさに、未来は胸が温かくなった。
家に帰ると、遥斗からも短いメッセージが届いていた。
『今日もお疲れさまでした。無理をしないで、自分のペースで考えてください』
遥斗の気遣いにも、胸が熱くなった。
その夜、未来は日記を書いた。
『田中先生に相談して、少し道筋が見えた気がします。
どちらの感情も本物で、どちらも大切。
でも、自分の心に正直になることが一番大切。
田村くんといる時の自然な楽しさ。
遥斗くんといる時の特別な懐かしさ。
どちらも嘘ではないけれど、確かに質が違います。
もう少し時間をかけて、じっくり考えてみます。
でも、もうすぐ答えを出さなければいけない時が来ることも分かっています。
田中先生が言ってくれたように、自分を責めずに、でも誠実に向き合おうと思います。』
未来は、医師との相談を通して、自分なりの答えを見つける方向性を掴むことができた。
選択の時は、確実に近づいている。
でも、今度は慌てず、自分の心と真剣に向き合って答えを見つけようと決意した。