アイデンティティの危機
翌朝、未来は重い気持ちで目を覚ました。昨夜、両親と長時間話し合った後も、答えは見つからなかった。
記憶を取り戻したことで、自分が誰なのかわからなくなってしまった。9歳の時の未来と、17歳の今の未来。どちらが本当の自分なのだろうか?
学校に向かう道すがら、未来は自分の気持ちと向き合おうとした。
遥斗を見ると、確かに昔の感情が蘇ってくる。彼と過ごした幸せな時間、彼への深い愛情。でも、それは9歳の時の気持ちだった。
田村を見ると、今の自分が素直に感じる恋心がある。記憶とは関係なく、彼の優しさや温かさに惹かれている。
どちらも嘘ではない。でも、どちらを選ぶべきなのか……。
「おはようございます、桜井さん」
「おはようございます、時田くん」
表面的には普通に挨拶を交わしたが、未来の心は揺れていた。この人は、自分が一番愛していた人だった。でも、今の自分にとっては……。
教室に入ると、田村がいつものように手を振ってくれた。
「おはよう、桜井」
「おはよう、田村くん」
田村の笑顔を見ていると、心が温かくなる。これは偽物ではない、確かに今の自分が感じている気持ちだった。
「今日も放課後、練習する?」
「はい、お願いします」
でも、未来の心は複雑だった。田村に対してこんな気持ちを抱いていていいのだろうか?
授業中、未来は集中できなかった。頭の中では、9歳の自分と17歳の自分が対話しているような感覚があった。
『遥斗くんは私の一番大切な人だった』
『でも、今は田村くんに惹かれている』
『遥斗くんは8年間待ってくれた』
『でも、私は変わってしまった』
昼休み、えみが心配そうに話しかけてきた。
「未来ちゃん、最近なんだか元気ないけど、大丈夫?」
「うん……ちょっと色々と考えることがあって」
「恋愛のこと?」
えみの直球な質問に、未来は苦笑した。
「そんなところかな」
「田村くんとは上手くいってるみたいだけど」
「それが……複雑なの」
「複雑って?」
未来は、記憶障害のことをえみに詳しく話したことがなかった。でも、今日は話してみたくなった。
「実は、私……」
未来は、自分の記憶障害について、そして昨日記憶が戻ったことをえみに説明した。
「え!そうだったの?全然知らなかった」
「あまり人には話してなかったから」
「それで、思い出した人って……」
「時田くん」
えみは驚いた。
「時田くん!?文芸部の?」
「うん。私たちは幼馴染だったの」
「すごい偶然……いや、偶然じゃないのか。時田くんが未来ちゃんを追いかけて編入してきたってこと?」
「そういうことになるね」
えみは、事情を理解して複雑な表情を見せた。
「それは……確かに複雑ね」
「どうしたらいいと思う?」
「うーん……」
えみは真剣に考えた。
「私は、今の未来ちゃんの気持ちを大切にした方がいいと思う」
「今の気持ち?」
「そう。過去は過去でしょ?9歳の時の気持ちと、17歳の今の気持ちは違って当然よ」
「でも、時田くんは……」
「時田くんのことは申し訳ないけど、未来ちゃんの人生よ。未来ちゃんが幸せになることが一番大切」
えみの言葉は、両親と同じだった。
放課後、文芸部の活動があった。遥斗、美桜、そして未来の三人が部室にいた。
「桜井さん、体調はいかがですか?」
遥斗が気遣って聞いてくれた。
「大丈夫です。ありがとうございます」
美桜が、二人のやり取りを不思議そうに見ていた。
「最近、お二人の雰囲気が変わったような気がします」
「そうですか?」
未来は慌てて答えた。
「なんとなく、前より親しくなったような……でも、時田先輩は相変わらず桜井先輩に優しいですし」
美桜の観察力と、さりげない嫉妬に、未来は困った。
「そんなことないと思いますが」
遥斗が答えたが、美桜は納得していないようだった。
「私、最近思うんです。時田先輩って、誰か特別な人がいるんじゃないかって」
美桜の言葉に、未来と遥斗は動揺した。
「どうしてそう思うの?」
「なんとなくですけど、いつも誰かのことを考えてるような表情をされるんです」
美桜の鋭い指摘に、遥斗は困った表情を見せた。
「そんなことは……」
「もしかして、卒業した先輩とか、他の学校の人とか?」
美桜は一生懸命推理していた。
「美桜ちゃん、そういう詮索は良くないと思うよ」
未来が慌ててフォローした。
「そうですね、すみません」
でも、美桜の表情は少し寂しそうだった。
その日の帰り道、未来は田村と一緒に歩いていた。
「桜井、例の相談の件だけど、もしよかったら話してもらえる?」
田村が優しく声をかけてきた。
「実は……とても複雑な話なの」
「どんなことでも聞くよ」
田村の真剣な表情に、未来は心を決めた。
未来は、思い切って田村に事情を話すことにした。記憶障害のこと、昨日記憶が戻ったこと、そして遥斗との関係について。
「そうだったのか……」
田村は、すべてを聞いた後、静かに言った。
「大変だったね。記憶がないまま生活するなんて、想像もできない」
「田村くんは、驚かない?」
「驚いたけど、それで君への気持ちが変わるわけじゃない」
田村の言葉に、未来は胸が熱くなった。
「でも、私……混乱してるの。過去の気持ちと、今の気持ちの間で」
「それは当然だと思う。8年間も記憶がなくて、急に思い出したんだから」
「田村くんは、私のことをどう思ってる?」
「俺は、今の君を好きになったんだ。記憶があろうがなかろうが、君は君だから」
田村の真っ直ぐな言葉に、未来は涙が出そうになった。
「ありがとう……」
「でも、無理に決断する必要はない。君が自分の気持ちを整理できるまで、俺は待ってる」
「田村くん……」
「ただ、一つだけ覚えておいて。俺は君の幸せを願ってる。それが俺じゃなくても、君が幸せならそれでいい」
田村の優しさに、未来は心が締め付けられた。
家に帰ると、母の美津子が心配そうに迎えてくれた。
「お帰りなさい。今日はどうだった?」
「田村くんに、全部話した」
「そう……どんな反応だった?」
「とても理解してくれた。でも、それがかえって辛くて」
未来は、リビングのソファに座り込んだ。
「どうして辛いの?」
「こんなに優しい人を、私は傷つけてしまうかもしれない」
「未来……」
「お母さん、私って最低ね。二人の男性の間で迷ってるなんて」
美津子は、娘の隣に座った。
「最低なんかじゃないわ。人を愛するって、時として複雑なものよ」
「でも……」
「あなたは真剣に悩んでる。それは、どちらのことも大切に思ってる証拠よ」
「どうしたらいいのか、分からない」
「焦らないで。答えは必ず見つかるから」
その夜、未来は自分の部屋で一人考えていた。
机の上には、タイムカプセルから取り出した手紙と写真が置かれている。9歳の自分が書いた「大好きです」という言葉が、まっすぐに未来を見つめていた。
でも、今日田村に話した時の気持ちも嘘ではなかった。
「私は、いったい誰を愛してるんだろう?」
未来は、答えの出ない問いを抱えて、また眠れない夜を過ごすことになった。
記憶を取り戻したことで、選択肢は増えた。でも、同時に迷いも深くなった。
9歳の自分と17歳の自分。
過去の愛と現在の愛。
どちらが本当の自分で、どちらが本当の愛なのか……。
未来は、人生で最も難しい選択を迫られていた。