時田への相談
月曜日の放課後、未来は久しぶりに文芸部の部室に向かった。最近、田村との時間が多くなって、文芸部の活動に参加できていなかった。
部室の扉を開けると、時田が一人で原稿用紙に向かっていた。
「こんにちは、時田くん」
「あ、桜井さん」
時田は顔を上げて、嬉しそうに微笑んだ。
「お疲れさまでした。今日は美桜さんは?」
「2年生の委員会活動があるそうです」
「そうなんですね」
未来は時田の隣に座った。部室には二人きり。なぜか、いつもより静かな気がした。
「最近、あまり部活に顔を出せなくて、すみません」
「いえ、体育祭の準備で忙しいんですよね」
時田は優しく答えたが、その表情に少し寂しさが混じっているような気がした。
「時田くんは、何を書いているんですか?」
「短編小説を書いています。人と人との再会をテーマにした作品です」
「再会ですか」
「はい。長い間離れていた二人が、再び出会った時の気持ちを描いてみたくて」
時田の言葉に、未来は何か特別な意味を感じた。
「どんなお話なんですか?」
「主人公の男性が、昔大切だった人と偶然再会するんです。でも、その人は彼のことを覚えていなくて……」
未来は、その設定に強く引きつけられた。
「それで、どうなるんですか?」
「それがまだ決まらないんです。主人公は、その人に昔のことを話すべきなのか、それとも新しい関係を築くべきなのか……」
時田は原稿用紙を見つめながら、まるで自分自身の問題について話しているような口調だった。
「難しい選択ですね」
「はい。でも、どちらを選んでも、その人の幸せを第一に考えなければいけないと思うんです」
時田の言葉には、深い思いやりが込められていた。
「時田くんは、とても優しい人ですね」
「そんなことないです。ただ……大切な人を傷つけたくないだけです」
その時、未来はふと思い切って聞いてみたくなった。
「時田くん、私、時田くんに相談したいことがあるんです」
「僕に?」
「はい。記憶のことなんですが……」
未来は、最近感じている記憶への興味について話した。過去を知りたい気持ち、でも同時に不安もあること。
「それで、今度の日曜日に、両親が小学校時代のことを話してくれることになったんです」
時田の表情が、微かに変わった。
「そうですか……」
「でも、正直言うと、少し怖いんです」
「怖い?」
「もし、今の自分と違う過去の自分を知ったら、どうしたらいいのか分からなくて」
未来の不安を聞いて、時田は慎重に答えた。
「桜井さん、過去を知ることで、今の自分が否定されるわけではないと思います」
「そうでしょうか?」
「はい。過去の自分も、今の自分も、どちらも本当の桜井さんです」
時田の言葉は、田村や田中医師が言っていたことと似ていた。
「みんな、同じようなことを言ってくれます」
「それは、みんなが桜井さんのことを大切に思っているからです」
「ありがとうございます」
未来は、時田に話すことで少し気持ちが軽くなった。
「それから……もう一つ相談があります」
「どんなことですか?」
「田村くんのことなんですが……」
時田の表情が、一瞬強張った。
「田村くん?」
「クラスメートの田村雄介くんです。最近、とても親しくなって……」
未来は、田村との関係について話した。映画を見に行ったこと、お互いの気持ちを確認したこと。
時田は、黙って最後まで聞いていた。
「時田くんは、どう思いますか?」
「どう思うって……」
「私、恋愛のことがよく分からないんです。これが恋愛感情なのかどうかも」
時田は、複雑な表情を見せた。
「田村くんと一緒にいる時、どんな気持ちになりますか?」
「楽しいし、安心します。自然体でいられるような気がして」
「それは……素晴らしいことですね」
時田の声には、少し震えが混じっていた。
「でも、時田くんと話している時とは、また違う感じなんです」
「違うって?」
「時田くんといると、なぜか懐かしいような、でも説明できない特別な気持ちになるんです」
時田は、未来の言葉に胸が締め付けられるような思いだった。
「それは……」
「変ですよね。初めて会った人なのに、どうしてこんな気持ちになるのか分からなくて」
時田は、答えに困った。未来に真実を話したい気持ちと、彼女を混乱させたくない気持ちの間で揺れていた。
「桜井さん、人にはそれぞれ異なる魅力があります。田村くんに感じる安心感も、僕に感じる特別な気持ちも、どちらも本当の感情だと思います」
「そうでしょうか?」
「はい。大切なのは、自分の気持ちに素直になることだと思います」
時田の言葉に、未来は少し安心した。
「ありがとうございます。時田くんに相談してよかったです」
「いえ……」
時田は、複雑な気持ちだった。未来の恋愛相談に乗ることで、自分の気持ちがより明確になってしまった。
「時田くん、私、記憶が戻ったら、今の気持ちはどうなるんでしょうか?」
「どうなるって?」
「田村くんへの気持ちも、時田くんへの気持ちも、変わってしまうのでしょうか?」
時田は、その質問に答えるのが辛かった。
「それは……分からないです。でも、どんな記憶が戻っても、今の桜井さんの気持ちは大切にしてください」
「はい」
「そして、もし混乱することがあったら、いつでも相談してください」
時田の優しさに、未来は心から感謝した。
「ありがとうございます。時田くんがいてくれて、本当に良かったです」
その言葉を聞いて、時田の胸は切なくなった。
部室を出る時、未来が振り返った。
「時田くん、小説の続き、楽しみにしています」
「はい……頑張って書いてみます」
一人になった時田は、原稿用紙を見つめた。
再会をテーマにした小説の主人公は、まさに自分自身だった。記憶を失った大切な人と再会し、でも覚えていてもらえない切なさ。
そして今、その人は別の人を好きになろうとしている。
主人公はどうするべきなのか?
時田は、込み上げてくる感情を抑えきれず、目頭が熱くなった。8年間想い続けた人に、恋愛相談をされる辛さ。愛する人の幸せを願いながらも、自分の気持ちを押し殺さなければならない切なさ。
静かに一粒の涙が頬を伝った。
時田は、ペンを握りながら考えた。
未来の幸せを第一に考えるなら、田村との恋愛を応援するべきかもしれない。
でも、過去の約束や想いを伝えたい気持ちも捨てきれない。
その夜、時田は健太に相談した。
「未来……桜井さんから、恋愛相談をされたんだ」
「恋愛相談?」
「クラスメートの田村くんという人のことを好きになったって」
健太は、友達の複雑な表情を見て、事情を察した。
「それで、お前はどう答えたんだ?」
「応援すると言った」
「本当にそれでいいのか?」
時田は、しばらく黙っていた。
「彼女が幸せならそれでいいんだ」
「でも、お前の気持ちは?」
「僕の気持ちなんて、どうでもいい」
健太は、友達の一途な想いを理解しながらも、心配になった。
「時田、もしかしたら記憶が戻るかもしれないじゃないか」
「でも、戻らないかもしれない」
「それでも、諦めるのはまだ早いんじゃないか?」
時田は、健太の言葉を聞いて少し考えた。
「健太、僕は8年間彼女のことを想い続けてきた。でも、彼女は記憶を失っている。今の彼女が、新しい人を好きになるのは自然なことだと思う」
「そうかもしれないけど……」
「僕にできることは、彼女を支えることだけだ」
健太は、友達の決意を尊重することにした。
一方、その頃未来は自分の部屋で、今日の出来事を振り返っていた。
時田に相談して、少し気持ちが整理できた気がする。
田村への気持ちも、時田への気持ちも、どちらも本当の感情なのだろう。
でも、なぜ時田といると、あんなに特別な気持ちになるのだろう?
そして、なぜ彼は再会をテーマにした小説を書いているのだろう?
まさか……
でも、そんなことがあるはずがない。
未来は、そんな考えを振り払おうとした。
明日は火曜日。文芸部の活動日だ。
時田の小説の続きを聞いてみよう。
そして、日曜日の両親との話し合いまで、あと少し。
ついに、過去の自分と対面する時が来るのだ。
その時、今の自分はどうなるのだろう?
田村への気持ちは変わるのだろうか?
時田への特別な感情の正体も分かるのだろうか?
未来は、期待と不安を胸に、眠りについた。
翌日の文芸部で、美桜が嬉しそうに話しかけてきた。
「未来先輩、昨日は時田先輩と二人きりで活動してたんですね」
「え?」
「部室から出てくるのを見たんです。何か相談でもしてたんですか?」
美桜の質問に、未来は少し困った。
「ちょっと、記憶のことで相談してたの」
「そうなんですね。時田先輩、とても親身になって聞いてくれたでしょう?」
「うん、とても優しかったよ」
「時田先輩って、本当に優しい人ですよね。私、ますます好きになっちゃいました」
美桜の屈託のない言葉に、未来は複雑な気持ちになった。
確かに、時田は優しい人だった。でも、その優しさには何か特別な理由があるような気がしてならない。
そんな疑問を抱えながら、未来は日曜日を待った。
両親との話し合いで、何かが分かるかもしれない。
時田への特別な感情の正体も、明らかになるのだろうか?
(第10章 終)