サンクチュアリ
〈角打ちは涼みの一種宵も夏 涙次〉
【ⅰ】
いつも戀してゐる、と云ふタイプの男がゐる。戀愛を一種の精神的冒険と見る、浪漫主義者か。もぐら國王などもその内に入るのだらうが、彼は朱那と云ふ終着驛に辿り着いてしまつた。すると浮氣は一切しない、「固い」男に變貌するのだから、不思議なものである。
【ⅱ】
こゝに汐見入兵と云ふ男がゐる。もぐら國王の知人である。彼は結婚詐欺師、所謂アカサギの常習犯である、不届き千万な男。同時に、先の、戀愛を一種の...云々を地で行つてゐる、戀愛中毒者であつた。
彼には憧れの人物がゐた。カンテラ事務所の杵塚春多である。彼の「ハスラー」振りの自然な事。楳ノ谷汀と云ふ大金星の戀人がありながら、他の中年女性方とも交はり、バイク購入資金・映画製作資金を稼いでいる。やり方がスマートで、厭みも後腐れも、ない。
【ⅲ】
杵塚は杵塚で、自分のやつてゐる事を、犯罪だと思つた事はない。人間には自由戀愛する権利があり、カネは飽くまで後から着いて來るもの。だが、汐見の収入を遥かに凌駕するカネを、それで得てゐるのは確かで、汐見はそこのところだうなつてゐるのか、弟子入りしてゞも勘どころを摑みたく思つてゐた...
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〈ごみ箱の一割近く拔け毛〆む嗚呼日常と云ふも可笑しや 平手みき〉
【ⅳ】
「えー弟子!? 何勘違ひしてるんだよ。俺のは戀愛で、犯罪ぢやないんだぜ」‐仲介者となつた國王はいゝ面の皮である。
「だろ? だけど汐見の奴、聞かないんだ」‐「あんまりしつこいと、カンさんに云つて斬つて貰ふからさう思へつて傳へてくれよ。國王忙しいところ、濟まないけど」‐「分かつたよ。あんたにその氣は一切なし、だと云つて置く」
【ⅴ】
杵塚はその件、カンテラに話したのだが... カンテラもさる者で「杵、惡いが一味はそんな事ぢや動かないよ。自分でだうにかしてくれ」
で、杵塚、テオに尋ねた。「テオどん、テオ・ブレイドを造つた時、余りの鋼鉄つて出た?」‐「あゝ、出たよ。それがだうかした?」‐「安保さんに頼んで、ナイフを一丁造つて貰へないかな」‐「ナイフ? 護身用かい?」‐「さうなんだ。頼むよ、この通り」杵塚が頭を下げるので、よほどの事だらうと踏んだテオ、「分かつた。安保さんに頼んどくよ」‐「有難う。恩に着るよ」
【ⅵ】
思つた通り、汐見は直接接触を圖つて來た。この手合ひはしつこいだらうと杵塚、讀んでゐたのだ。「一生のお願ひです。弟子にして下さい」こちらは土下坐である(輕々しい土下坐ほど、当てにならぬ物はない)。だが杵塚、「あんたも分からん人だな。駄目だ。映画の一本でも撮つてご覧よ。そしたら女は着いて來るから」更に杵塚、例のナイフを拔き、「俺がカンテラ一味の一員だつて事、忘れるなよ」ナイフを投げた。汐見の頰を掠めて、ナイフは後ろのステンレス製の柱に突き刺さつた。汐見の頰に血が薄く滲んだ。金属製の柱に‐ 汐見はぞつとした(勿論、腕がいゝと云ふより、ギアが良かつた譯である)。
【ⅶ】
やうやくこれで汐見は懲りた。杵塚、一夜漬けでナイフ投げの要諦を學んだ甲斐があつたのだ・笑。教則ヴィディオ代、損にはならなかつたな...
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〈口中に血の味がする暑さ哉 涙次〉
つて譯で、杵塚の「聖域」は守られた。本当に、映画の一本でも撮りや、女性にモテるだらう。それが分からない輩が多過ぎる。お仕舞ひ。