1.豚の蹄
汝、勇者たれ。
五年前、僕の前に突然やってきた魔女の最後の言葉を思い出す。
律儀にも僕はそれを守って、今この場に立っていた。
思えば、孤児院暮らしの何の変哲もないような子供に彼女は何を見出して、そう言ったのだろう。
「勇者なんて、僕が一番似合わないだろうに」
そう言って十六歳の少年、ロウイは大きな屋敷の門の側にあった立て札を見た。
『ビイルス士官学校』
ロウイは顔を上げ両開きの鉄の校門から中を覗く。
そこには社交界の場に使われているような大きな屋敷がこちらに扉を開けて待っていた。赤い煉瓦の屋根に貴重なガラスをふんだんに使った高級感ある建物だ。
ロウイは目を細めた。薄汚れた貧民街の生まれにその建物は少し眩しい。
(今日からここに通うんだよな)
校門の所で衛兵に止められ、ロウイはカバンから入学の証明書を見せる。
僕の格好を見て衛兵は眉をひそめたものの、学長のハンコが本物だと確認を終えると訝しみながらも通してくれた。
学校の敷地内にいるおそらく同級生たちであろう人たちをロウイは改めて見た。
(やっぱり浮いてるな)
女子生徒は光沢のあるドレスに羽根の刺さった帽子をかぶり、男子生徒は綺麗なシャツとズボンにコート、白い手袋と決まっている。
そんな人たちの中に汚れた薄茶色のシャツと着古したズボンのやつがいる。
(…僕だ)
一応、制服はあるものの入学式後、寮とクラスの割り当てが決まってから渡されるらしい。
(遅いよ…)
ロウイは自分の服を見下ろして摘み口を尖らせていた。
それからそれぞれの生徒に割り振られたクラスを確認する。ロウイの教室は一年一組らしい。覚えやすいな、と思いながら割り当てられた教室へと向かった。
(…ん?)
一年一組の教室の前の廊下に複数人の男子生徒がいた。扉から教室の中を覗き込んで、なにやら仲間内で騒いでいる。運営に騎士団が関わっているからか、その男子生徒達はよく鍛えられていて、額に傷跡があり、腰には剣を携えていた。体格も周りの生徒より一回り大きく、制服を着ている所から年齢は自分より一つか二つ上だと分かる。廊下を通る生徒の邪魔になっているのも気にせず、むしろそれをどこか嬉しそうにしながら談笑をしていた。
(何か用事だろうか?)
そんな彼らがロウイを見つけ、口元に薄い笑みを浮かべた。
ロウイと目が合うと彼らの目は怪しく光り挑発的な笑みはさらに深まった。
「こんな子供が勇者候補かよ」
ニヤニヤと笑いながら一人の生徒がロウイに声をかける。
彼の言った勇者候補というのはこの学校の校訓が『汝、勇者たれ』という所から来ていた。おこは勇者候補を育てる学校として広く知られていて、実際、勇者に選ばれる生徒を多く輩出していた。
「おいおい、子犬顔どうしてそんな物乞いみたいな格好してんだ」
「平民の真似事か?」
ロウイはカバンを床に下ろして彼らをまっすぐ見る。
「真似事ではなく、僕は平民です。ちゃんと試験に合格し、ここに入りました」
廊下を歩いていた人たちがそれを聞いて思わず足を止めて固まった。
先ほどの男子生徒が化け物でも見るように眉間に深い皺を寄せ表情を固くして互いに耳打ちをし始める。
それからロウイに向けて大きくため息を吐いた。
「この学校も落ちぶれたな」
「せいぜい頑張って生き残れよ子犬顔」
どうやら興醒めしたらしく彼らはそう言葉を残してそこから去っていった。
「パピーフェイスって…」
ロウイは横にあった窓ガラスに映る自分を見た。
金色の髪、大きな紫紺の瞳、確かに他の子に比べると童顔で背も低く痩せている。ただ良いものをたらふく食べられる貴族と比べれば平民など誰でもこうなるものだ。うん。そうだ、とロウイは自分に言い聞かせる。
ロウイが教室へ入ると様々な視線が集まってきた。
いかにも金持ちの息子のような少年たちが集まり小声でロウイのことを「パピーフェイス」と呼んでみたり、ロウイの場違いな服装に目を疑う生徒もいる。
「なにあの格好ー」
「この学校に似つかわしくないですわね」
クスクスと笑う声やこちらの様子を伺いながら小声で噂しているのが分かった。おおよそ良い噂話ではないだろうな、とロウイは悟る。
(まぁ良いけどね)
せっかく入ったのだ。楽しまないと損、くらいの感覚でロウイはカバンを置いて再び立ち上がった。学校の見学をするためだ。
廊下に出て、しばらく歩くと中庭に面した渡り廊下があった。
校内の床にある大理石と違い、渡り廊下はまばらな石が組み合わさった石畳になっていて、そこへ柔らかな春の日が差し込んでいる。
ロウイは少し歩いて中庭を見渡す。
(…綺麗)
中庭は春の草花が美しく咲き誇っていた。水を撒いてすぐなのか花は色鮮やかに輝いて見える。呼吸をする度、花の甘い香りがした。
まるで外の世界みたいだ、とロウイは思う。
城壁に囲われた狭い王都、さらに生活圏は薄暗い貧民街のロウイにとって魔女から教わった外の世界は憧れだった。
(もうすぐ外の世界に出ることが出来る!)
学習の一環として外へ出る授業があるらしい事をロウイは知っていた。その授業の事もここへ入った理由の一つだ。
それからまた廊下を少し進むと野外の訓練所が見える所に出た。あくまでガラス越しではあるものの、藁で作られた目標に対し剣を振る生徒の姿には迫力があった。
ふと視界に遠くで聳え立つ灰色の壁が映る。
(…城壁)
ここからでも見えるのか、とロウイはため息を吐く。
王都を囲う城壁は魔王の手先である魔物達の侵入を確かに防いでいるものの、外の世界から中の世界を隔絶するものにしていた。出入りには商人のギルドに入るか、騎士団に入るかだが、そのどちらもすぐに外へ出られるというわけでは無い。親方や師匠の元で何年もの修行が必要らしい。
(面倒事は嫌いだ)
ロウイはそろそろ時間かも、と教室へ戻るため、ゆっくりと歩き出す。
ふと、ロウイの向かう教室の周りで人だかりが出来ていた。
先ほどの男子生徒達では無い。制服では無い所からしておそらく同級生達なのだろう。ただどうもロウイのクラスメイト達ではなく、他のクラスからやってきたように見える。
何やら騒つく人々にロウイは聞き耳を立ててみた。
「彼女がカーリー家のご令嬢らしい」
「噂の女傑か」
あれが、と遠巻きに眺める男子生徒達。
あくまで貴族の息子として、政敵の調査に来ているらしい。
ただ、そういう人は少なく、多くの人は花を愛でるような目で、その噂の女子生徒を見つめていた。
「なんと麗しい」
「お綺麗な…」
歩く度、彼女のシルクのような白くて長い髪と聖杯を逆さにしたような金色のドレスの裾が揺れていた。
白く透き通るような肌に真っ直ぐ伸びた背筋、スラッとした高い身長に凛々しい顔立ち。一直線に結ばれた口を彩る艶やかな赤い口紅。
確かに女傑、そのご令嬢というのも頷ける容姿をしている。彼女には何やら人を近づけさせないオーラがあって現に誰も彼女に話しかけていない。
「薔薇のような人」
そんな誰かの呟きが聞こえた。
(…女傑か。面白そうだ)
ロウイは彼女の後に続いて教室へと入る。
偶然にも、彼女はロウイの席の隣に座った。
クラスメイトだというのに教室の人々は中々彼女に近付こうとしない。彼女の方を見ながら遠巻きにヒソヒソと何やら近い者同士話をしている。
「おはよう!」
ロウイは自分の席に座り隣の彼女へ挨拶をする。貧民街育ちのロウイにとって薔薇の棘の痛みより好奇心の方が勝つ。
彼女の琥珀のような黄色の瞳がロウイを見つめる。その目にはロウイの興味津々な表情が映っていた。
「おはようございます」
落ち着いた声で彼女はロウイの方を見て軽く頭を下げる。それに合わせて白い髪がとろけるように動く。おおっと遠くから歓声のような声が聞こえてきた。
「はじめまして、僕はロウイって言います。お名前聞いても良いですか?」
「ロウイさん、ですね。はじめまして、私はロトュス伯爵令嬢。リュエル・カーリー。気軽にリュエルと呼んでください」
「リュエル、か。よろしくね」
頷いて手を差し出すロウイ。教室が小さくどよめいていた。どうするのだろう、と二人に好機の目が集う。
その時、不意にどこからか誰かの吐き捨てるように言った声が聞こえてきた。
「人と豚が握手をするようなものだろ」
その声を聞いてロウイは自分の手を見下ろす。その手に豚の蹄はついていない。
それでも場違いな行為であったのだろう、と引っ込めようとしたロウイの手をリュエルはしっかりと握った。
「はい。これから同じ教室の仲間として、よろしくおねがいします」
ロウイは繋がれた手を見る。ロウイの曇っていた表情が花開くように晴れやかな表情へと変わって、顔を上げた。
「うんっ! よろしく!」
それを見ていたクラスメイトの反応は様々で、流石、とリュエルを褒め称える者もいれば、舌打ちをする者もいる。
ロウイはその反応に退屈はどうやらしなそうだ、と余裕そうにほくそ笑んだ。
この時のロウイはまだ今日から始まった首席での卒業を目指す争いに巻き込まれるとは想像すらしていないのである。