気づいたこと
気づいたらわたしはこの世界にいた。
それが当たり前だった。
おそらく多くの日本人にとって非日常である文化は、わたしにとっては日常だった。
サンバは、わたしが共に歩んできた人生そのものだ。
サンバチーム『ソール・エ・エストレーラ』は、わたしのおじいちゃんの文樹利一を含めた、七人のメンバーが立ち上げたサークルだ。
『ソルエス』の略称で呼ばれている。
サンバチームは『エスコーラ』や『ブロコ』と呼ばれる。
おじいちゃんは駅の南に伸びる商店街『サンロード商店街』でお茶屋さんをやっている。
喫茶店ではなく、茶葉や茶器を売るお店だ。お茶請け用の和菓子も扱っていた。
和菓子やお茶を楽しむちょっとした飲食コーナーもあるが商品を試す程度の機能で、長居してお茶を楽しむような体裁ではない。あくまでも物販のお店だ。
商店街ではかなりの老舗に入る店舗だった。それなりに顔も利いて、発言力もあったおじいちゃんは、駅から北に伸びる『スターロード商店街』との関係が悪化した時に、『サンロード商店街』側の代表のひとりとして、関係改善と、関係悪化のきっかけとなった両商店街の衰退を防ぐ目的のプロジェクトに携わった。
プロジェクトは、南北の代表七人で取り仕切られ、目玉のイベントとして両商店街主催の『サンスターまつり』を開催するというものだった。
そのお祭りを盛り上げるために、賑やかしやパフォーマンスをするサンバチーム『ソルエス』も、その七人の手で立ち上げられたのだった。
立ち上げメンバーのひとりであるおじいちゃんは当然、娘だった文樹茉瑠、わたしのママもメンバーになった。
だから当たり前のようにわたしも生まれた時からチームに出入りしていた。(記憶にはないが、二歳の頃にダンサーとして正式に所属したらしい)
サンバと聞くと、ビキニのような衣装に羽根のついた露出度の高い女性ダンサーのイメージを持つ人が多いと思う。それは間違いではない。が、サンバはダンサーだけではない。
ダンサーと同じくらい打楽器隊も重要だ。打楽器隊は『バテリア』という。おじいちゃんはバテリアで、軽やかな金属音を鳴らす『ショカーリョ』という楽器を担当していた。
ビキニのような衣装は『タンガ』と言い、羽根の付いた背負子を『コステイロ』、頭の飾りは『カベッサ』と言う。
それらを身につけたサンバダンサーの中で、特に技巧派のダンサーを『パシスタ』と言うのだ。技巧派の定義は難しいが、サンバの基本ステップである『サンバ・ノ・ペ』(単に『ノペ』ということもある)をマスターし、表情や身体全体を使って曲を表現できるダンサーは、パシスタと言えるだろう。
ママはパシスタだ。二十歳でわたしを産んだママはまだ若く、今も現役である。
わたしはダンサーとしてソルエスに参加していた。子どものダンサーは『クリアンサス』と呼ばれている。