op.11 孤独の中の神の祝福(12)
翌朝。
孤児院を訪ねたヴィオとソルヴェーグをリチェルはシスター・テレーザと一緒に迎えた。テレーザへの挨拶もそこそこに資料室へ向かうと、ヴィオに『大丈夫だったか?』と尋ねられる。
「うん。大丈夫だったわ」
実際のところあまり眠れてはいない。昨日マルタと話した内容を考えていたから、眠ったのはまた明け方になっていた気がする。じっと見ていたら気づかれる気がして、リチェルはすぐにヴィオ達に背を向けた。
「ここからここまでは確認したの。でもそういった書簡は見つからなくて、今日のお昼までにこの山を調べたらもう諦めようかって思って」
紙の束を指差しながらそう説明していると、コンコンと資料室がノックされた。
「はい」
ガチャリと扉が開く。
その向こうに立っていたのは仏頂面のマルタで、手には何か薄い本のようなものを提げていた。
「おはようございます。昨日は過分な寄付品をありがとうございます。勉強する紙とペンが足りなくて困っていたのです。子ども達がとても喜んでいました」
淡々とそう口にして、マルタはヴィオとソルヴェーグに深く頭を下げた。そして返
事も聞かずに、今度はくるりとリチェルの方を向いた。
「マルタ……」
「手」
「え?」
「手、出して」
言われるままにリチェルが手を出すと、パサリと薄い冊子がのせられた。呆然として冊子を手にとる。表紙はない。紙束を適当に綴じただけのものだ。恐る恐るマルタを見上げると、マルタが鼻を鳴らす。
「それ。シスター・ロザリアの手記よ」
「え⁉︎」
息を呑んでもう一度紙の束を見る。パラパラとめくると、確かにその筆跡にリチェルは見覚えがあった。
「シスター・ロザリアがあの倉庫みたいな酷い場所に隔離されてから、死ぬ三日前までの約二ヶ月間の日記。……半分以上、貴女のことが書いてる」
「どうして……そんな」
「私もシスターになってから見つけたの。シスター・テレーザがずぼらで助かったわね。几帳面な人だったら処分されていたと思うわ」
ハキハキとした口調は何か吹っ切れたようだった。ポカンとしてマルタを見ると、ハア、と呆れたようにため息をつかれた。
(あ……)
このマルタの態度は、覚えがある。まだシスター・ロザリアが生きていた頃、マルタはリチェルに対してこんな風だった。
「その中に、貴女のお父さんの記述があるわ」
「え⁉︎」
「さっきから、え、しか言ってないわよリチェル。探すの面倒くさいだろうから手短に言うわね。場所はクレモナ州カステルシルヴァ。信じられないなら10月23日の日記を読めばいいわ。死ぬまでは毎年この辺りに貴女のお父さん、孤児院に寄付をしていたみたい。大層律儀な人だったそうよ」
早口で捲し立てる内容は、きっとこの手記のものだ。
リチェルにだって分かる。
一体何度繰り返し読めば、そんな事を覚えていられるのだろう。綴じられた紙は、後できっとマルタがまとめたものだろう。大事に、傷がつかないように保管していたのだと、すぐに分かる。持って帰っていいわよ、とマルタが言う。
「マルタ、ありが……」
「お礼言わないで」
ピシャリと言われた。
「勘違いしてたお詫びよ。これで当初の目的は完遂? じゃあ晴れて帰れるわね。この倉庫どうせ何がどこにあるかなんて誰も分かってないから、片付けなくてもいいわ。どうぞお帰りになって?」
サバサバとした、遠慮のない物言いはどこか懐かしくて、気付けばクスクスとリチェルは笑っていた。
「何?」
「ううん。久々にマルタと会えた気がしたの。嬉しくて」
「……私、貴女のそう言うとこ本当嫌い」
ハア、とため息をつくと『一つだけ、お願いがあるの』とマルタは真面目な声で呟いた。
「何?」
「読んでも、シスターを嫌いにならないであげて。貴女に嫌われるのが、きっとシスターは一番辛いから」
どうしてか、そんな訳がない、と言えなかった。軽々しくそう言えない重みが、マルタの口調から滲んでいたから。『では、失礼します』と頭を下げてマルタはさっさと出て行こうとする。
「あ、もうひとつ忘れてたわ」
と、不意にピタリと立ち止まってマルタは顔だけリチェルを振り返った。
「昨日みたいにフニャフニャ泣くの、私にじゃなくてお隣の方にすれば? 一緒にいる方にお話しした方が建設的だと思うのだけど」
「……っっ! マルタ!」
悲鳴のような声が出た。
マルタはフンと鼻を鳴らして、今度こそパタンと扉を閉めて行ってしまった。
シスターの手記を握りしめたまま、リチェルは黙り込む。後ろを向くのが怖かった。頬に熱が集まっているのが分かる。
「リチェル?」
「…………」
後ろから聞こえた声に、リチェルは思わず手に持った手記で顔を覆う。
「……聞かなかったことに、してもらえませんか?」
羞恥を押し殺して、そう必死にお願いするのが精一杯だった。
◇
二階の窓から、リチェル達が孤児院を出ていくのをじっと見ていた。
パウロやロゼがリチェルとの別れを惜しんでいるのが、遠目に見ても分かった。どれだけマルタが嫌ったところで、リチェルが周りのみんなに好かれる人間であることはこれっぽっちも変わらないのだ。
だけど──。
『だってシスターのこと、忘れてたもの……っ!』
悲痛な声だった。
『寒いから眠っちゃダメかなとか、明日はご飯もらえるかな、とか。どうか見つかりませんように、とか。毎日、そんなことばっかり……』
拠り所のない子どものような、幼い声だった。
(シスター・ロザリアは、リチェルのことをちょっと神聖視しすぎじゃないかしら)
あの子は、ただ優しいだけの女の子だった。
罪悪感に潰されて泣いてしまうような、そんな子だ。
それを自分がちゃんと知っていることに、悪い気はしなかった。
(私は貴女のことが嫌いだけど──)
幼い頃、貴女というただ優しいだけの女の子がそばにいたことをこれからもきっと忘れないと思う。
「どうか貴女の道行きが幸いでありますように──」
小さな声で呟いた。
それは古い友人に捧げる、最初で最後の祈りだった。
◇
マルタの言った通り、シスター・ロザリアの手記には、リチェルの父親のことが書かれていた。毎年カステルシルヴァから届く細やかな寄付金は、リチェルの父親が必ず引き取ると約束した証のようなものだったと。
『ならリチェルの行き先もクレモナだな。アルの店に少し寄って、すぐに向かってかまわないか?』
そう聞かれて、リチェルはもちろんと頷いた。
朝の内にラクアツィアを出ることができたのが幸いして、その日の夜にはカスタニェーレの近くまで来ることができた。夜間にアルの家を尋ねるのは流石に迷惑だろうからと、隣町に宿に一晩滞在することになった。
宿の一室で、リチェルはマルタから預かった手記をめくった。
日記はシスター・ロザリアが部屋を移された、十月八日から始まっていた。
『読んでも、シスターを嫌いにならないであげて』
そうマルタが言っていた意味が、少しだけリチェルにも分かった。
日記に書かれる、まるで懺悔のような言葉は、リチェルの知っているシスターとは全然違っていた。
正しい言葉を口にする人だと思っていた。
祈りの言葉を、希望を、息をするように紡げる人だと思っていた。
だけど手記の中身は、迷いと、葛藤と、懺悔のような言葉がとめどなく綴られている。
『 この子が汚れてしまえば、本当に美しいものなど存在しないのではないかと思ってしまう 』
そんな美しい心など持っていない。リチェルはただの幼い少女で、教えられた通りに、誰かに優しくしただけだ。
『 あの子の無垢は、私にとって最後の救いだったから。
それを損なうことが恐ろしかった 』
そんな立派なものじゃない。嵐に翻弄される、小船のようなものだ。損なう時は、きっと容赦なく崩れるのだろう。
『 だから代わりに、私は呪いを口にした。
いつかあの子が千々に傷つくことがわかって、あの子に呪いをかけたのだ 』
だけど、と思う。
たとえシスターが呪いだと思って口にしたとしても、リチェルはシスター・ロザリアの言葉を信じたのだ。
『貴女は、人の善き行いを愛しなさい』
人の善意を信じ──。
『どんなに辛くても、他人の罪を赦し、他人に優しくするのです』
他人の悪意を赦し──。
『決して他人を憎まず、生きなさい──』
誰かを憎むことなく、生きてきたのだ。
「だから、ヴィオに出会えたの……」
それだけは、揺るぎない真実だった。
ぽつ、ぽつと、床に涙が滲んでいく。昨日から泣いてばかりだ。だけど、止まらなかった。
「呪いなんかじゃ、ないわ……」
シスター。と声にならない声で、リチェルはその名を呼んだ。
「呪いなんかじゃなかった……っ」
貴女がその言葉をなんと呼ぼうと、絶対に否定させない。リチェルにとって、シスター・ロザリアの言葉は嵐の中の道しるべだった。
辛くて、苦しくて、例え全てを忘れてしまっても。
ただそれだけは覚えていたから、ここまで来れたのだ。
「シスター……っ」
嗚咽が漏れる。
手記を抱きしめて、リチェルは泣いた。
貴女にもう一度会いたかった。貴女の言葉のおかげで今があるのだと、伝えたかった。
『リチェル』優しく名を呼ぶその声を。
『ダメですよ』と穏やかに叱ってくれた思い出を、もう二度と取りこぼしはしない。
「どんなに、辛くても……」
辛いことはいつか終わる。だけど神の恵みは命ある限り続くのだ。どれだけ嘆き悲しんだとしても、いつか喜びがやってくる。
「人を、愛して、生きなさい──」
シスターの教えを繰り返す。
「どんなに辛くても……」
きっと夜は明けるから。
静かに目を瞑る。浅く呼吸を繰り返す。
それならいつかきっと、自分の痛みも無くなるのだろう。
(だったら、わたしは)
瞼の裏に浮かぶのは、自分に手を差し伸べてくれた青年の姿で。
貴方の幸せを愛して生きていたいと、心から思うのです。
(──ヴィオ)
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次週は土曜日のみの更新です。





