op.01 昔、一人の旅人が(8)
その歌を聞いたのは、今からもう一年も前のことだ。
デニスは昔から耳が良い方だ。上流階級の嗜みでヴァイオリンを習ってはいたものの、すぐやめたのは自分の音が演奏家の奏でる音より随分陳腐なことに早々に気付いたからだ。
宿の裏手にある小さな丘だった。
下水の臭いに顔をしかめ、それでも向かったのはその歌があまりに綺麗な声だったから。
もちろん初めはその歌い手と家にいる孤児が同一人物だなんて分からなかった。使用人の顔なんていちいち覚えていない。どこの所属だと後をつけたら自分の家にたどり着いてしまったのだから、その時の驚きは相当だった。
どんな娘だろうと気になって話しかけにいった時には心底ガッカリした。感情を映さない無機質な表情は、丘の上で歌っていた時とは似ても似つかない。
それでも歌っていたのはこの娘だ。
あの時、あの丘で。
耳に届いた美しい旋律を、デニスは忘れたことはない。
イルザの代わりにリチェルを歌姫に据える。
言ってみて、我ながら名案だと思った。
『お前なら代わり、務まるよ』
本心だった。リチェルなら代わりは務まる。練習期間は必要だ。だけど大丈夫だとデニスの勘が言っている。
笑い出したくなった。
脳裏にチラつくのは今日見たヴァイオリンの男とリチェルの光景だ。同じ部屋にいたのかと思うだけでムシャクシャする。
でもこんな紙切れ一つでポッと出てきた男になびくなら、リチェルはきっとなびくはずだ。
ゆらゆら揺れる瞳は春の陽光に照らされた若葉のようだ。それをガラにもなく綺麗だ、とデニスは思った。
あの男に見せたみたいに笑ってくれるなら、今までの無礼を許してやったっていいんだ。と何故かそう思った。
だから──。
『……や、です』
フルフルとリチェルが首を振る。泣きそうになりながら、何度も首を振っていやだと、繰り返す。
『そんなの、絶対に嫌です!!』
だから、それはデニスにとって明確な裏切りだった。
掴もうとした手は空を切って、リチェルは玄関からバタバタと外へと走っていってしまう。
どうして、と思った。先ほどよりずっと根の深い怒りが心の底から沸き出してくる。奥歯を噛み締めて何でだよ、と呻いた。
考えうる限り最上のものを提示してやったのだ。喜びこそすれ、どうして拒むことがある?
諦める気はなかった。
こうなったら泣こうが喚こうが舞台に引きずり出してやる、と心に決めた。
舞台に立てばきっと気も変わる。いつかは泣いて感謝するだろう。しなければ、そんなのは嘘だ。
「坊っちゃま! お待ちください坊っちゃま!」
「うるさい! 黙れよ!」
お父様は執務中です、と告げる使用人の声を振り切って、執務室の扉を開いた。父は仕事関係の書類を処理していたようで、ノックもせずに入ってきたデニスを見ると分かりやすく顔を顰めた。
「デニス。何の用だ」
入った瞬間空気がピリッと緊張感を持つ。きっといつものデニスならこの時点で居住まいを正していただろう。だけど今のデニスはそんな事はどうでもよかった。
「楽団の事で話がある」
「後にしろ。今は忙しい」
「今がいいんだ!」
そう叫ぶと父は眉間の皺を深くした。
感情的ではあるが、聞いてもらえる算段はあって来た。父は厳格だが、兄とは年の離れた自分には甘い。その証拠にイライラとしながらも、結局深く息をついて父はペンを下ろした。手短にな、と告げられた言葉にパッとデニスは表情を明るくする。
「今になって楽団に所属したくなったのか」
「まさか。オレ演奏の方はからきしだよ。そうじゃなくて、最近楽団の評判もガタ落ちだろ。例のヴァイオリン騒動もあったしさ」
「……アレか」
父は祖父とは対照的で生真面目で厳格な人物だ。実務は優秀だが芸術方面には疎く、楽団もベルガー氏に任せきり。だが楽団に、つまりクライネルト家に苦情が来たことは流石に耳に入っていたらしい。
「だから環境を少し変えたほうが良いと思うんだ。目新しさがあれば、そっぽ向いた連中も連れ戻せるかもしれない」
「具体的には?」
「イルザだよ。父様も扱いに困ってただろ」
「イルザがどうした?」
「代わりがいるんだ。イルザよりうまいよ」
一瞬、父が言葉に詰まった。それをチャンスだと捉えてデニスはさらに踏み込んだ。
「お祖父様が連れてきた孤児がいるだろ。雑用係。アイツ雑用係じゃないよ、お祖父様だってそのつもりで連れてきたんだ」
「……あぁ」
返事には間があった。きっと父の中ではほとんど存在は無いものとされていたのだろう。デニスに言われてようやく思い出したのだ。
「しかもイルザより大人しいし、でしゃばる事もない。同じ孤児なら従順な方にすげ替えたほうが良い。それに、まぁ見てくれも悪くないし」
自然にスルリと出てきた言葉だった。だが心中で頷く。そう、見てくれも悪くない。いつからその事に自分が気付いていたかは、デニスの自覚するところではなかった。
「…………」
父は何か考えこんでいるようだった。父が考え込むときは、きちんと考慮してくれているということだ。きっと実現出来るのかの算段を立てているのだろう。いける、と確信した瞬間、父が顔を上げた。
「……デニス」
低い、声だった。
おかしい、と思う。ここでデニスを呼ぶ声はもっと違う種類のもののはずだ。そんな呆れたような声じゃなくて、もっと、違う。違うはずだ。
ついで父は深くため息をついた。まるでデニスの言ってきた事を予期していたみたいだ。
「……アレの言う通りだったか。お前があの孤児に入れ込んでいるというのは」
「え?」
アレとは、誰だ?
困惑するデニスに、父は真っ直ぐに向き直る。
「デニス。お前は次男だが、クライネルトの息子だ。若い内の火遊びは多少は目を瞑るつもりだったが、世間体もある。あんな孤児に入れ込むのは流石に自覚が足りない証拠だ」
「違う、違います! 父様、オレは……!」
「もう下がりなさい。手短に、という話だっただろう」
その時コンコン、と軽いノックの音が響いた。
「当主様、入っても?」
美しい女の声だった。奥深いアルト。ついで入ってきた人物の姿を見ずとも、デニスは声でそれ誰かが分かった。
「あら、坊っちゃま。もしかしてお邪魔でした?」
出直しましょうか、と艶然とイルザは微笑む。
「いや、終わった所だ。デニス、もう行きなさい」
有無を言わせない口調だった。何よりイルザはいつから二人の会話を聞いていたのだろう。デニスを見るイルザの瞳には一片の苛立ちも見えない。余裕のある態度で礼すら取って見せる楽団の歌姫に、デニスは沈黙するしかない。
「失礼、しました……」
かろうじてそう絞り出して、デニスは退出する。
少しも思い通りに進まなかった事に苛立っても良いはずなのに、そのことに怒りは湧いてこない。代わりに沸くのは別の怒りだ。
(入れ込んでいる? 自分が?)
馬鹿らしい、と吐き捨てる。自分が孤児に入れ込むはずがない。そんなのは侮辱以外の何者でもない。父様だって言って良いことと悪い事がある、とデニスは悔しさに歯噛みする。
だがそれではどうして。
自分はあの娘を楽団の歌姫に仕立て上げたいと思ったのか。
(気まぐれだ。それ以外の何者でもない)
大体、リチェルだって断った。
なら何も変わらない。これまで通り、屋敷のドブをさらっていればいい。泥にまみれて、己の選択を後悔すればいいのだ。
(そうだ、絶対後悔させてやる……)
自分に言い聞かせて、デニスは自室へと重い足を引きずっていった。
◇
デニスとの悶着があったその日、怖いくらいにリチェルの一日はいつも通り過ぎた。
いつもと違ったのは、イルザが帰ってこなかった事だ。顔を見るときっと動揺してしまうから、少しホッとした。
寝床で薄い布にくるまってゆっくりと目を閉じる。
これでいい、と思う。
誰かを蹴落としてまで何かを願うことは、リチェルには到底出来ない。
リチェルが屋敷へ呼び出されたのは翌朝のことだった。