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【完結】Harmonia ー或る孤独な少女と侯国のヴァイオリン弾きー  作者: 原案・絵:若野未森、文:雪葉あをい
第3章
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op.11 孤独の中の神の祝福(5)

 ドアを閉めて院長室へと向かおうとして、リチェルはふと廊下にたたずむ人影に気付いた。


「……マルタ?」


 それは壁に背を向けて立っているマルタだった。

 だけどこちらを見る瞳には憎悪にも似た感情がこもっている。思わずビクリと身をすくませる。


「随分お綺麗なことを言ってくれるじゃない」

「え?」


 思わず聞き返す。だがマルタの差しているのはひとつしかない。恐らく先ほどのパウロとのことを言っているのだ。


「嘘ばっかり言って。出ていった先で幸せかなんて、誰にもわからないのに」

「それは、そうかもしれないけど」


 キュッと唇を結ぶ。


「分からないけど、分からないなら尚更、送る側が信じてあげないと……っ」


 不安になる。

 ただでさえ知らないところに行くのに、不安だけを抱えていくなんてあんまりだ。

 マルタが舌打ちする。


「そりゃ、そんなご立派な格好をして帰ってきたら、聖人を気取りたくもなるわよね」

「……そんなつもりじゃ!」

「じゃあどんなつもり?」


 尋ねる声は明らかに敵意がこもっていた。


「貴女、よそ者じゃない。もう関係ないでしょ? 今更わたし幸せです、って見せびらかしにきたの?」

「そんな訳……!」

「ないならこんな所に来ないでよ……っ。そうしたら、私だって、こんな……」


 その声がまるで泣き出しそうな声で、リチェルは『マルタ?』とかつて短くはない時間を一緒に過ごした少女の名前を呼ぶ。


「どうしたの……?」


 口から出た言葉にキュッとマルタが口元を引き結んだ。


「どうして、あなたはそう……っ」


 ツカツカと歩み寄ってきたマルタが乱暴に胸ぐらを掴んでリチェルを引き寄せる。そのまま音を立てて壁に叩きつけられた。


「……っ!」

「そうやって上から他人の心配ばっかりする所も変わらないのね。聖女気取りの、偽善の塊みたいだったものね。貴女」


 貴女がそんなんだから……、と振り絞るようにギリっとマルタが奥歯を噛み締める。リチェルの首元を掴むマルタの両手の力がこもった。


「貴女がそんなんだから……っ、シスター・ロザリアはあんなに嫌われて死んでいったんだわ……!」

「……!」


 その名前に、雷を落とされた心地がした。


『リチェル』


 優しい声が、耳の裏に蘇る。


『私が赦しているのです。だから貴女が怒ってはいけませんよ』


 穏やかにたしなめる声は、女性にしては少し低い声だった。だけどその声の奥底に、幾重にも重ねられた愛情がいつだって感じられた。


『リチェル。これから生きていく上で、きっと辛いことがたくさん待っているでしょう。だけどリチェル。貴女は──』


 胸ぐらを掴んでいた手が不意に緩んだ。マルタが不可解な顔でリチェルを見下ろしている。

 呼吸が浅くなっているのが自分でも分かった。


「……リチェル?」

「あ……」


 じわりと、マルタの姿が歪んだ。浅い呼吸が、引きつったように喉の奥で鳴っている。


「……シス、ター」


 シスター・ロザリア。

 その名前を、どうして今まで忘れていたのだろう。


 リチェルを孤児院に引き取り愛情を持って育ててくれた、ただ一人の人。リチェルが十一歳の頃に病気で亡くなった、とてもとても大事な人。

 それなのに──。


「リチェ……、きゃっ⁉︎」


 マルタの悲鳴とともに、急に首元が軽くなって顔を上げる。

 物音を聞いて部屋から出てきたのだろう。強引にマルタの手をリチェルから引き剥がしたヴィオと目があった。


「何をしてる?」


 マルタに問いかけるヴィオの声は、聞いた事がないくらい冷え冷えとしていた。ビクリと一瞬肩を震わせたマルタは、次には唇を噛んで半ば強引に手首を掴むヴィオの手を振り払った。


「ちょっと待て!」

「ヴィオ! いいの!」


 たまらず叫んだ。


 リチェルの声にヴィオが止まる。その間にマルタは身を翻すと、廊下をパタパタと走っていった。


「いいの……っ」


 お願い、いいの。ヴィオ、ごめんなさい。小さく、何度もそう繰り返す。


 遅れて部屋から出てきたソルヴェーグがハンカチを差し出してくれた。少し迷って、だけどお礼を言って受け取る。

 ふらついたリチェルの肩をヴィオが支えるように抱き寄せた。


「一旦町へ降りよう。後のことはそれから考える。ソルヴェーグ、院長に一旦町へ下りると伝えてくれるか?」

「かしこまりました」


 ソルヴェーグが一礼して、その場を離れる。

 待って、と声が出そうになった。ヴィオの手は、リチェルを支えるように肩を抱いたままだ。いけない、と頭の片隅で思って離れようとしたけれど、ヴィオは手を離そうとはしなかった。


「リチェル、大丈夫か?」

「……うん、大丈夫」


 覗き込んだヴィオの顔が気遣うような表情で、思い出したようにリチェルは涙を拭う。肩にかかる手はこんな時ですら温かくて、心地よかった。それがどれほど罪深いことか。


 先程のマルタの言葉が頭の中で鳴っていた。


(どうして──)


 どうして忘れていられたのだろう。

 そう、もう一度心中で繰り返す。


(こんなの、マルタが怒って当たり前だわ……)


 うつむいた瞳から、もう一雫、涙がこぼれ落ちた。

 

 

 

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