op.11 孤独の中の神の祝福(2)
院長の所へはすぐに案内してもらえた。
部屋を訪ねる前に『院長は、以前と変わってはいないの?』とリチェルが尋ねると、マルタに怪訝な顔をされた。だけど、変わってないわよ、と短く答えると、マルタが院長室の戸を叩く。
マルタが事情を説明してもらう間、リチェル達は部屋の外で待っていた。時たま廊下の脇から子ども達が覗き見しているのが見えた。ロゼやパウロのような年長組ではなく、大体のことが自分でこなせる八歳〜十歳くらいの子達が中心だ。視線に気づいて、リチェルが笑って手を振ると、リスみたいに壁の向こうに慌てて引っ込んだ。
「あの子達は?」
ヴィオに尋ねられて、リチェルは微かに笑って答える。
「お客様が珍しいの。ヴィオやソルヴェーグさんみたいなきちんとした方が見えられるのは特に珍しくて、今頃ちょっとした事件になっているんじゃないかしら」
壁の向こう側ではきっと作戦会議中だろう。その様子を想像すると少しおかしい。
お客様自体が珍しい孤児院では、知らない人が来るとその話題で持ちきりになる。起床から就寝まで、規則正しく設定された一日のスケジュール。そんな毎日に変化をつけるイベントは、みんな大歓迎だった。
「わたしたちの世界は、この建物で閉じていたから」
何気なく零した言葉に、ヴィオが微かに息を呑んだ。その事に気づいて、ごめんなさい、と反射的に口にする。
「あの、別に、悪い意味で言っている訳ではないの。それが当たり前の事だったから、その……」
「いや。謝らないでくれ。リチェルが謝るようなことは何も……」
ヴィオがそう言いかけた時、マルタが入っていた扉が開いた。外へ出てくると、マルタは軽く礼をして『応接室へご案内します』とヴィオ達を別室へ促した。
応接室は孤児の引き取り手を主として外部の人間と話すための部屋で、リチェルも数えるほどしか入った事がない。調度品は孤児院の中にある中でも質の良い物が使われていて、遠い昔はこの部屋だけまるで別の建物のように感じたのを思い出した。それなのに。
(あれ?)
こんなに狭かっただろうか、とリチェルは思う。
当時の記憶だとこの部屋とても広くて、上品に思えたのに、今は普通の部屋のように思える。不思議に思って、だけど気付く。
きっとそれは、リチェルが外の世界を知ったからだ。色んな場所を旅して、色んな物を見聞きしたから、きっともうこの場所が特別に思えないのだ。
「失礼します」
しばらく待っていると、修道服を身につけた一人の修道女が部屋に入ってきた。三十代後半くらいの年齢で、その顔にリチェルは確かに見覚えがあった。
「お待たせしております」
上品に礼をし、修道女が口を開く。
「私はこちらの孤児院の院長をしております、テレーザと申します。本日は遠くから良くお越しくださいました」
その言葉に引っ掛かりを覚えた。ヴィオはまだどこから来たとも話していないのに、どうして遠くからと分かるのだろう。
挨拶を済ませると、テレーザはリチェルの顔を見て、これ以上ない嬉しそうな表情を浮かべた。わざとらしいくらいに優しい声が、リチェルの名前を呼ぶ。
「リチェル。あぁ、こんなに立派になって帰ってきて。元気にやっていたのね。もう貴女が引き取られてから四年も経つのかしら。あっという間だわ」
「…………お久しぶりです。シスター・テレーザ」
どうしてか、向けられる手を取る気になれなくて、リチェルはスカートの裾を持ち上げると丁寧にお辞儀をした。テレーザはリチェルが手を取らなかったことは特に気にならなかったらしく、リチェルの所作に『まあ』とまた微笑ましいものを見るように両手を合わせて笑った。
「良いわ、かけてちょうだい。お客様のお名前をお伺いしておりませんでした。お名前を伺っても?」
「失礼しました。ヴィオ・ローデンヴァルトと申します」
「ソフィアン・ソルヴェーグと申します」
名乗られた名前にぱちぱちとテレーザは目を瞬かせる。恐らく想像していた名前と違ったのだろう。
「あら、今はリチェルはどちらでお世話に? 確か貴女を引き取られたのは……」
「……」
「クライネルトの当主ですね」
リチェルが不自然に言葉に詰まる前に、ヴィオが後を引き取った。
「そう、クライネルト! とても立派な御仁でしたわ。確か貴女の歌をお認めになったのじゃなかったかしら。リチェルは今も歌っているの?」
他意のない質問だ。
そう思っていても、心がザワつくのを感じた。
満足な毛布もなく寒さに凍えた夜も。
理不尽に振るわれた暴力も。
孤児院の事は頑張らないと思い出せないのに、クライネルトの日々は一瞬でフラッシュバックした。ヴィオと旅を始めて少しずつ思い出さなくなっていたのに。
何か言わなければと思うのに、口の中が酷く乾く。
震える唇を開こうとしたリチェルの肩に、ヴィオがそっと手を置いた。
「……ぁ」
戸惑ったようにヴィオの方を見ると、ヴィオはリチェルの事を見ずに口を開く。
「リチェルは事情があって、今は私が預かっています。クライネルトとはもう無関係だと考えていただければ」
不甲斐ないと思いながらも、ヴィオがそう言ってくれたことにホッとした。
リチェルの様子とヴィオのはっきりとした口調に何か察するものがあったのだろう。
『あら、そうなのですね』とテレーザは曖昧に笑って、それ以上追求しようとはしなかった。代わりに笑みを貼り付けたまま、問いかける。
「それなら、本日はどんな御用で?」
「それは……」
「父の、事を教えていただきたくて」
ヴィオの声を遮って、リチェルは口を開いた。自分のことなのに全てをヴィオに任せるわけにはいかない。驚いたようにテレーザがリチェルを見る。
「わたしを直接父から受け取ってくださったのはシスター・テレーザではないと思いますが、当時父はわたしのことを引き取りに来ると言っていたと以前の院長からお聞きした事があります。この……」
巻いていたショールを外すと手元に丸める。
「このショールは、母のものだったのではないかと思って。わたしが八つの時に孤児院に父が死んだ連絡が入ったのであれば、その連絡がどこから入ったか、教えていただく事はできないでしょうか」
リチェルの問いに、テレーザは驚いたように目を瞬かせていた。それくらいリチェルの問いは予想外だったのだろう。戸惑ったような間をあけて、そうですね、とテレーザは微かに身じろぎする。
「私から今貴女に伝えられることはないのが、正直な所です。孤児院に届いた書簡はまとめて保管してあるので、探せばお父様の手紙も見つからないわけではないと思うけれど、リチェルも知っての通り、うちはいつでも人手不足なものですから」
そう言って片頬に手を当てると、テレーザがため息をつく。
「最近預けられる子ども達の数も増えているのよ、リチェル。貴女、孤児院の中は見てきて?」
「……はい、少しですが」
「なら気付いたわね。年長は今パウロとロゼの二人なの。もうすぐパウロは出ていってしまうし、幼い子達は増えてばかり。シスター・アニェーゼの手もいっぱいで本来のお役目が疎かになるくらいなのです」
シスター・アニェーゼがマルタのことだという事は分かりますね? と聞かれてリチェルは戸惑いながら頷く。マルタの修道名だろう。
だが同時に引っかかる。何故今そんな話を?
「他でもない、この院で育った大事な貴女のことですから、協力してあげたいのは勿論だけれども、人を割く余裕がないのは分かって頂ける? 子供が増えればその分厳しくもなるわ。貴女がいた頃よりずっと厳しいの。最低限は行き届いても、子供たちに行き渡る文房具もないくらい。だから、勿論協力はしたいのだけれど……」
そこまできて、何を言われているのかようやく理解した。
一瞬で身体の芯が冷えて、すぐに言いようのない感情が内側から上がってくる。
『本日は遠くからよくお越しくださいました』
テレーザはきっと初めヴィオがクライネルトの関係者だと思ったのだ。引き取った孤児にきちんとした身なりをさせて、孤児院を訪ねるのであれば、当然寄付を期待するだろう。
リチェルはともかく、ヴィオとソルヴェーグは一目でそれと分かる紳士なのだ。
(この人は──)
今ヴィオ達に寄付を促しているのだ。
そして、リチェルが気付くような事を、ヴィオとソルヴェーグが気づかないはずがない。そう思うと、二人にここに座らせていることが、恥ずかしくてたまらなくなった。
(でも、話さないと……)
リチェルが話さないと、絶対にヴィオは助けてくれようとする。それは、ダメだ。
「だからね、リチェル」
「探すのは……!」
震える声で、リチェルは口を開いた。
「わたしが、やります。 場所を教えていただければ……」
「あら、でも……」
「シスター・テレーザ」
落ち着いて。とリチェルは自分に言い聞かせる。落ち着かないと、ヴィオ達に心配させてしまうから。
息を吐き出して、リチェルは無理矢理笑う。
「こちらにいらっしゃるヴィオさんやソルヴェーグさんは、私を直接預かってくださっている訳ではありません。私を預かってくださっている方は別にいて、代理で来てくださっているだけです」
だから、とリチェルは座ったまま深く頭を下げる。
「私とは何の関係もありません。どうか、その点をご理解頂きたいのです」
「…………」
リチェルの言葉にテレーザは一瞬言葉を無くして黙り込んだ。だがそれも一瞬で笑みを浮かべると、『いやだわ』と大げさに口にする。
「そんな、何を言い出すのリチェル。そんな事今お話しする事ではないでしょう。貴女は昔から少しズレたところがあるから……。資料室ね、いいわ。もちろん案内しますよ。人を出せなくてごめんなさい、と謝っただけですよ」
「そう、ですね。……すみません、シスター・テレーザ。わたしの勘違いで、失礼な事を申し上げました」
「えぇ、えぇ。もちろん構いませんよ。貴女の事はよく分かっていますからね、リチェル」
そう言って笑うと、テレーザは手元の鈴を鳴らす。コンコンとノックの音がして、マルタが顔を出した。恐らく元々控えていたのだろう。
「シスター・アニェーゼ。リチェルを資料室にご案内してあげて」
「はい、承知しました」
礼をすると、マルタがヴィオ達を『こちらへ』と促す。その後ろをついていきながら、リチェルは恥ずかしくてヴィオ達の顔を見れなかった。




