op.10 レモンの花咲くところ(7)
ラクアツィアへは昼に出る馬車に乗って山の麓まで行けるらしく、リチェル達は昼過ぎにカスタニェーレを出ることになった。
外は曇っていて昼になっても空気は冷たいまま、もう町は冬の様相を見せている。今日はいつもより寒いね、とロミーナが朝言っていたのを思い出す。
町をでる前に買いたいものがあるから、というヴィオと一緒にトトの店を出たリチェルは、先ほどから黙ったまま斜め前を歩くヴィオをチラリと見る。
(ヴィオのお母様が、ヴィオのことを、分からない……?)
先程トトが溢した言葉が頭の中を反芻している。
分からなくなっている、というのはどういう事なのだろうか。少なくとも、軽い病状では無いことだけは分かる。
(だから、アガタさんが病院に行った時、村に留まったのかな……)
自分の母親も病気であったなら、リートとリリコの境遇は他人事に見えなかったのかもしれない。ヴィオは優しい人だけれど、きちんと線を引ける人である事は見ていて分かる。
(でも、分からなかった……)
そんな重い事情を抱えているのだと、わずかも分からなかった。
ヴィオはリチェルが心配するような事を、あまり口にする人では無いから。実際ヴィオであれば大体のことは自分でどうにか出来てしまうのだろう。リチェルが出来ることなんて、ほとんどない。
辛く無いわけがないと、思うことすら失礼かも知れない。
(だけど……)
母親が自分のことを分からなくなる、というのは想像しただけで胸が痛かった。その事実を静かに受け入れているヴィオを見ていると余計に──。
ヴィオの歩調は緩やかだった。リチェルに合わせてくれているのだとすぐに分かる、ゆっくりとした歩き方。いつからか、隣に並んでも、リチェルが小走りになる事はなくなっていた。
「……ヴィオ」
意を決してリチェルが口を開くと、ヴィオが立ち止まってリチェルを振り返った。その目をまっすぐに見て、リチェルは先ほどから考えていたことを口にした。
「孤児院へはわたし一人で行くわ。ヴィオはお父様の所へ行ってあげて」
元々ラクアツィアへ行きたいのはリチェルの事情だ。これ以上自分のために時間を使わせてしまうことは考えられない。
リチェルの言葉に、ヴィオは特に驚いた様子ではなかった。ただ少しだけ黙って、やがて苦笑をこぼす。そう言うと思っていた、というように。
「リチェルは気にしなくていい」
「気にしなくていいなんて事ないわ。ヴィオの事情だもの」
他でもない。ヴィオの事情だ。ラクアツィアへ行って帰ってくるのに、どれだけ急いでも三日はかかるだろう。今この時に、それだけの時間をかけて貰うわけにはいかない。
役に立てないなら、せめて邪魔にはなりたくない。
だがヴィオは静かに首を振った。
「サルヴァトーレさんの言ったことが昨日今日のことなら急ぐけどな。もう三ヶ月も前のことだから、三日やそこらは今更だ」
それに、とヴィオが言う。
「リチェルのことはサラさんに頼まれてるから。これでもし君に何かあったら申し開きが出来ない。俺の事を考えてくれるなら、一緒に行ってくれると助かる」
それはどこまでも優しい言葉で、同時にリチェルの申し出を優しく拒む言葉だった。
ここで意地を張っても、ヴィオは付いてきてくれるのだろう。そう思うと、結局リチェルは頷くしかなかった。
ヴィオの目的地はこの町の楽器店だった。聞くとラクアツィアに行った後一度この町に戻ってくる予定らしく、短い旅程の間に必要なものはソルヴェーグが用意してくれているらしい。
替えの弦がいるから、と言って店に入るヴィオに一言断って、リチェルは外で待っていた。ヴィオは少し心配そうな顔をしたけれど、結局はリチェルの好きにさせてくれた。
だって。
どういう顔をしてそばにいればいいか、わからなかった。
少しでも役に立ちたいと思うのに、何も思いつかない。
それが無理ならせめて迷惑をかけたくない。
そう思っていた。
(だけど──)
昨日、気付いてしまったのだ。
『リチェルさん、ヴィオさんのことずっと目で追ってる』
ロミーナが教えてくれる恋は、悲しくなるほどリチェルの持つそれに良く似ていた。
これが恋だとしたら、自分の中にあるヴィオへの感情は、そういう『好き』から出たものなのだろうか。良く思われたくて、好きになってもらいたくて、だから役に立ちたいと──?
(そんなの……)
あまりに浅ましくて、どんな顔をして一緒にいれば良いというのだろう。
ヴィオは、貴族の家の跡取りだ。
ソルヴェーグのような執事がついている、きっと由緒正しい家なのだろう。事情を知らないリチェルでも、その意味は分かる。
自分の気持ちが迷惑だということは、分かる。
「……あ」
ふと視界の隅にチラチラと何かが映って、リチェルは顔を上げた。
「雪……」
ささやかに降り出した雪は、ヴィオと旅を始めてから初めて目にしたものだった。小さな白い粒がゆらゆらと空気に踊りながら、空から降ってくる。
落ちてきた白い欠片は、リチェルの手の中ですぐに溶けて消えた。
「──君、誰か待ってるの?」
ふと、後ろから声をかけられてリチェルは振り返った。気付けば見知らぬ男性が二人、近くに立っている。反射的に半歩後ずさった。
「あれ、胡散臭かった? 俺今すごく自然に声かけたつもりだった」
「勇気を出してね。美人に声をかけるのはいつだって勇気がいることなのさ。ごめん、気を悪くした?」
「あ、ごめんなさい」
思わず警戒してしまったのは、リチェルにとってそう言った声かけで思い出すのがリンデンブルックでの出来事だったからだ。
辺りを見渡すと、連れ込まれるような狭い路地も近くに無さそうだし、何より人通りもある。これなら大丈夫だろうか、と恐る恐る二人に向き直る。悪い人達ではなさそうだ。
「何か御用でしょうか?」
リチェルの態度にヒュウ、と一人が口笛を吹く。
「これは当たりだぞ。このお嬢さんからは、男を蹴飛ばしそうな気配を感じない」
「平手打ちされる気配もな。可愛いお嬢さん、雪も降ってきたし良かったらお茶でもどうですか?」
キョトンとして、リチェルは二人を見上げる。そう言われてもリチェルはヴィオを待っているので難しい。
そう断ろうとした時後ろから『リチェル』と声がした。
店から出てきたヴィオがリチェルのそばに来ると、何か? と二人に問いかける。一瞬で二人が黙り込んだ。数秒の沈黙のうち、片方がえーと、と声を絞り出した。
「アンタ、この子の恋人?」
「……そうだけど」
一拍置いて、ヴィオが頷いた。驚いてヴィオを見ると、ヴィオの手がぐいっとリチェルの身体を引き寄せた。
「なんだ。ごめん、可愛い子が一人でこんな寒空の下立ってるからお茶に誘おうかと」
「馬鹿! お前正直か!」
一人がもう片方の頭を押さえると『ごめんごめん』と軽い口調でヴィオに謝る。
「恋人がいるの知らなくてさ。でもアンタも悪いぜ。こんな可愛い子が一人で突っ立ってたら、俺たちじゃなくても声かけるよ。気をつけてな」
「それはそうだな。気をつける」
ヴィオの手が、優しく、だけど少し強い力でリチェルの背を押した。リチェルが何か言う前にヴィオに手を引かれた。その一瞬で、心臓が跳ねる。
「あの、ヴィオ……」
「行こう」
振り返ることもなく手を引かれる。後ろで呆然とする二人に軽く会釈をして、手を引くヴィオの後ろをリチェルは早足でついていく。ヴィオは黙ったままで、ただいつもより少しだけ足が速かった。
(何か──)
何か言わなきゃ、と思った。
待っていたのがいけなかっただろうか。あの時のサラさんの時もそうだったし、ちゃんと一緒に中に入れば良かっただろうか。
『アンタ、この子の恋人?』
『……そうだけど』
(ごめんなさい? それとも、ありがとう?)
ぐるぐると思考が回る。お礼が先だろうか。あまり謝るのも良くない、と言われた気がする。どうしよう、頭が回らない。
(だって、どうして……)
さっきから繋いだ手が気になって。
息が、うまく出来なくて。
『それはそうだな。気をつける』
ふれた指先が、ただ、熱い──。
「ごめん」
不意にヴィオが立ち止まった。つられてリチェルも足を止める。立ち止まったヴィオは、少し気まずそうにリチェルを振り返る。
「恋人だって言った方が面倒な事がなくていいかと思って。嫌だったか?」
「……ううん」
かすかに首を横にふる。それからもう少し強く振って、全然大丈夫、とリチェルは答える。
嫌じゃない。嫌なはずが、ない。
「わたしこそごめんなさい。一緒にお店に入れば良かったのに……」
「いや、待たせた俺も悪い。……その、何もなかったか?」
「うん。悪い人たちじゃなかったと思うわ」
ヴィオが出てきたらすぐ引き下がってくれたし。少しびっくりしただけだ。大丈夫、と笑顔を作ろうとしたリチェルの頭に、ヴィオの空いている方の手が触れた。
「雪、ついてる」
そう言って、ヴィオがかすかに笑った。
トクリと、心臓がはねた。繋いだ手はいつの間にか緩んでいた。もう繋いでるとは言えない、重なっただけの手はそれでも心に熱を灯したままだ。それだけで胸の奥をギュッと締め付けて、トクトクと鼓動を刻む心臓の音は少しも鳴り止まない。
『ちょっと手が触れるだけでギューってなるの。心臓が爆発しそうなのに、離したくないの。変でしょ?』
ううん、全然変じゃない。
そう、あの晩に戻れるなら答えたかった。
(──全然、変じゃないよ)
初めて覚えた気持ちは痛いくらいに鮮明で、どうしようもないくらいロミーナの言った通りだ。
この人のことが好きなんだ、と泣きそうな気持ちでリチェルは思った。
「……帰ろうか」
やがてヴィオが、そう言った。離されると思った熱のこもった手がもう一度引かれる。その手が離れるのが今はもうはっきりと、心細かった。
きっと初めは、この雪みたいにささやかなものだった。
静かに、少しずつ。まるで傷だらけの自分を優しく隠すみたいに、この気持ちは静かに降り積もっていったのだろう。
気付いた時にはもう一面、真っ白で──。
どうしてこの人なのだろう。
そう思わずにはいられなかった。
(どうして、神様。今──)
よりにもよって今、わたしにこの気持ちを与えたのでしょうか。
泣きそうになりながら、後ろを歩く。
それなのに、ほんの少しも貴方じゃなければ良かったとは思えないのだ。
帰り道、ヴィオは黙ったままだった。リチェルも黙ったまま、ただ静かに粉雪の中を二人で歩いた。
指先に伝わる熱を感じながら、このまま時が止まればいいのにと、生まれて初めて、そう思った。





