op.10 レモンの花咲くところ(6)
アルとロミーナが帰ってきたのは、トトが帰ってからしばらくしてだった。
今日は安息日だからお店はお休みで、帰ってくるとみんな待っていたものだからアルは慌てふためいていた。おかえりなさーい! こちらも訳知り顔で双子がアルとロミーナを迎える。
「どうだった?」
心配そうに尋ねるリチェルに、ロミーナが『ばっちり』と笑ってみせるとリチェルはぱっと嬉しそうに笑った。
「良かったわね、アルさん」
「あ〜、うん。そうだね、良かった」
リチェルを見ると、アルは何か思うところがあるのか赤くなったり青くなったりしながら、心配かけてごめんね、と小声で謝る。
昨日のトトとアルのやりとりはもちろんヴィオ達にも聴こえていた。家族のことだから、余程のことがない限り首を突っ込まないようにしていただけだ。双子は寝ていたので知らないだろうが。
「ヴィオ君も親父を連れてきてくれたって聞いたよ。ありがとう」
「あぁ、大したことはしてない。妹さんに頼まれただけだ」
「そっか。でもありがとう」
正直安息日の教会からショパンの革命が聞こえてくるのはどうかと思ったが、野暮なので口には出さない。早朝なので人がいなかったのが幸いだろう。
もう少し穏やかな曲はなかったのだろうか。同じショパンを弾くなら、エオリアン・ハープとかで良かったんじゃないか、と思わなくもない。
「ところでアルフォンソ。もし親父さんの手が空いているならそろそろ話を聞きたいんだが……」
「あ! そうだったね!」
ヴィオが付いてきた当初の目的を思い出したのか、慌てたようにアルが言う。
「今日はお休みだから明日の仕込みだけだし、話も出来ると思うよ。呼んでくるね! ロミーナ、ちょっとリート君とリリコちゃん見といてくれる?」
そう言ってアルがパタパタと奥へ走っていく。はーい! とロミーナが返事をした。
「えー、リリコもいる〜!」
「だーめ。リート君とリリコちゃんは私と一緒にお掃除ね。うちの子だったら自分の部屋は自分で片付ける!」
「え〜」
「はーい」
不満たらたらのリリコと、あまり気にするでもないリートを連れてロミーナが上がっていく。リチェルもついていこうとして、ロミーナに大丈夫よ、と止められていた。
「ヴィオくーん、今話せるって!」
程なくしてアルが戻ってくる。さっきの今で少し気まずそうな様子のトトが裏から出てきたのは、まもなくのことだった。
◇
「あぁ、ディルクさんか! 覚えてるよ!」
ヴィオの話を聞いて、トトはそう言うとすぐに手を打った。
「あのやたらヴァイオリンがうまかった御仁だろう。言われてみりゃ似てる気がするなぁ!」
「親父結構話してなかった? どこ行くとか聞いてない?」
「聞いた聞いた。元々アレだ。ディルクさんは、俺がここいらじゃ物知りだって言うんでこの店に来てくれたんだよ。ほら、この店はレストランみたいにお堅い場所でもないから、俺ぁ客とよく話するしな。こう見えて情報通のトトさんで通ってんだよ」
「父はどこへ行くと言っていたか覚えてるでしょうか?」
ヴィオの問いにトトはあぁ、と軽く答えてくれる。
「腕のいい医者を探してるってんで、いくつか紹介したよ」
「お医者さん? ヴィオ君の所誰か悪いの?」
心配そうにアルがヴィオを見る。アルは事情を知らないから当然だろう。声に出さないが、後ろで聞いているリチェルも初耳のはずだ。
言葉を濁そうとする前に『奥さんだろ』とトトが特に悪気なく答えたので、ヴィオは観念する。どっちにしろ父がトトに話しているのであれば、黙っている理由もない。
「ヴィオ君のお母さんってこと?」
「そうだよ。ちょっと待てよ、思い出す。えー、そうだ。最初に来てくれてから幾つか紹介して、もう一回きてくれたんだよな。確か八月頃だ。ということは後に紹介した方だな」
言いながらトトが地図を引っ張り出してくる。
「近くが二軒、遠くで一軒……。後に紹介したのが多分大通りのばあさんに聞いたとこで……あぁ、ここだよ」
そう言って地図を示しながら、トトが一つの地名を指した。クレモナの端に位置する小さなコムーネ。
「俺も又聞きでしか知らないが、ここに面倒見のいい医者がいてな。行ってみるって言ったからその辺りだと思うんだが」
そう言って、不意にトトは言葉を切った。ヴィオの方を見ると、トトは珍しく言葉に迷うように『気の毒なこった』と呟いた。
「おっかさん、お前のことが分からなくなってるんだろ?」
後ろでアルとリチェルが息を呑む気配がした。
親父! と慌てたようにアルがトトを小突く。『流石にそれは言ったらダメだろ!』と小声で怒鳴る。アルの強い口調に、トトも本気で怒ってるのが分かったのか『おぅ、すまん!』と慌てて口にした。
「構いません。言っても大丈夫だと父が判断したから伝えたのでしょう」
落ち着いて、静かにそう口にする。
「ありがとうございます。こんなにハッキリと父の消息が分かったのはサルヴァトーレさんのお陰です」
「いや、こっちこそだ。馬鹿息子を連れ帰ってくれてお礼の言葉もねぇ」
笑うトトに、ヴィオは丁寧に頭を下げた。
目を伏せると、脳裏に柔らかなカーテンが舞い上がる光景が浮かぶ。
春の休暇で学院から帰り、母の病状が悪化したと聞いて寝室を訪ねたあの日。目を覚ました母は、青白い顔をこちらに向けて柔らかく微笑んだ。
『あなたは、だれ──?』
それは声音に微かに幼さが混ざる、無垢の問いかけだった。





