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【完結】Harmonia ー或る孤独な少女と侯国のヴァイオリン弾きー  作者: 原案・絵:若野未森、文:雪葉あをい
第1章
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op.01 昔、一人の旅人が(7)

 リチェルが楽舎へ戻ると、まだイルザは帰って来てないようだった。

 今日は演奏会の予定があるとは聞いていないが、リチェルが聞かされていない事だって度々ある。ドレスが一着部屋にないことを確認して、やはり今日は演奏会なのだと納得する。

 

 でもイルザがいないことは有り難かった。


 ヴィオと過ごした時間は幸せで、思い出すとまだぼぅっとしてしまう。イルザは聡いから、リチェルの様子が違うことなど一発で見抜かれてしまうだろう。そうしたら──。


「…………」


 リチェルは首を振って浮かんだ思考を振り払う。リチェルが歌っていることはイルザには秘密だ。決して知られるわけにはいかない。

 まだ夕刻には時間があるから先日の演奏会の譜面台を拭いてしまおう、とリチェルは立ち上がる。リチェルの仕事はもっぱら朝言いつけられる事が多く、終われば夕刻までは楽団の雑用をしている。


 タンタンと軽い足取りで階下へ降りていったリチェルは、玄関に人の気配を感じて顔を上げた。


「ぁ……」

「…………」


 玄関口に立っていたのはデニスだった。

 先日の事があったから、リチェルはギクリと身体を強張らせて慌てて頭を下げる。だがデニスは無言だ。いつもであれば威圧的にリチェルに声をかけてくるというのに。

 

 様子がおかしい。


 気付いてしまうと、気にかかる。それがリチェルの性分だった。そうっとデニスの様子を伺って、あの、と声をかける。


「大丈夫で……「誰だよ」


 遮った声は低かった。


「え?」

「だからアイツ。お前の何だよ」

「あいつ?」


 そう言われてもリチェルには覚えがない。普段見ないデニスの様子に、リチェルは戸惑う。だが次にデニスが発した言葉に、血の気がひいた。


「アイツだよ。宿で一緒にいたヴァイオリン弾き」

「……っ」


 どうして知っているのか、という言葉が喉元まででかかる。いつも威圧的なデニスの口調が静かだったこともリチェルにとってはかえって恐ろしい。

 

「……何の、ことですか」


 かろうじて、それだけを絞り出した。意味は分からない。だけどここで肯定したらヴィオに迷惑が掛かるかもしれない。それだけは分かってリチェルは暗に知らない事を示してみせる。だがデニスには通じなかった。


「見たんだよ。楽しくお喋りしてるとこを。お前、アイツには随分気ゆるしてるじゃん」


 デニスの口調は静かだったが、それ以上に怒気を含んでいた。だけど原因がわからない。どうしてデニスはこんな風に怒っているのだろう。


「知ってるか? アイツ、うちの楽団を馬鹿にしてんだよ。お前うちに恩とかないの? 何でうちの看板に泥塗ったやつと楽しそうにお喋りしてるわけ?」

「そんなこと……!」


 ない、と言いかけて口を紡ぐ。ほら、知ってるじゃん。とデニスが嗤う。

 どう考えても通りの出来事は楽団員が悪かった。だけどそれとこれとは話が別だ。あの出来事をリチェルが知っているというだけで具合が悪い。

 デニスの足が一歩リチェルの方に進む。思わず後退るがすぐにカツンと階段の下の段に足が当たってバランスを崩した。


「っ!」


 後ろに倒れて階段に尻餅をつく。ふくらはぎに走った痛みに一瞬顔を歪めて、すぐに前を向くとデニスはリチェルの目の前に立っていた。見下ろす瞳が普段と違う色をしていて背筋が寒くなる。


「デニスさ……」


 言い終わる前に胸ぐらを掴まれて、引きずり起こされた。拍子に帽子が脱げてまとめていた髪が階段に落ちる。そしてもう一つ──。


「あっ」


 ヒラヒラと落ちた紙片を掴もうとしたが、リチェルが拾う前にデニスの片手がそれを拾い上げた。


「何だこれ」

「返してください!」


 それはヴィオがくれた歌詞の紙片だった。思わず声を上げたリチェルをデニスは冷ややかに見下ろして、リチェルの胸元を掴んだ手を捻りあげる。息が詰まって、それでもリチェルは紙片に手を伸ばすが届かない。


「へぇ、お前こんな紙切れで釣れたのか。やっすい女」


 デニスがどこか自嘲気味に笑って、紙片をぐしゃりと握り潰す。


挿絵(By みてみん)


「あぁ。あと、もう一つ知ってるんだよなぁ。お前の秘密」


 淡々としたデニスの言葉。何だかとても嫌な予感がした。



「お前、隠れて歌ってるだろ?」



 今度こそ、リチェルの血の気が引いた。


「どうして……」


 声が震える。同時に思い出すのは忘れもしない三年前の夜のことだ。



『この子は雑用係だよ』



 それは生まれて初めて知った裏切りだった。



『アンタここを追い出されたら行くところないだろう?』


 

 だけどその時には、もうリチェルにはどうしようもなくなっていて──。


 

『二度と人前で歌わないこと。いいね?』



 美しい声が、リチェルの耳元で囁く。甘やかな声はまるで毒のようで、体の内側へと滑り落ちドロドロと喉を溶かしていくようだった。


 どうして知っているのか。それはイルザも知っているのか。だとしたらどうすればいいのか。頭の中がぐちゃぐちゃで、整理ができない。

 その時、デニスがふと言葉を切った。

 何だろう。動揺したまま何も発せないリチェルに、デニスはさらに困惑する言葉を吐き出した。

 

「なぁ、楽団で歌わせてやろうか?」


(え──?)


 呆然として、リチェルは思わずデニスを真正面から見る。

 だが口にした当のデニスも意外だったようで、ぱちりと目を瞬いた。だがすぐに口の端を持ち上げると、リチェルの方に向き直る。


 捻りあげられた首が苦しい。階段に押し付けられた背中が痛い。

 だけどそれ以上に戸惑いの方が大きかった。理解ができないままデニスを見上げ、その手にある紙片に目が止まる。


 それに気づいたのだろう。デニスは殊更見せつけるように紙片をぐしゃりと握りつぶしてそのまま後ろに放った。


「あ!」


 考える前に身体が動く。取りに行こうと身体を捻ったリチェルの力はだけどすぐにデニスに捩じ伏せられた。


「今話をしてるのはオレだろ!?」

「……んっ!」


 乱暴に押し付けられた痛みで、出そうになった悲鳴を何とか呑み込む。


「お前が喉から手が出るほど欲しい条件を出してやってるんだよ! 聞けよ!」


 どうしてだろう。

 乱暴な言葉なのに、デニスの声は少しだけ悲しそうだった。

 それが余計にリチェルを困惑させる。


「どう、やって──」


 かろうじてそう聞き返した。

 リチェルが歌うことは、絶対にイルザが許さない。リチェルを連れてきたクライネルトの先代が死んだあの日、リチェルがここに残る条件として提示されたのが『歌わないこと』だった。


 デニスがいかに領主の息子であろうと、彼は次男だ。楽団の管理者は別にいるし、イルザは現在の当主とも良好な関係を築いていると聞く。そんなことができる訳がない。

 だがデニスは口の端を吊り上げると、とびきり醜悪な声で告げた。

 

「イルザのババアを引き摺り下ろしてやるよ」


 その言葉に、今度こそリチェルは目を見開いた。


(ひきずり、おろす?)


 それは彼女を追い出すと言うことだ。

 この家から、この楽団から。

 

「アイツ元々孤児のくせに偉そうだし、お前も相当こき使われてただろ」


(孤児?)


 それは初めて聞く話だった。少なくともリチェルの記憶にはない。確かに楽舎に住んでいると言うことは家がないと言うことを意味しているけれども、彼女が自分と同じ境遇だとは思っていなかった。


「あのババア、お祖父様が最初にイカれて連れてきた女だよ。だから代わりがいるなら捨てても良いんだ。お前なら代わり、務まるよ」


 リチェルの沈黙を肯定と受け取ったのだろう。機嫌よくデニスは話を進める。


「嬉しいだろ? 散々欲しかった場所だろ? オレがお前にやるよ。どうだ?」


 ぐるぐると思考が回る。


(欲しかった──?)


 確かに、歌いたかった。

 歌うのが好きだった。

 ここに来たら歌える、と言われたから、リチェルは孤児院を出たのだ。

  

 気付いたら視界がぼやけていた。目の縁に滲んでいるのが涙だと、リチェルは少し遅れて気付いた。

 心は千々に乱れてもうぐしゃぐしゃだ。色んな感情が嵐のように胸の中を掻き回して、だけどその中で揺らがない気持ちがある。


「……や、です」


 声が震える。


『──────』


 美しい歌姫。

 自信に満ち溢れていて、艶やかで、夜に咲く一輪の薔薇のような。

 それはリチェルにとって確かに憧れだった。


『リチェル、アンタ今日から──』


 ぶっきらぼうな態度。

 イルザは確かにリチェルが嫌いで、リチェルも彼女が苦手で。

 だけど──。


 イルザの代わりに、楽団で歌う?


 何度も、何度も首を振る。

 それは彼女を追い出すと言うことだ。

 彼女の居場所を、奪うと言うことだ。 

 その選択は、あまりに悲しい。

 この人は本当にわたしがそんなものを欲しいと思っているのだろうか?

 

 溢れそうになる涙を堪えて、何度も首を振っていやだと繰り返し気づいた。

 きっと自分は、今怒っている。

 その選択を、他でもないリチェルに突きつけたことに。

 その選択を、リチェルが受け入れると思っているこの人に。

 キュッとキツく瞳を閉じて、リチェルは力一杯叫んだ。


「そんなの、絶対に嫌です!!」


 リチェルの両手がデニスを突き飛ばした。首元を掴んでいた手が離れる。尻餅をついていってぇ、と呻くその横をリチェルは勢いよくすり抜けた。

 

「おい待てよ!」

 

 呼び止める声を無視してリチェルは走って玄関を飛び出す。

 この後絶対にタダでは済まないことは分かっていたけれども、それでもあそこで頷くより何倍もマシだった。

 絶対に、後悔はしないと思った。




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