op.10 レモンの花咲くところ(5)
早朝に教会を尋ねると、随分久しぶりに来たと言うのに牧師は特に何を尋ねると言うこともなくアルを古いピアノの所へ案内してくれた。
キンと冷えた空気の中、座るとギッと椅子が鈍い音を立てる。
一呼吸置いて、アルは鍵盤の上に指を走らせた。
軽快で粒の立ったメロディーが朝の教会に響く。
フレデリック・ショパン『12の練習曲 作品10 第5番』。
後世では『黒鍵のエチュード』と呼ばれるこの曲は、右手による主旋律の全てが黒鍵のみで演奏される曲だ。
奏でられる右手のメロディーは踊るようでいて、それを支える左手の伴奏は時に軽快に、時にしっとりと歌うように右手の旋律を引き立てる。
雑念を払うように、頭を空っぽにして、無心になって弾き続ける。
一曲終われば、また次の曲を。思いつく限り、指の回る限り。そうしていれば、何も考えずに済むからと──。
息をついたのは何曲目だっただろうか。
途切れた瞬間、後ろから控えめに拍手の音が響いた。
我に返って振り返る。いつから聞いていたのだろう。そこに立っている人物の姿を目に留めると、アルは目を瞬いた。
「ロミーナ、お前……」
「やっぱりここにいた。兄さん、嫌なことがあるといつもピアノの弾ける場所に来るのよね。小さい頃、よく聴かせてくれたね」
ゆっくりとそばに歩み寄ってくると、ごめんね、と小さくロミーナが呟いた。
「兄さん。ピアノ、やりたかったよね。私がうんと料理が上手だったら、兄さんは好きなことが出来たかもしれないのに……」
「そんなこと……」
「昨日、父さんと喧嘩しちゃった?」
「……うん」
正直に頷く。といっても現場を見られていたのだから誤魔化しようもない。出来る限り穏便に言葉を選んだつもりだったが、トトには通じなかったようだ。
「兄さん、父さんのこと嫌いになった?」
頼りない口調だった。
そうなっても仕方ないかな、という微かな諦観。
でもそうでなければいい、という淡い期待。
そのどちらも受け止めて、いや、とアルは苦笑した。
「多分僕は、何があっても家族を嫌いになれないよ」
母さんが亡くなった後、親父がとても苦労して自分とロミーナを育ててくれたことを知っている。
頑固で融通が利かなくて喧嘩ばかりするけど、それでも放っていこうとすると心に引っかかってどこにも行けなくなるのだと、今回家を出て分かった。
「ちゃんと話したくて、戻ってきたんだ」
たった一度で諦めるつもりはなかった。昨日聞いてくれなかったなら今日、今日聞いてくれなくても明日がある。
多分わかりあうことを諦めることは自分には出来ないのだと、分かったから戻ってきたのだ。
「それに、もうプロの音楽家にこだわっている訳でもないんだ」
「そうなの?」
「うん、だって……」
少し躊躇して、だけどアルは口を開く。
「リチェルさんが言ってくれたんだ。『僕は人を笑顔にするのが好きなんだろう』って」
きっとそうなのだと思う。
昔から聴いてくれる人がいたから、食べてくれる人がいたから、ピアノも料理も続けてこれたのだろう。
「それって、別にプロにならなくても出来ることだし……。親父の店は僕も好きだから。だけどピアノを弾くのをやめたくはないな」
「うん、分かった」
ロミーナが急に勢いよくそう言った。
「じゃあ、二人で相談しよう! 父さんには私からお話してって頼むわ」
「え? お前から?」
自分のことに巻き込むのは気が引けてロミーナを見るが、ロミーナは得意げに胸を叩いて見せる。
「こう見えて娘ですから。兄さんには意地を張っちゃうけど、私には甘いのよ。父さんったら」
クスクスとロミーナが笑う。確かにそうだろう。初めからこの妹に相談していれば、もっと上手くいったのかもしれないな、と今更ながらにアルは思う。
「あともう一つ。兄さん、リチェルさんのこと好きでしょ?」
いきなりの変化球に思わず吹き出した。
「しかも割と本気で。望み薄だけど」
「望み薄とかいうな! ……分かってるよ」
ボソリと呟く。
一緒にいればいるほど、リチェルの目が誰を追ってるかなんてすぐに分かる。これでも人の感情には敏感な方なのだ。
遠慮のない物言いに、そんな分かりやすいかなぁ、とアルは頭を抱える。妹にまで一日で言い当てられるとは、無性に泣きたくなる。
「でね、多分父さんも本気なの」
「え?」
急に何の話だと顔を上げる。だけどロミーナは訳知り顔で、アルを見ている。それでようやく察した。ロミーナが言っているのはきっとラウラのことだ。
「カッコ悪いと思う? 父さんのこと」
尋ねられて、言葉に詰まる。
正直なところ、カッコ悪いというより父親のそういう場面を見るのは息子として気恥ずかしいのが本音だ。
だけどロミーナが最初にリチェルのことを例にあげたのは、きっと同じ気持ちだと伝えたかったからだろう。
だとしたら兄としてカッコ悪いことは言えない。
ため息をついて、苦笑をこぼす。
「……思わないよう努力するよ」
「良かった。あれで父さん気にしてたから。私は兄さんにも父さんにも、幸せになってもらいたいの」
そう言って、急に不自然にロミーナが顔を上げた。それからアルの方を向くと『ねぇ、兄さん。何か弾いて』と急に言ってくる。
「何かって?」
「何か、すっごいの!」
「すっごいの?」
あまりにアバウトな注文だ。
難しい曲ってことかな、と首を傾げながらも、アルは先程弾いていたショパンをもう一度弾き始める。12の練習曲、作品10から12番。リストによって『革命』と呼ばれた練習曲だ。
先程弾いた5番に比べると、導入から和音が響くし、動きも派手だ。あと右手の和音が重く響くから、ロミーナのリクエスト通り初っ端から『何かすごそう』に聞こえる曲ではある。
よく指が動く曲は弾いていると楽しくなる。
あまり弾きすぎると最後には指がつってもつれる事もあるのだけど、イメージ通りに弾き切れると達成感があるのだ。ショパンの練習曲はなかなか弾きこなせなくて必死で練習したから余計だろう。
とは言っても曲自体は短い。二分ほどで演奏は終わり、アルは軽く手を振ってロミーナを振り返った。
「これでいい?」
そして、アルは今度こそ目を見開いた。にっこりと笑うロミーナの後ろ、扉のところには仏頂面のトトがいたのだ。
「ちょっ……!」
思わず椅子から立ち上がって、強かに足の指を椅子にぶつけて悲鳴を呑み込むと、アルはしゃがみこんだ。『ヴィオさんに連れてきてって頼んでたの』と笑うロミーナの笑顔に悪意は全くない。
足を押さえて呻くアルを見ているトトは無言のままだ。演奏を聴かれていたのだろう。そういえば親父にはピアノをしていたことも言ってなかったし、演奏を聴かれたのは初めてだった。
「あー、何だ……」
気まずそうに、トトがガシガシと頭をかいた。
「……その、お前、料理嫌いなのか?」
「はあ?」
何故そうなるんだ、と思う。
嫌いなら稼業とはいえ毎日毎日、飽きもせず厨房に立ちはしない。
兄さん、と咎めるようにロミーナが呼ぶ。その一言に我に返ってぐっと堪えると、そんな訳ないだろ、とアルは答える。
「好きだよ。だけどピアノも好きなんだ。だから、相談したかったんだよ」
不貞腐れたように口に出す。考え込むように唸りながら、何とも言えない表情で、トトは『あー』とまた頭をガリガリかいた。おい、と不機嫌そうな声でロミーナに声をかける。
「ピアノっていくらするんだ? うちに置けるのか?」
「そんな事私に聞かれても。ヴィオさんに聞いたら?」
「ちょ……っ、親父⁉︎」
思わず声を上げるが、トトは決まりが悪そうにフイッと顔を背けた。
「俺は……、お前が家を継ぐんなら良いんだ。今からお前みたいなのを育てられる気はしねぇしな。あ、でもすぐとか無理だからな? つか無理かもしれないからな⁉︎ おいロミーナ! 気ぃ済んだだろ! 俺ぁ帰るぞ!」
そう言って、トトは大股で帰っていく。ポカンとしてその後ろ姿を見送って、アルは座り込んだままロミーナを見上げた。
ロミーナはこうなる事がわかってたみたいにクスリと笑って『ほら』と言う。
「素直じゃないでしょ? 父さん」





