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【完結】Harmonia ー或る孤独な少女と侯国のヴァイオリン弾きー  作者: 原案・絵:若野未森、文:雪葉あをい
第3章
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op.09 序奏とロンド・カプリチオーソ(3)

「エドゥアルトと言います。どうぞ気軽にエドと呼んでください」


 目の前に座った少年はリチェル達を前に朗らかに自己紹介をした。隣に座った男性が落ち着いた物腰で『アルノルト・ヴァルターです』と続けて名乗る。


「ヴィオ・ローデンヴァルトと申します。こっちはソルヴェーグ、この子の名前はリチェルです」


 お互い紹介を終え、ヴァルターと軽く握手を交わしたヴィオは、目の前に落ち着いて座る少年を見て心中で唸る。

 改めてまじまじ見ると、目つきや口元、諸所異なるところはあるもののエドは隣に座るリチェルにとてもよく似ている。


「さっきはごめんなさい。リチェルさんの手は倒れる前に掴んだんですけど、お顔に驚いてしまって一緒に」


 それも仕方がないと言える。

 ヴィオもこうして座っていても、つい不躾に二人の顔を見比べてしまうくらいだ。


 リチェルの瞳もエドの瞳も珍しい緑の瞳だが、リチェルが芽吹いたばかりの若葉の色だとするとエドは森の奥を思わせる深緑の色だった。


 髪の色もリチェルの方が色素は薄いが、よく似た亜麻色だった。成長すれば十分違いは出るだろうが、エドはまだ変装すれば女性を装える年頃だから余計だろう。笑うと八重歯がのぞくのが、印象的だった。


「すみません。うちのエドが無理矢理。お時間は大丈夫だったでしょうか?」


 ヴァルターが落ち着いた声でヴィオに尋ねる。


「それは大丈夫です。急ぎの用事があった訳ではありませんし、今日もこの町に滞在する予定ですから」


 それは良かった、とヴァルターが安堵の息をこぼした。


 あの後何となくお互い黙っていると、『良かったら一緒にお茶でも!』と言い出したのがエドだった。ヴィオも動揺していて、流されるままにカフェでお茶をする事になったのだ。


 テーブルに座れる人数も限りがあるので、アルは双子と後ろのテーブルに座っていた。


 リリコもリートもテーブルが離れることに最後まで不満そうだったのだが、先ほどの振る舞いをヴィオとアルの双方から注意されて、渋々従った形だ。

 今はカフェのケーキメニューを見て機嫌を直したようで、平和におしゃべりに花を咲かせている。


 エドの隣に座るヴァルターは三十代くらいの黒髪の男性だった。物腰は落ち着いていて言葉遣いは丁寧だ。その雰囲気はどこかソルヴェーグを思わせる。


「ヴァルターさんとエドゥアルトさんはご家族ですか?」

「エドでいいですよ」


 にこやかにエドが口を挟む。それなら、とヴィオも頷いた。ヴァルターがヴィオの言葉にいいえ、と首を振った。


「私は美術商をしておりまして、今夜とあるサロンで美術品の紹介が行われるので足を運んだのですが」

「競売ですか?」

「おっと、ご存知ですか。そうですね、競売とはまた形式が違いますが、目に留まる絵があればその場で買うこともありますし、買い取らなくともカタログに掲載させて頂くよう交渉する場合もあります」


 エドは一番弟子でして、とヴァルターはエドの肩を気安い仕草でたたく。


「こう見えて目利きはピカイチです。今日は勉強に連れてきたのですよ」

「先生がとても厳しいものですから」

「エド」


 たしなめるように名前を呼ばれて、エドは悪戯っぽく笑う。


「それでみなさんは?」


 エドが『不思議な組み合わせですよね』と人懐っこく笑う。


「テーブルがわかれたから、あの双子とお兄さんが関係者なのかな? みなさんご家族には見えないから」

「こら、エド」


 ヴァルターの叱責に、事情を探ろうと言う訳ではないんですよ? と慌ててエドがフォローを入れる。

 申し訳なさそうに首をすくめて、ヴァルターに視線を向けると誤魔化すようにエヘヘ、と笑う。


「いや、別に隠している訳ではないから構わない。ソルヴェーグには昔から俺が世話になっているだけで、後は成り行きでこの形でまとまっている。事情は煩雑だから、説明は勘弁してほしい」


 チラリと後ろのアルと双子を見て、ヴィオが肩をすくめる。もちろん、とエドが快く応じた。


「あ、でも……」


 そっと遠慮がちにエドがリチェルに目を向ける。


「リチェルさんは、どちらの出身なんでしょうか? ごめんなさい、あまりにも似ているものだから気になってしまって」

「……何か心当たりが?」


 確かにこれ程似ているのだから心当たりがあれば気になるだろう。リチェルの出自は不明で、ヴィオとしても覚えがあるのであれば聞いておきたい。


「いえ、そう言う訳では……」


 そう言って、不意にエドが目を伏せた。先ほどの明るい雰囲気にどこか影が落ちる。


「……実は僕には亡くなった歳の近い姉がいまして」


 とても仲が良かったんです、と寂しそうにエドが笑った。


「リチェルさんを見るとつい懐かしくなってしまって。良かったらリチェルさんのお話を聞かせていただきたいなと思っただけなんです」

「まあ……」


 リチェルが口元に手を当てる。


「エドさんの心が休まるなら、少しでもお話をしたいのですけど、わたしにはお伝えできるようなお話が何もなくて……」


 心底申し訳なさそうにリチェルが応じた。


「さんだなんて、エドでいいです。僕の方が年下でしょうし。あの、気に触ることを聞いてしまったでしょうか?」

「いえ、違うんです」


 慌ててリチェルが否定する。


「出身はイタリアのラクアツィアです。わたしは生まれてすぐに孤児院に預けられたので、それで……」

「色々あって今の保護者から俺が預かっているんだ」

「そうなんです」


 エドがそうだったんですか、と肩をすくめる。


「僕こそごめんなさい。無神経な発言でした」

「すみません。エドは好奇心が先に口から出てしまう性分でして」

「うちのも似たようなのがいるから大丈夫です。気にしないでください」


 チラリと背後に視線を向けると、ヴァルターが苦笑した。

 もっともこちらの方はエドより幼いし、口ではなく行動で出るタイプなのでどちらがタチが悪いかはケースバイケースだろう。


 そこからはヴィオの音楽の話になった。

 美術商という事もあり、芸術分野には全般興味が湧くのだろう。自然この間の収穫祭の話にもなった。


 途中双子が席を飛び越えて混ざろうとして、椅子ごとひっくり返ったりはしたが、それ以外は平和だった。


 リチェルもエドも楽しそうに会話を重ねて、やがてエドが人懐っこく笑って言った。


「姉さんともう一度話してるみたいで、とても嬉しいです。ねぇ、一度リチェルさんの歌を聴いてみたいな」

「えっと……」

「あ、分かってます。こんな場所じゃ難しいよね」


 カフェを見渡してエドが笑う。残念です、と口にしながらもそれ以上追求することはない。きちんと引くタイミングをわきまえた口調だった。


(だが──)


 困ったようにヴィオをチラリと見上げたリチェルの目は案の定、困ったように揺れていた。


 リチェルは優しい子だ。

 人の為になるなら大抵のことは受け入れるし、自分に出来ることがあるならしてあげたいと思ってしまう。

 その上エドはリチェルによく似た姉を亡くしているという。リチェルが何かしたい、申し訳ない、と思うには十分だろう。


 小さく息をつくと、ヴィオは口を開く。


「どこか演奏できるところがあるなら──」

「いえ、お気持ちは有難いですがそこまでして頂く理由はありません」


 そう口を挟んだのはヴァルターだ。エドが無理を申してすみません、と頭を下げる。


「それに私共も美術商の方の仕事がありますし……」

「ごめんなさい」


 リチェルが謝る。


「あの、エド。もし何かわたしに出来ることがあったら、何でも言ってね」

「本当? 嬉しいな。それならこうしてお喋りしてくれるだけで──」


 そう言ったところで、不意にエドが言葉を切った。パチパチと丸い瞳を瞬かせて、何かを伺うようにチラリとヴィオを見た。


「何でも、お願いしていい?」

「え? はい、わたしに出来ることなら……」


 リチェルに尋ねながらも、エドの視線は何かを伺うようにヴァルターを一瞥する。


「お前それは……」

「だって先生……」


 ヴァルターは何かを察したのだろう。エドを咎めるような口を出すが、エドは引き下がらない。


「何か?」


 流石に怪訝に思って、ヴァルターに尋ねる。

 ヴァルターは少し気まずそうにヴィオに目を向けると、やがて諦めたように小さく息をついた。周りとの席の距離を図るように視線を周囲にやると、これは内密の話なのですが、とやがて密やかに声を出した。


「先程サロンの競売があると話をしましたね」

「お待ちください。それは聞くと否応なくこちらに何かを強制させる類の話ですか?」


 そうであれば聞く気はない、という意志を言外に込めてヴァルターに問いかける。

 ヴィオの態度に、ヴァルターは驚いたように目を開く。

 隣にいたエドがとんでもないです、と首を振った。


「そんな危険なこと、仮にも親愛なる姉に似た女性に言う訳がありません」


 朗らかにエドはそう言うと紅茶を口に運んだ。そういえば味の好みまでリチェルとよく似ているな、と意識の端で思う。


「エドの言う通りです。そんな物騒な話では。ただの内緒話ですよ。周りに吹聴されてしまえば流石に困りますが、貴方はそう言ったことはなさらないでしょう」

「何を根拠に? 先程会ったばかりの他人でしょう?」


 静かに、だがハッキリとそう言うと、ヴァルターが息を呑んだ。


 リチェルがオロオロとしているのが分かったが引く気はなかった。関わらなくてもいい厄介ごとは、知らない事が一番の護身だ。これが侯爵家であればそうも行かないが、今のヴィオはただの旅人である。耳に入れる理由がない。


 その張り詰めた空気に、場違いにもくすくすと笑い出したのはエドだった。


「エド?」

「これは、ダメですよ先生……っ。あ、ごめんねリチェルさん。怖がらせちゃって」


 恐る恐るエドの名前を呼んだのはリチェルだ。


「直球勝負じゃなきゃ通じませんって意味です、先生。ヴィオさんは、すごい人だなぁ……!」


 くすくすと笑いをこぼしながら、エドが『すみません』と口元を抑えて顔を伏せる。ヴァルターもため息をつくと、ヴィオにすみません、と謝った。


「それは何か後ろ暗いことがあるという事でしょうか?」

「とんでもない。先程も申し上げた通り、その類の話ではありません。それにリチェルさんと出会ったのは本当に偶然です。何かを企むには時間がいささか足りないのではと。エドも先程急に思いついたのでしょう。では小細工は無しでいきます。エドとそっくりなリチェルさんを見込んで、協力いただけないかお聞きしたいことがございます」


 名指しされたリチェルが緊張した面持ちで、居住まいを正した。だがヴァルターはそこで言葉を切る。こちらが頷くまで続きを話すことはないという意思表示だろう。


 チラリとソルヴェーグに視線をやる。


 ヴァルターの言ってることは確かに正論だろう。リチェルとエドが出会ったのは偶然だろうし、この短時間ではリチェルやヴィオの背景を調べる時間はない。メリットも思いつかない。


 ソルヴェーグも同じ考えに至ったのか頷いた。


 最後にリチェルの方を見ると、こちらは予想通り許しを乞うようにヴィオを見ている。迷惑なら聞かないけれど、自分に出来ることならしてあげたい。そんな考えが透けて見えるようだ。


 ヴィオは息をつくと、続きをどうぞ、とヴァルターを促した。


「今夜開かれる競売に、贋作が出品されるのですよ」


 極めて穏やかに、ヴァルターがそう口にする。ひそめた声は葉の擦れる音のようで、カフェの喧騒にかき消される。


 だが内容は少しも穏やかではない。

 怪訝そうに目を細めるヴィオに、ヴァルターは先を続ける。


「とはいえ主催者側も贋作であることをご存知なく、その作品を本物と交換したいのです。主催者には何も知らせずに」

「それに、どうしてリチェルが?」


 慎重に言葉を選んで尋ねる。何となくもう回答は分かっていたが、念のためだ。


「リチェルさんはエドとよく似ているでしょう。もし可能でしたら、今夜わたしと一緒に競売に出ていただけないかと。エドの姿で」

「!」


 リチェルが驚いたように目を開いた。


 今度こそため息がこぼれた。

 恐らく元々はエドは欠席するか、途中で退席するかのつもりだったのだろう。ヴァルターが席を外すわけにはいかないが、弟子であれば理由は作れる。だがそもそも不在にならないのだとしたら、それが一番安全に決まっている。


(……冗談じゃない)


 何が危険じゃないだ。

 確かに一番危険なのはエドだろうが、巻き込まれた時のリチェルに全く危険が及ばない訳じゃないだろう。


「それは流石に……」

「ヴィオ」


 ヴィオの言葉をリチェルが遮った。


「お手伝いしては、いけない?」


 迷いながら、だけどその瞳はリチェルにしては珍しくハッキリとした意志を宿していた。


「あの、聞いた限りだとエド達が悪い事をしているようには思えなくて……」


 そう言うとは思っていた。

 リチェルはどこまでいっても善人なのだ。


 エドやヴァルターが困っているのなら、自分が何か出来るなら協力したいと、いつだってそう思うのだろう。だけど流石に今回は危険が伴う。そう説明をしようとしたヴィオに、ポツリとリチェルがそれに……、と静かに言葉を落とした。


「もしその絵を欲しいと思った方がいたとして、それが本物でなかったら、とても悲しいのじゃないかしら」


 ポツリとこぼされたその言葉に、ヴィオはもちろん、ヴァルターやエドですら束の間言葉を無くした。その様子に気づく事はなく、リチェルは続ける。


「わたしには絵の事はよく分からないけれど、欲しいと思う方の手元には、正しいものが届くべきだと、そう思うの。そのお手伝いが少しでも出来るなら、そうしたいと思うのだけど……」


 と、そこまで言ってリチェルは言葉を切った。

 テーブルに座った四人の視線が集中していることに気付いたのだろう。我に返ったのか、パッと頬を染めて俯く。


「ご、ごめんなさい。偉そうに、あの、わたしなんかに何が出来ると言うわけでもないんだけど。お力になれるなら、あの……」

「いや、リチェル。間違ったことは言ってない。君の言う通りだと俺も思う」


 そうフォローしながらも、言外に今の言葉がリチェルの申し出を承諾するものだと気付いてヴィオは苦笑した。


 意外だった。

 リチェルが見ているのは目の前にいるエドやヴァルターではなくて、彼らが行うといった行為の先にいる見えない誰かのことだ。


 博愛、あるいは無償の献身。

 それは他者に奉じる人間の思想だ。


 まるで聖職者のような──。


「あの、それでは……」

「分かりました」


 ヴァルターの言葉に、ヴィオは頷く。『ただし条件が三つあります』と続ける。


「一つは貴方の言葉が正しいと納得できる確証が欲しい。二つ目は俺ともう一人、同伴させる手配を頂きたい」


 この辺りは順当な要求だろう。ヴァルターも異論なく頷いた。


「最後は保険として、可能であればですが……」


 そう前置きをして、続ける。


「会場にピアノかチェロを用意してもらうことは──?」






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