op.09 序奏とロンド・カプリチオーソ(2)
昨日到着したばかりのヴィタリはこの地方の中心となる大きな町で、アガタが入院する病院がある場所でもあった。
アガタのお見舞いと必要なものを買い込む必要もあったので、二日ほど立ち寄ることになった。
「人がいっぱいだぁ!」
「見て見て! お店がいっぱい!」
昨日到着した時はもう時間も遅かったからだろう。朝からの街の賑わいに、リートとリリコがはしゃぎ回っている。
「こら、二人とも僕らからあんまり離れちゃいけないよ。近くにいて……」
「あ! リート見て! あのお店すっごく可愛いわ!」
「え、ぼくあっちに行きたい! ほらあそこに鳥がいるよ!」
「うわぁ! 二人とも言ってるそばからー!」
散り散りに走っていってしまった双子を、アルが青ざめて追いかけていく。
「わたしリリコちゃんを追いかけてくるわ! ヴィオ達はここで待ってて!」
唖然とするヴィオと微笑ましく笑うソルヴェーグを残して、リチェルは走り出したリリコを追いかける。
予想していたことだが、周りが見えない程度には二人とも大興奮の様子だ。リチェルには聞こえていなかったが、残されたヴィオは『あの二人、当初の目的(=お見舞い)を忘れてるんじゃないか……?』と呟いていた。
幸いリリコはすぐに掴まった。
リリコちゃん! とリチェルが呼ぶと悪びれもせず笑顔で振り返る。
「これ見て! すっごく可愛い!」
リリコがいたのはパン屋さんで、その一つを指差して笑う。花のような形をしたパンには、ドライフルーツがパラパラと散らされて、彩りを添えていて確かに可愛かった。
「可愛いでしょ?」
「うん! それに美味しそう!」
お店の店員は若い女性だった。声をかけられて、リリコが笑顔で返事をする。
「すみません……!」
「いいえ、とんでもない。よく通る声で『可愛い〜!』とか『美味しそう〜!』とか言ってくれるといい宣伝になるからね。全然大歓迎よ。ね、お嬢ちゃん、このパン見たことない? お花の形をしてるでしょう。ロゼッタって言うのよ。上のフルーツは私の発案」
「え、すごーい! お姉さん一人でパン屋さんしてるの?」
「まさか。夫のお店なの」
「じゃあお姉さん、お嫁さんなのね! 素敵〜!」
きゃあ、と頬を染めてリリコが羨ましそうな声を上げる。まあ、と笑う女性も満更ではないらしく、嬉しそうに笑った。
「お嬢ちゃんももっと大きくなったら、きっと素敵な人が現れるわよ。あ、それよりもお姉さんの方が先ね。もしかしたらもういるかもしれないけど」
「え?」
急に話を振られてリチェルが固まる。チラッとこちらを見上げたリリコは『リチェルお姉ちゃんはねぇ〜』と何やら思わせぶりな口調で言うと、口元に手を当てる。
「当たった? いるの?」
「うーん、ドリョクシダイかなぁ……」
「努力次第? 何それ」
クスクスと笑う二人の様子にリチェルは完全に置いてきぼりである。
えっと、と戸惑うリチェルの背後から『リチェルさーん!』とアルの声が聞こえた。
同じくリートを連れ戻したのだろう。
リートを連れたアルがこちらに手を振って先に行ってるね、と身振り手振りで伝えてくる。
リチェルが店員に事情を言って頭を下げると、店員もそれ以上引き止める気はなかったのか会話を続けることはなかった。
軽く手を振って別れると、リチェルはリリコの手を繋いで歩き出す。
「もう、リリコちゃん。勝手にどこかに行ったらダメよ?」
「はーい。でもパン屋さんのお嫁さんって言うのもアリかも。毎日美味しいパンが食べられるし、あ、だめ。それならケーキの方がいいわ。ねぇ、リチェルお姉ちゃんはどんなお家の人と結婚したい?」
不意に問われて、リチェルは言葉に詰まる。
結婚相手。
リリコが当然のように語る未来を、リチェルは持っていない。
考えたことないわ、と笑って返すとえー、とリリコが不満そうな声を上げた。
「ヴィオお兄ちゃんは?」
「え?」
心臓が一瞬はねた。
だけど小さな子どもの言う事だからと、すぐに気持ちを落ち着かせる。以前アルにも聞かれたが、ヴィオはとても良い家柄の貴族の長男で、そんな事を口にする事すらきっと失礼に当たってしまう。
(あれ……?)
前もそう思ったはずなのに、今は何故だか少しだけ胸が痛んだ気がして、リチェルは戸惑う。
だけどすぐに雑念を振り払った。そんな事軽はずみに言ってはダメよ、と口にしようとして、『ねぇ』というリリコの声に遮られる。
見下ろすと、思いのほか真剣にこちらを見上げるリリコと目が合った。
「結局、ヴィオお兄ちゃんとリチェルお姉ちゃんってどうなの?」
「どうって?」
「恋人なのかどうかってこと」
パチパチと目を瞬かせる。リリコはまだ小さな女の子のはずなのに、その口調が何故かものすごく大人びて感じる。
実際リリコはリートとはまた違った方向で大人びた所がある。
困ったように笑って、違うわ、と口にする。
「ヴィオは少し事情があって厚意でわたしを預かってくれているだけなの。リリコちゃんが考えているような事は何もないのよ」
だからヴィオにもそんな事を聞いてはダメよ、と今度はちゃんと口にする。困らせてしまうから、と言うとリリコはしぶしぶ頷いた。
そう、困らせてしまうのだ。
とまるで自分に言い聞かせるみたいに、リチェルは心の中で繰り返す。そばにいられるだけで、今一緒にいられるだけで、こんな幸せなことはきっとない。
「……ふーん、そうなんだ」
隣を歩くリリコは何だか意味深にそう呟いていたが、やがて全く予想外のセリフを口にした。
「じゃあ、リリコがもらってもいいのね?」
「え?」
裏返った声が出た。
ニッコリと笑って『うん、そうしよ』とリリコが無邪気な声を上げる。
「だってヴィオお兄ちゃんってすっごくカッコいいし、着てるものもすっごく良いものでしょ。きっとすっごくいいお家の御曹司だと思うの。そう、いわゆるタマノコシってやつね!」
ぐっと拳を握るリリコ。確かに間違っていない。間違っていないが。
「あ、あのリリコちゃん……?」
幼い女の子の口から出てくるには、いささか不似合いな単語だと言うことはリチェルにさえ分かる。
「いい男は見つけたらすぐに首根っこ押さえとかなきゃダメよ! っていっつもお母さんが言ってたもの!」
アガタさん……!
思わず喉元まで悲鳴が出かかった。
病床のアガタの姿とリリコの今のセリフが全く結びつかない。だけどもよく考えたら、幼い双子を女で一つで育てている女性なのだからきっと強い人である事は間違いないのだろう。
「そうと決まれば早速アプローチしなきゃ! リリコの魅力を余す事なく伝えるわ!」
パッとリチェルの手を離して、ヴィオお兄ちゃーーーーん! と猪よろしく雑踏の向こうで待つヴィオの元へとリリコが駆けていく。
抜群の運動神経で駆けていくリリコを我に返ったリチェルも急いで追いかけた。
「リリコちゃん、走っちゃダメ──!」
「わっ──!」
追いかけようとしたリチェルに横から微かに驚きの声が上がった。
足に何かが引っかかったと思った時にはリチェルはバランスを崩していて、一瞬遅れて倒れそうになったリチェルの手を誰かが掴んだ。
地面に倒れる途中でリチェルの身体が止まる。
「大丈夫で──、え?」
「あ──」
助けてくれた人の深緑の瞳と、視線が交わる。
一瞬の間。驚きに目を見開いた相手に、リチェルもぱちぱちと目を瞬いて──。
「わっ!」
「きゃっ!」
同時にバランスを崩して派手に道に倒れ込んだ。
「エド!」
「リチェル!」
パタパタと走ってくる音がする。
駆け寄ってきたヴィオに後ろから助け起こされて、リチェルはごめんなさい、と謝る。同じく駆け寄ってきた男性がリチェルを助けようとしてくれた主を助け起こしている。
意外にも相手はリチェルより少し年下と言って良いくらいの少年だった。亜麻色の髪が帽子の隙間から少しだけ跳ねている。
「すみません。うちのが迷惑を」
「いえ、こちらこそ。お怪我はありませんか?」
ヴィオと男性が謝罪を交わし、そしてお互い不意に無言になった。ヴィオが驚いたように少年を見ている。そして少年を助け起こした男性も同じようにリチェルを見ていた。
「な……」
「これは、また……」
リチェルも呆然としたように目の前の少年を見る。
亜麻色の髪。
深緑の瞳。
そう、ぶつかった少年は驚くほどリチェルとそっくりだった。





