op.01 昔、一人の旅人が(5)
生垣に足をぶら下げて、一人の少女が歌を歌っていた。
それは子どもでもよく知る聖歌のひとつだ。少女の歌声はただただ楽しそうで、どこまでも自由だ。
歌声が最後の音を奏でた瞬間、誰もいないはずのその場に拍手が響き渡った。
「ブラヴォー!」
そんな声がすぐ下から聞こえてきて、少女は驚いて下を見て、初めて観客がいたことに気付く。
鳴り止まない拍手に頬を赤くする。服の埃を払って立ち上がると、キョロキョロとあたりを見渡す。もちろんそこには少女しかいなくて、紳士のくれた拍手は自分に向けられたものだと理解した。
目が合うと、紳士はもう一度「ブラヴォー!」と繰り返す。紳士の言葉に後押しされるように少女は見様見真似の礼をした。紳士は笑ってまた短い拍手をしてくれた。
「あまりに美しい歌声だから天使が歌っているのかと思ったよ。どうかな? 僕は天使様のお名前を聞いても赦されるかな?」
馬鹿にした風ではない茶目っ気のある口調でそう尋ねた壮年の紳士に、少女は恥ずかしそうに頬を染めて答えた。
「リチェルです。おじさまは教会に御用ですか?」
「あぁ、そうだね。寄ってみるだけのつもりだったんだが、今まさしく用が出来たかもしれない。ここで君に出会ったからね」
クスクスとリチェルは笑って、「シスターを呼んできます」と身を翻す。
だけど冗談だと思っていた紳士の「君に出会ったから用ができた」というのはあながち冗談ではなかったのだ。それが分かったのはリチェルと紳士が出会ってわずかに三日後のことだった。
彼は隣国から来たとある街の領主で、自身が設立した楽団のメンバーを探しに旅をしているらしかった。彼はそれから二度修道院を訪ね、訪問のたびにリチェルの歌を聴いていった。
「リチェル。君、僕のところで歌ってみないかい?」
数日後、シスターに呼び出された先で紳士はリチェルに尋ねた。恐る恐るシスターの顔を見ると、彼女は頷いた。
遅かれ早かれリチェルは奉公に出されることが決まっていた。ある程度の年齢になればどこかに奉公に出されるのは、親のいない子供たちにとって当たり前の事だからだ。リチェルは今年で十二になった。
紳士の顔と差し出された手を見比べる。
この手を取ったら、リチェルは歌って生きていくことが出来るのかもしれない。それは少しだけ怖くて、だけどとても魅力的な誘いだった。シスター達もリチェルが歌うのが好きなことを知っていたから、この紳士の申し出を受けたのだろう。
精一杯の上品な仕草でリチェルは頷いた。
元々孤児院にいる自分には拒否権などない。だけどそれ以上に紳士の申し出はリチェルにとって魅力的だった。歌っていられることはリチェルにとっての幸せだ。
「決まりだね。君を歓迎するよ」
そう言って笑った紳士の言葉には、嘘はひとつもなかった。
ひとつも、なかったのだ。
◇
リチェルがその宿の前に到着してから、もうすでに十分以上が経過していた。
宿に入ろうとする人が来ては道を譲り、こんな所に立っていては苦情が入るかもしれないと扉を開けようとしては躊躇する。そんなことをもう何回も繰り返している。
(迷惑、じゃないかしら……)
もちろんその宿はヴィオが泊まっている宿だった。
頭からかぶった燕脂のショールを胸の前で引き合わせる。
リチェルの持ち物の中では唯一良い代物で、孤児院にいた頃から持っていたものだ。盗まれたり汚れたりするのが心配で滅多に引っ張り出さないのだが、うんと考えた結果今日は持ち出してきた。ヴィオに会いに行くのに、普段の格好よりはマシではないかと思ったのだ。本当は帽子も脱いだ方が良いのだろうけど、髪を下ろしたまま外を歩くのはどこか頼りなくて出来なかった。
いつでも来てくれ、と言われたからには一度くらい行かないと失礼ではないか。
もう一度お礼を言った方が良いんじゃないか。
そんな思考に背中を押されて来たのは前回ヴィオと会ってから三日後のことだった。
その実、またヴィオに会いたいだけだと言うことは自覚していて、その事がリチェルの罪悪感をより強くする。やっぱり社交辞令だったらどうしよう、そんな考えが頭から抜けない。
「リチェル?」
だからその声が背後からかかった時には、猫のように飛び上がりそうになった。
「ヴィオさん!」
振り返るとこの間出会った時と何ら変わらない青年がリチェルの後ろに立っていた。買い物帰りのようで、無造作に片手にインクを持って、背には前回と同様ヴァイオリンケースがある。
「あ、あの……っ」
咄嗟のことで声が出なくなる。
いきなり訪ねたのはいつでも訪ねてくれ、とヴィオが言ってくれたからだし、宿に話も通すと言ってくれていたから失礼なことをしているわけではないと思う。……ないのだが、これまでリチェルには気兼ねなく訪ねてもいい相手などいなかったから、どんな顔をして良いかわからない。
「あぁ、入れ違いにならなくて良かった」
「え?」
だがヴィオはさして気にした風でもなかった。
「どうぞ」
片手でインクを持ったまま、ヴィオが扉を開けてくれる。そのままの姿勢でヴィオが止まっているので、キョトンとしてヴィオを見つめて、一歩遅れて扉を支えてくれているのだと言うことに気づいた。
「ご、ごめんなさい!」
そういえば上流社会では、男性というのは女性にこうして扉を開けてくれたりするらしい。リチェルには経験がないのでまるで未知ではあるが、女性として扱ってくれていると言う事実にますます気後れしてしまう。
フロントマンはリチェルの方をチラリと見ても何も言うでもなかった。ヴィオの言った通りあらかじめ話を通してくれているのだろう。そういえば何も言ってないのに、ヴィオはリチェルが自分を訪ねて来たのだと理解したようで、特に疑問を挟むでもなく部屋まで案内してくれる。用件を聞かれないことは、リチェルにとっては有難い。
どうして来たのか、と聞かれたら何も答えられなくなってしまう。
階段を上りながら、そういえば手土産も何も持っていないことに気付く。リチェルにお客様が来たことはないけれども、本邸のお客様はいつも手土産を持参してくるのが普通だと以前イルザに聞いた。無論そうだとして、リチェルには手土産のアテも買うお金もないのだが、無性に恥ずかしくなる。
部屋の前までたどり着いたところで、ヴィオは扉に手をかけてぴたりと動きを止めた。どうしたのだろう、とリチェルが不思議に思っていると、少し気まずそうにヴィオが振り返った。
「すまない、少し散らかっているんだが……」
ヴィオの気遣いにリチェルは急いで首をふる。急に訪ねたのは自分の方だ。しかも何も持たずに。
だがヴィオの言う『少し散らかっている』が、決して気遣いではない事をリチェルはすぐに理解した。
「…………」
「…………」
一歩踏み入れて、目の前の光景にポカンとしてしまう。
部屋の作りは単純で、ベッドと書き物をする机があるシンプルな内装だ。ただ机の上には所々インクで何事かが書きつけられた紙が散らばっていたし、ベッドの上には畳まれていない衣服が数着と何故かペンとここにも紙が散らばっていた。足の踏み場もない訳では決してない。
ただ客を招くにはいささか雑然としている、とは思う。
そぅっとヴィオを見ると、ヴィオは決まり悪げに部屋を見渡している。
「……片付けは苦手で」
そうして言い訳のように付け足した。
「……それに昨日はちょっと徹夜で作業をしていたから」
しばしの沈黙。ヴィオはこめかみを押さえて、いや……、と呟きやがて意を決したようにリチェルの方を向いた。
「やはり少し片付けるから待っていてくれ」
その生真面目な声音に、堪えきれずクスクスとリチェルは笑い声を漏らした。
「ごめんなさい……っ、つい」
先ほどまで手土産がない、と緊張していた事も原因だろう。部屋の様子とヴィオの様子に肩の力が一気に抜けたのだ。
止まらず笑いながら、ごめんなさい、と繰り返す。見上げたヴィオの顔は、少し驚いたようだった。
「いや、俺が悪いから構わないが……そんなにおかしかったか?」
「だって、完璧な人だと思ってたんです。ヴィオさんのこと」
ヴィオが怒っていないことに安堵して、リチェルは思っていたことを口にしてしまう。
あんなに綺麗なヴァイオリンの音を奏でる人。
落ち着いた対応に、自然に扉を開けてくれる紳士的な動作も流れるようで。
店番をする小さな子供にも、リチェルみたいなボロを着た娘にだって決して変わることはない自然な態度も、リチェルが気後れするには十分だった。
(だけど……)
何だ、この人にも苦手なことがあるのね。
失礼かもしれないけれど、そんな当たり前のことにとてもホッとした。とはいえやっぱり笑ってしまったのは失礼だっただろうか。
部屋に散らばった紙を拾おうとしているヴィオの背中に笑ってしまってごめんなさい、と声をかけると、ヴィオはいや、と首を振って予想外の言葉を口にした。
「君もそんな風に笑うんだな」
今度はリチェルが目を丸くする番だった。
あ、と口元を押さえる。そういえばこんな風に笑ったのはいつぶりだろう。もうよく覚えていない。
恥ずかしいような、気まずいような感覚に胸がむずむずした。きっとそれは、ヴィオがリチェルに自由に振る舞うことを許してくれているからだ。元々リチェルは落ち着いてはいたが、明るい性格だった。随分昔に忘れていた感情がヴィオと一緒にいると昨日のことのように内側から顔を出す。それはリチェルにとっても驚きだった。
ヴィオの横に並んで、そっと紙を拾うと、ヴィオがリチェルの方を見た。
「ヴィオさんさえ良かったら、お手伝いしても良いですか?」
リチェルの申し出に流石にそれは、とヴィオは断ろうとして、すぐに言葉を切った。
「……いや。じゃあ、よろしく頼む」