op.07 懐かしい土地の思い出(2)
「ヴィオ様、そろそろ一度休憩になさいませんか」
ふいに集中していた意識に声が滑り込んだ。
かけられた声につられるように、ヴィオは机から顔を上げる。振り返るとソルヴェーグが濡れた布を片手に、柔和な笑みを浮かべて立っていた。
不思議に思って手元を見るとわずかに手がインクで汚れていた。大人しく差し出された布を受け取って手を拭くと、ヴィオは息をつく。
「今どのくらいの時間だ?」
「もうすぐお昼です。昼食もアルフォンソ殿が作って下さるそうで。ガスパロ様の分もまとめて作ると言ってくださいました」
「そうか。ありがたいな」
「えぇ、本当に。ところで、曲の方はいかがですか?」
「あらかた出来たがもう少し整えてから楽譜に落とすよ。明日からは練習に入れると思うんだが」
「お疲れ様です。ここは片付けておきますから、少し外に出られてはいかがでしょうか?」
「……そうする」
ずっと同じ姿勢でいたからか身体が凝り固まっていた。軽く伸びをして、椅子から立ち上がる。
後のことはソルヴェーグに任せて部屋を出た。まだ作業中だと伝えているから、軽く整えるだけにしてくれるだろう。
外へ出ると、ずっと室内で集中していたせいか太陽の光が目に沁みた。空は晴れ渡って雲ひとつない。見事な秋晴れだ。
(さて、どうしようか……)
リチェル達の様子でも見に行こうかと玄関に背を向けた時、ふと遠くから農具の音が聞こえて足を止めた。
音に誘われるように向きを変える。規則正しく土を耕す音は家の裏手からで、少し坂を登ると畑を耕すガスパロの後ろ姿が見えた。
向こうも近づいてくるヴィオに気付いたのだろう。一度手を止めるとヴィオの方をチラリと一瞥した。
「……どうかしたのか?」
「いえ、音が聞こえたのでつい……ご迷惑でしたか?」
「いや。ひと段落ついたのか?」
「はい。色々とありがとうございます」
結局ガスパロにも一晩どころではなくお世話になることになった。
楽器を演奏するからうるさいかもしれない、というヴィオの申し出にも『構わん』とぶっきらぼうだが少しも迷惑がることなく了承してくれた。口数こそ少ないものの、良い人なのだろう。
うずくまって耕した土から大きめの石を取り除きながら、ガスパロが何かを懐かしむようにボソリと口にする。
「……お前さんは、よく父親に似ているな」
「……そうでしょうか?」
「あぁ、今坂を上ってきた姿を見て昔のディルクを思い出したよ」
その言葉に合点がいく。
容姿が似ているということであれば確かにそうなのだろう。ヴィオは意識したことがないが、事あるごとに『幼い頃の旦那様そっくり』と乳母が笑っていた事は記憶に残っている。
「父とはどれくらい前からの付き合いなんですか?」
「もう十五年だ」
迷うでもなくガスパロが答えた。その年月を淀みなく答えられるくらい、ガスパロにとって父は印象的な人物なのだろうか。
「俺と父親の関係が気になるのか?」
「……いえ」
「嘘をつけ。気になると顔に書いてあるぞ」
珍しくガスパロが笑う。
「ディルクとはあまり仲が良くなかったのか?」
「そう言う訳ではありません。ただあまり私的なことを話す機会がなかっただけで」
父は多忙だったが、全く話す機会がない訳ではなかった。
幼い頃ヴァイオリンの稽古をつけてくれたのは父だったし、大きくなってからは領地のことや経営のことも教わった。
「そうか。よく話すやつだったが息子には話さんか。ただまぁアイツはどうでも良いことを喋ってるように見えて、その実必要なことを選んで話しているような奴だったからな。お前さんとは少しタイプが違うかもな」
ひょいひょいと慣れた様子で石をつまんでいたガスパロの手がふいに止まる。何かを思い出すかのように目を細めて、やがて独り言のように話し出した。
「……ディルクがうちへ来たのはカミさんと娘が逝っちまったすぐ後のことでな。俺が腑抜けになっていた所を助けられた」
当然のことだが初めて聞く話だった。
ソルヴェーグに聞くまで、ヴィオはガスパロの存在すら知らなかったのだ。
同時に先ほどガスパロが父との付き合いの年月を淀みなく答えたことに合点がいく。妻と娘の死んだ年と同じなのだ。忘れられるわけがないだろう。
「当時ディルクは村長の家に泊まっていたんだが、どうしたことか毎日家へ来て勝手に畑仕事をしていってな」
「父が、畑を?」
父もヴィオと同様生まれた時から侯爵家の長男だ。土に触れる機会なんてほとんどないはずだ。家にいた時も庭仕事をしている所なんて見たことがない。
予想通りガスパロはそれがてんで無茶苦茶でな、と笑う。
「流石の俺も伏せっていられなくて、何をしてるんだと怒鳴り込んだよ。そうしたらアイツ悪びれもせずに『じゃあ教えていただけませんか?』と言いやがった」
「それで父に農作業を?」
あぁ、とガスパロは頷く。
「もうこのままカミさんと娘の所へ行こうかと思っていたんだがな。不思議なもんで、死んでもいいと思っていても、自分の畑を好き勝手されるのはたまらんかったらしい。その矛盾に気付いた時には逝く気が失せちまってた」
それを見越したみたいにディルクはさっさと村から出ていったよ、とガスパロが苦笑する。
「本当はアイツはこの村に長いこと留まる気なんてなかっただろうにな。そんな様子の俺がいたから留まったんだろう」
だから、とガスパロは続ける。
「うちに泊まっていることなら気にせんでいい。俺はアイツには一生かかっても返せんくらい大きな借りがある。返すアテが増えて気が楽になったくらいだ」
「そう、ですか……」
何故だろう。
もっと気の利いた言葉があるはずなのに、どうしてか口の中が乾いてヴィオはそれだけしか言えなかった。
やがて『また飯が出来たら呼んでくれ』と言われて、ヴィオはガスパロに礼をして背を向けた。





