op.06 小さな旦那様、小さな奥様(1)
散歩へ行きたい、と母が珍しく言い出したのは穏やかな気候が続く秋口のことだった。
息抜きに練習していたヴァイオリンを片付けて玄関ホールへ向かうと、お付きの侍女と一緒に母が待っている。
『今日は体調は良いの?』
『えぇ。いつも心配かけてごめんなさい。ヴィクトルったら今日は朝からずっと部屋にこもりきりだったでしょう。貴方も外の空気を吸った方が良いのではないかと母様は思ったのよ』
そう言って笑う母は確かにいつもより顔色がよく見えた。
それでも『庭を歩くだけだから家で待っていて』と母に言われたお付きの侍女は最後まで心配を隠せないようだった。
自宅の庭といっても侯爵家の庭は広く、母の普段の体調を思うと侍女の心配はとがめる類のものではない。
『何かあったらすぐに呼ぶから』とヴィクトルが口にしてようやく侍女は引き下がった。
どうぞ、と自然手を差し出すと、母は嬉しそうに笑って手を取った。
日差しは温かく、風もまだ冷たさを感じない。庭を歩きながら、そう言えば今日は父が帰ってくる日だったなと思い出した。
(あぁ、だから──)
だからきっと、母は外へ出たいと言い出したのだろう。
多忙である父は家を不在にすることが多く、家にいても執務に追われている。体調を崩しがちな母と気兼ねなく過ごせる時間は短かかった。
他愛ない話をしながら庭を回る母はなかなか家の中へと戻ろうとはしなかった。
この人は今、何を考えているのだろうか。
ふとそんな事を思った。父を待つ時間は一緒にいる時間よりずっと長くて、そうやってそばに居られない人を無邪気な子どものように待ち続けるのは、とても難しいことのように思える。
少なくともヴィクトルには、不満よりも喜びが大きい母の気持ちを理解するのは少し難しかった。
母に促されるままに、最近習っている曲のことや学んでいることを話した。父だけではなくヴィクトルも母と過ごす時間は多い訳では無い。母の体調がいい日に、最近の出来事を話して聞かせるのはいつもの事だった。
そうして半刻程経った頃だろうか。
『父上が帰ってくるのは夕刻だと聞いてるから、流石に外で待つのは難しいよ』
少し前から心配そうにこちらを窺う侍女の姿を見兼ねて、ヴィクトルはそう口にした。体調がたとえ良いのだとしても、長時間風に当たり続けると身体にさわる。
母は丸い目をぱちくりと開いて、恥ずかしそうにふわりと笑った。まるで悪戯がバレた少女のように、うん、とはにかみながら頷く。
『だけどもうすぐ帰ってくるかしら、と思えることがとても楽しいの。誰かが帰ってくる時間を楽しみに思えることが、とても嬉しいのよ』
あどけなく笑って、だって、と母が言う。
『待ち遠しいと思えるのは、大切だと思える人がいる証でしょう?』
その時の自分には、母の言葉の意味を理解することは難しかった。だからただ、そんなものか、と思った。
『──そろそろ屋敷に戻ろうか』
曖昧に頷いてからそう言うと、今度は母は大人しく頷いた。
母の目線が名残惜しそうに屋敷の入り口を振り返ったことには気づいたけれども、母の体調と侍女の心配を考慮するとこれ以上は付き合えない。
だから気づかないフリをして、ヴィクトルは屋敷へと足を向けた。
今回から2章が始まります(内容が短いので2話更新です!)
Harmoniaは全4章、WEBは16話で終わりの予定です。2章は全3話。
2章は1章とは打って変わって、音楽を中心とした明るくほのぼのとした話になりますので、楽しんでいただけたら幸いです。少しずつ恋も芽吹き始めるかもしれません。
最後になりましたが、いつも見てくださる方ありがとうございます。
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