op.04 エレベの濃い霧の中に(4)
元々の約束通り、昼過ぎになるとヴィオはリチェルを迎えに来てくれた。
玄関で迎えに来てくれたヴィオと目を合うと、リチェルは努めて笑顔を作る。後ろから出てきたサラがいらっしゃい、とヴィオに朗らかに声をかけた。
「ごめんなさい、少しお話ししたいのだけど今日の夜は公演があるから急いでいて」
「いえ、いつもありがとうございます」
ヴィオが丁寧に頭を下げる。
「じゃあリチェル。また明日来てくださるのを待っているわ。さっきのこと、考えておいてね」
「……はい」
今日最後に聞いた話を思い出して、リチェルは頷く。
ヴィオが不思議そうな顔をするが、ここで話をすることではない。二人でサラの屋敷を出ると並んで歩き出す。
「今朝はすまない」
開口一番謝られて、リチェルはふるふると首を横に振る。
「ううん、全然大丈夫よ。いつも送ってくれてありがとう。私こそ、今朝は勝手に出てしまってごめんなさい」
心配をかけたかもしれない、と謝る。
「その、少しは眠れた?」
「あぁ。リチェルのお陰だ」
ヴィオの答えに良かった、と胸を撫で下ろす。
ヴィオの考え事の力になることは出来ないのだから、せめて少しくらい眠る時間に充てられたのであれば幸いだ。
黙って二人で連れ立って歩く。
もう何度も歩いた道だが、今日はお互いどこか気詰まりな空気が流れていた。それを意識していて、リチェルには口に出すことができない。
「リチェル」
「はい」
不意にヴィオに名を呼ばれて、弾かれたようにリチェルは顔を上げた。見れば、珍しく歯切れの悪い口調でヴィオが続ける。
「実は、君に話しておかないといけないことがある」
「え?」
「その、留守中に来客があって……」
「お客さま?」
「そうなんだが、客と言っても昔から世話になっている人で……。恐らくこれから行動を共にする事になると思うから、リチェルにも帰ったら紹介したい。突然のことですまないが」
「ううん。もちろん大丈夫よ」
ヴィオの言うことにリチェルが不満を言うことなどない。ただ心配があるとしたら──。
(わたしがいて、迷惑にならないかしら……)
ヴィオの事情を知っている人であれば尚更だ。元々ヴィオといるのは、身を落ち着ける場所に着くまでと言う話だった。ヴィオの悩みにリチェルは力になる事ができず、むしろ自分がいる事で邪魔になるのでは無いだろうか。
今朝からリチェルの心中を埋める悩みは、今日サラと話したことによって余計に膨らんでいた。
「それからもう一つ。今日から部屋を分けて取っているから、リチェルは別室を使ってもらっても良いだろうか?」
「え?」
驚いてヴィオを見上げる。でも、とリチェルは呟く。
その分のお金が余分にかかってしまう。ただでさえヴィオには服も食事も世話をしてもらっているのに、部屋代まで別に支払ってもらうのは──。
そこまで考えて理解した。一緒に旅をする人が一人増えるのであれば、もう一人分の寝る場所が必要になるのは当然だろう。
「あの、わたしは全然ソファでも……」
「いや、そう言うわけじゃない。そもそも君をソファで寝かせる気はないんだが……」
どうにもヴィオの歯切れが悪い。
コホン、と咳払いしてヴィオが言いづらそうに続ける。
「今のリチェルはどう見てもきちんとした令嬢なんだ。年頃の女性が男と一緒の部屋にいるのは、世間的には問題があるから……」
そこまで言われてようやくリチェルもヴィオの言わんとすることを理解した。
リチェルが元々住んでいたクライネルト家の楽舎では、楽団員であれば男性も女性も同じ建物で寝ていた。
イルザが一人部屋だったのは、彼女以外昔の楽団員が残っていなかったからで、寝る場所は複数人で使うのが普通だ。
何より、男女の性別以前にリチェルはクライネルトの所有物だったのだ。
所有物だから部屋を与えられるはずもなく、自身が頭数としてカウントされない事に違和感がない。
だけどそれは今のリチェルには当てはまらない事だ。
もしかしたらリチェルが一緒の部屋にいた事は、ヴィオにとって著しく都合が悪い事なのかも知れないとようやく理解する。
「ごめんなさい……。わたし、気が回らなくて……」
「リチェルは知らなかっただけだろう。知らないことは悪いことじゃない。気を回せなかったのは俺の方だ」
そうやっていつもリチェルの無知をヴィオは庇ってくれるが、そもそもリチェルに常識が欠けていることは事実だ。
力になる以前に、そういった小さな知らない事が積み重なって足枷になっていく。きっとその知らないことは、ほとんどの人にとって常識といえる知識なのだろう。
ごめんなさい、と小さく呟く。
「リチェル。ところでサラさんが言っていたという話なんだが……」
「ヴィオ様」
不意に聞こえた落ち着いた男性の声に、リチェルとヴィオは同時に顔を上げた。宿の手前で立っていた老紳士の姿を目に留めて、あ、とリチェルは小さな声をこぼす。
(朝の!)
今しがたヴィオの名前を呼んだのは、間違いなく朝リチェルがぶつかった老紳士だった。彼も気付いたのか目を丸くしてリチェルを見ている。
「おかえりなさいませ。遅かったのでお迎えにあがったのですが、その方がお連れの……」
「あぁ」
「リチェルと申します」
慌ててスカートを摘んで、あいさつをする。
「今朝は失礼をしてしまって申し訳ありません」
「いえ、とんでもない。貴女がそうでしたか」
「知ってるのか?」
ヴィオが老紳士に向かって尋ねると、今朝宿の前で行きあいまして、と当たり障りない説明をした。
「では改めまして。ソフィアン・ソルヴェーグと申します。ヴィオ様が幼い頃からおそばでお仕えしておりました。こんなところで立ち話も何ですので、宿へ戻りましょう。お飲み物をお淹れ致します」
◇
『リチェル。この劇場で歌ってみない?』
レッスンが終わった後、改まってサラが口にした言葉はリチェルを動揺させるには十分な言葉だった。
そこまで認めてくれたことの嬉しさと、だけど劇場で歌うにはきっともっと練習が必要で、そんな時間が自分にはない事を思い出して途端に申し訳なくなる。
『でも、わたしいつこの町を出ていくか分からなくて……』
『そうね。ごめんなさい。言葉を間違えたわ。試しにと言う意味ではなく、ずっとここでと言う意味よ』
予想もしていなかった言葉に、リチェルは目を見開く。
『ほら、先日あなたの境遇を聞いたでしょう。ずっとヴィオさんと一緒にいるわけではないし、まだ身を置く場所が決まっていないのなら、それがここでもいいのではないかと思ったの。実を言うとオーナーと奥様にはお話ししていて、もう了承を頂いているのよ』
もちろんリチェルの面倒は私がみるわ、とサラが続ける。
『知っての通り、私は子供のいない身だから。一緒にいて、今でなくても貴女がいつかいいと言ってくれるなら、私の養子になってはくれないかしら?』
それはリチェルにとって願ってもない話だった。
夢にまで見た舞台に立てる。ずいぶん遠回りしたけれど、孤児院でグレゴール・クライネルトと約束したリチェルが望んだ未来のはずだ。
それなのに、頭に浮かんだのは美しいヴァイオリンの調べとそれを奏でる青年のことだった。
『少し、考えさせてもらえませんか?』
気付けば、そう返事をしていた。
何を考えると言うのだろう。否という選択肢など存在しないのではないか。喜べばいいのだ。ずっと願って、望んだ未来のはずなのに。
(どうして……)
棘が刺さって抜けない。鈍い痛みが止まない。まるでそれが苦しくて悲しいことのようだと、リチェル自身もその感情にどう名前をつけていいのか、分からなかった。





