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【完結】Harmonia ー或る孤独な少女と侯国のヴァイオリン弾きー  作者: 原案・絵:若野未森、文:雪葉あをい
第1章
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op.04 エレベの濃い霧の中に(2)

 微かに扉が軋む音がした。

 ゆっくりと遠ざかっていく軽い足音に記憶の中のリチェルの足音が重なる。ぼんやりとした意識のままもう一度ヴィオは目を閉じた。


 夢うつつにリチェルが何か言っていたような気がする。


 そこで意識が覚醒した。

 ハッとして机から顔を上げると、部屋の中はまだ薄暗い。いや違う。カーテンが閉まっているだけだ。雰囲気から、朝と呼ぶには遅い時間である事は何となく察せた。


「…………リチェル?」


 いるはずの少女の名を呼ぶが、部屋はシンとしていた。

 そこで初めて手の中に紙片が握り込まれていることに気付く。丁寧な字で書かれた言伝を目で追って、意味を理解すると一気に身体の力が抜けた。


(やってしまった……)


 どうやら完全に寝過ごしたらしい。


 ため息をついた瞬間背中から毛布が滑り落ちた。かけて寝た覚えはないからリチェルだろう。明かりが入ってこないようにきちんと閉じられたカーテンを見ると、起こさないように気を遣ってくれたのだと分かる。


 前髪をかき上げて、もう一度深くため息をつく。

 何かに没頭すると、どうにも周りの事が疎かになってしまう。昨日もリチェルとろくに口を聞いていないが心配させただろうか。


(いや……)


 そもそも二人でいてもそこまで話をしている訳ではない。

 ヴィオが集中している時、リチェルは自然とヴィオから距離を取った。だけどリチェルがそれを気まずく感じている素振りを見せた事がないからか、思い返せば気を遣った事がない。


 元々ヴィオは饒舌ではないし、他人とずっと一緒にいる事を得意とはしていない。だけど今まで一緒にいたのにリチェルに対して、そういった種類の煩わしさを感じた事がなかったことに気付く。


「…………」


 シンとした部屋を見回す。


 音のない、リチェルがいない部屋は、数週間前までは当然だった光景だ。それなのに、ただこの場にリチェルがいないと言う事がヴィオを落ち着かない気分にさせる。


「……そうか」


 思い当たって、ポツリと呟く。

 リチェルがいると多分、空気が柔らかくなるのだ。


 特に最近は出会った時の遠慮や緊張がなくなり、生来の穏やかで優しい性格が出てきているからだろう。晴れた日の昼下がりのような穏やかな空気を、彼女がいつもまとっているから──。


「…………」


 しばし思案して、立ち上がった。

 時間を見るとリチェルが出たのはつい先程のことだろう。せめてちゃんと無事にサラの家に着いているかどうかを確認した方が安心する気がする。


 と、コートを腕に引っ掛けたところで手を止めた。


 廊下から足音がする。コツ、コツと規則正しく刻まれる丁寧な足音。宿の人間ではない。何よりヴィオはこの足音に酷く覚えがあった。


(まさか……)


 足音がヴィオの部屋のドアの前で止まったのが分かる。コンコン、とハッキリとした音がドアを叩いた。


 深く、息を吐き出す。


 間違いないと思った瞬間意識を切り替えた。コートをベッドに放り捨てると、ヴィオはドアを無言で開けた。

 そこには予想していた通りの人物が立っていた。

 

「ソルヴェーグ」


 慣れ親しんだ執事の名を呼ぶと、廊下に立つ老紳士は無言で一礼し、やがて安堵したように笑った。


「ご無事で何よりです。ヴィクトル様」




   ◇




 リチェルがサラの家に着いたのはもう間も無く約束の時間になろうかという時だった。迷わずに着けてよかった。もし迷ってしまったら遅れているところだった。


「いらっしゃい、リチェル」

「遅れてすみません、サラさん」

「何を言ってるの、時間ぴったりよ。あら、今日はヴィオさんは?」


 迎えてくれたサラはいつものように笑顔で、その姿を見て安心する。ヴィオは少し用事があって、と言葉を濁すとサラがそうなの、と残念そうな顔をした。


 何か用事があったのだろうか、と疑問に思ったと同時にサラの後ろに見慣れない婦人の姿がある事に気付いた。目が合って、急いでリチェルは姿勢を正す。


「あらまぁ、可愛らしいお嬢さんだこと」


 殊更ゆったりとした口調でそう言うと、同じくゆっくりとした足どりでリチェルの方に歩いてきて婦人は微笑んだ。

 サラよりも十歳以上は年上だろう。

 上品な落ち着いた物腰で、婦人はこんにちは、と挨拶をした。


「は、初めまして。リチェルと申します」


 スカートをつまんで、サラに習った通りにお辞儀をする。その様子をまぁまぁと顔を綻ばせて婦人が答える。


「リチェル。こちらは私がお世話になっているオーナーの奥方のルーデンドルフ婦人よ」

「えぇ、えぇ。お話はサラから聞いていますよ。ノーラ・ルーデンドルフと言います。ノーラさんでも奥様でも好きに呼んでちょうだいね」

「は、はい。えっと……」


 戸惑ったようにサラを見上げると、サラは大丈夫というように微笑んだ。ふふ、とノーラが上品に笑う。


「リチェルはとっても美しい声で歌うのだと聞いたわ。後で私も聴かせてもらっても良いかしら?」

「は、はい。奥様」

「ふふ、緊張させてしまったわね。サラ、私が聴きに行くまでにちゃんとリラックスさせてあげてちょうだい。せっかくの美しいソプラノが伸びなくなってしまうと可哀想だもの」

「大丈夫ですよ、奥様。歌い始めるとリチェルは周りのことを気にしなくなりますから」

「あらまぁ。若い頃の貴女とそっくりね」


 クスクスと笑って、ノーラは使用人に連れられてその場を離れていく。


 本当に挨拶に来てくれただけのようだが、リチェルの心臓は早鐘を打っていた。そういえばずっとサラの家に練習に来ていたのに、当主やご婦人に挨拶もしていなかったのだと思い出して恥じ入る。


 サラに迷惑をかけていなかっただろうかと尋ねると、サラは驚いたように目を丸くする。


「あら、それは良いのよ。リチェル。貴女は私のお客様だし、旦那様にわざわざ挨拶する方が珍しいもの。それに旦那様には貴女が習いに来た初日にヴィオさんが挨拶をしてくれているから」

「え?」


 あら聞いてなかった? とサラが首をかしげる。


「初日貴女をお迎えにいらした時よ。私も驚いたわ。ヴィオさんはお若いのにとてもしっかりしている方だと旦那様も褒めていらしたの」


 そう言いながら、サラはいつもの練習室にリチェルを連れて行く。廊下を歩きながら、ごめんなさいねと口にした。


「いきなり奥様を紹介してびっくりさせてしまったでしょう。ヴィオさんも来るものだと思っていたの。でも仕方ないわね、先にレッスンをして、その後少しお話をしましょうか」


 サラのいう話はいつものお茶会と違うことはリチェルにもうっすらと想像がついた。サラの言葉はいつだってリチェルを不安にさせるものではないが、今日は少し心がザワついた。


(話って、何かしら……)


 頭の隅に引っかかるそれを振り払う。まずはレッスンに集中することが大事だ。話の内容は終わった後に考えればいい。



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