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【完結】Harmonia ー或る孤独な少女と侯国のヴァイオリン弾きー  作者: 原案・絵:若野未森、文:雪葉あをい
第1章
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op.01 昔、一人の旅人が(2)

 お昼も過ぎた頃、リチェルはそっと楽舎を抜け出した。

 無事誰にも気づかれずに街まで下り、糸を買い終えたところでまだ十分に時間はあった。何せリチェルは今日はずっと楽舎にいなければならなかったのだし。

 

(少しくらい寄り道しても大丈夫かしら……)


 きっと誰もリチェルの不在になんか気付かない。普段は夕方も雑用があるが、今日は夜まで本邸に顔を出さないようにキツく言われている。そのことに後押しされて、くるりと足が本邸とは違う方向を向いた。

 誰かに見咎められないように、とかぶっていたぶかぶかの帽子を目深にかぶりなおすと、買い出しのカゴを持ったまま足早にその場を離れる。

 リチェルが向かったのは西通りのはずれから、さらに裏手にある小高い丘の上だ。

 

(……良かった。誰もいない)


 丘に吹く風は心地よく、少しだけ笑みが漏れる。街のはずれ、宿屋の裏手にあるこの場所は、排水の臭いのせいかあまり人が寄り付かない。だから〝練習〟にはうってつけの場所なのだ。

 目深に被った帽子を少しだけ上げて、リチェルはスッと息を吸う。

 そして──。

 

 丘の空気に溶けるようなソプラノが軽やかに空気を震わせた。


 その歌が何と言う曲なのか、リチェルは知らない。イルザがここ数日歌っているのを聞いただけで、正確なリズムや音程もよく分からない。イルザは決してリチェルに歌を教えようとはしなかったし、自分も教えを乞うことはなかった。ただとても綺麗な歌だったから歌ってみたかった、それだけだった。

 時たま買い物帰りに抜け出して歌っている事は、誰にも言えないリチェルだけの秘密だ。今日みたいに少し時間が空くと、リチェルはこの丘へ歌いに来る。全力で歌うのは流石にためらわれるけれど、少しばかり声を出しても誰にも見咎められたことがない。この場所はとっておきだった。


(あれ、この後は何だっけ?)


 うろ覚えのせいか歌詞もよく覚えていない。適当に誤魔化しながらメロディラインをなぞっていく。

 初めて聞いた時、うんと空高くへと手をのばすような歌だと思った。奏でる音は伸びやかに風の行き先を辿るよう。このまま風に乗ってどこまでも飛べるような、そんな気がしてリチェルの足はステップを踏む。

 歌いながら、くるりと振り返ったその先で──。


 琥珀の瞳と、目が合った


「!」


 歌が途切れた。驚きに目を見開いたリチェルの目の前には、見知らぬ青年がひとり立っていた。

 寝癖のついた濃いブラウンの髪、皺のついたシャツ。何故か片手にはペンを握っている。急いで走って来たのか息を切らして、だが青年の瞳は真っ直ぐにリチェルを見ていた。

 沈黙が、丘の上にピンと張り詰めた。

 きゅっと心臓が引き絞られるような心地に、リチェルの手が知らず知らずと服の上から胸を押さえる。

 やがて息を整えた青年が、口を開いた。


「……歌ってたのは、君か?」


(聞かれてた──⁉︎)


 問われた言葉に、サッと血の気が引いた。とっさのことで思考はまとまらず、条件反射みたいにふるふると横に首を振る。


「待って──!」


 制止の声なんか聞けるわけがなかった。身を翻すとリチェルはその場から急いで逃げ出した。青年の脇を通り抜けたけれども、幸い力尽くで引き留められることはなかった。

 懸命に走って、来た道を駆け戻る。心臓はばくばくと早い鼓動を刻んでいた。まさか聞かれているとは思っていなかった。だって今まで誰かに話しかけられた事などなかったのだ。夢中で歌っていたから、いつから聞かれていたのかも分からない。


「はぁ、はぁ……」


 どれくらい走ったのか、気付けば本邸の近くまで帰ってきていた。うるさく鳴る胸を押さえて、かぶりを振る。呼吸を落ち着けるのに随分と時間がかかった。

 

(どうしよう……)


 ようやく落ち着いてくると、こみ上げたのはどうしようもない羞恥心だった。

 あの青年がどうしてあの丘にいたのかは分からない。だけど聞かせたのは習いもしていない素人の歌で、若い娘があんな所で一人で歌っていたなんて、顔から火が出そうだった。

 リチェルなりに誰にも聞かれないように注意していたつもりだ。恥ずかしさもあるけれど、それ以上に自分が歌っていたのが楽団の誰かに知れたらとても困る。特にイルザに知られることだけは絶対にいけなかった。

 

(見たことない人だった……)


 少なくともリチェルの生活圏内では知らない人だった。旅人? もしかしたら宿に泊まっていた人だろうか。


(歌がうるさかったのかしら)


 だからといって確かめるためにもう一度あの場所に戻るわけにも──。


「あっ」


 そこでようやくリチェルは自分がとんでもない失態を犯していることに気付いた。お使いのかごをそのまま丘に忘れてきたのだ。


「…………」


 そのままにする、という選択肢はリチェルにはない。買い直すお金なんて勿論持っていないし、糸がないとイルザのドレスが繕えない。


「……っ」


 唇を噛むと、リチェルは重い足取りで元来た道を戻り始める。幸い時間はまだ十分にあった。あの青年がまだいるかもしれないと考えると足がすくんだが、大丈夫、と言い聞かせる。だってあの青年はリチェルの腕を乱暴に掴んだりはしなかった。声をかけただけだった。きっと紳士的な人なのだと自分に言い聞かせる。

 

(きっと、悪い人じゃ、ないはずだわ……)


 不快にさせたなら謝ればいい。なけなしの勇気でそう自分に言い聞かせて、リチェルは駆け足で来た道を駆け戻った。




   ◇




「ねぇ、お兄ちゃん達えんそうかなんでしょ? すごいね!」


 そんな声が聞こえたのは、リチェルが西通りから丘へ続く裏道に入ろうとした時のことだった。


(あれ? あの人たち……)


 そこに見覚えのある人影を見つけて、リチェルは立ち止まった。花屋の店先で小さな子供と向かい合っているのは、クライネルト楽団の楽団員だった。

 それに気づいて、通路の脇にリチェルは隠れる。ここにいるということは今日の演奏会には呼ばれていない団員たちだ。

 キラキラとした瞳でそう尋ねているのは花屋の子どもだろう。満更でもないのか、受け答えする団員達もどこか得意げだ。彼らが手に持っているのはヴァイオリンのケースだから、子どもはそれを見て話しかけたのだと想像がついた。

 自分が見つかっては何かと団員達の不況を買ってしまうかもしれないから、とその場から隠れようと脇に身を隠したその時だった。


「ねぇねぇ、僕今日誕生日なんだ! お兄ちゃん達何か弾いてみせてよ!」


 無邪気な子どもの言葉に思わず立ち止まった。

 ザワリと不快な感触が胸をよぎった。何故ならその言葉が彼らにとって好ましいものではないことを知っていたから。

 実のところ、最近楽団の評判はあまり良くないと聞く。先代の頃は当主自ら優秀な演奏家をスカウトする為に地方を渡り歩いたりしていたらしいが、代替わりしてからは当主と付き合いのある家の子息が入ってくる事がぐっと増えていると聞く。彼らは音楽の練習よりもサロンに通う方がずっと楽しいようで、全体的に演奏のレベルが落ちてきたとイルザが零すのをリチェルも度々耳にしていた。


 だけど楽団の評判が悪くなった理由は、決して演奏の質が落ちた事だけが原因ではない。


 彼らは楽舎に訪れると、用事を作ってはリチェルを呼び出した。理由は簡単、憂さ晴らしにちょうどいいからだ。音楽家であり商家の息子である彼らは、自分より弱い人間に対しての態度が粗雑で横暴だ。


『音楽の高尚さなんて、お前みたいな孤児には分かんないだろうけどさぁ』


 ケラケラと自分を嗤う声。

 乱暴に髪を掴まれた痛みと、嘲笑う声を昨日のことのように思い出す。だから──。

 

 一呼吸間を置いて、通りに青年たちの笑い声が響いた。


 案の定それは好意的なものではなかった。明らかに子どもを馬鹿にするような、軽くて不快な笑い声。

 戸惑う子供に何事か声をかけているのが、遠目にわかる。当然それは労りの言葉などではないだろう。

 団員の男の手が無造作に子どもの頭をつかんでいた。ぐしゃぐしゃと頭を撫でながら、その実その力が子どもを可愛がるのとは異なる乱暴なものである事は容易に想像がつく。俯いた男の子の姿にきゅっと心臓を掴まれたみたいな心地がした。


 服の裾を握りしめて、唇をかむ。


 出て行きたくても、出ていけない。だってリチェルが出て行っても状況を悪くするだけだ。


(出て行っちゃ、ダメ……)


 だって何も出来ない。リチェルが庇ったところで、もっと馬鹿にされるかもしれない。もっとあの子を、傷つけるかもしれない。


(ごめんなさい……)


 だから黙ってその場に立ち尽くす。出て行く勇気はないけど、立ち去ることも出来なかった。中途半端にそこにたたずんで、早く帰ってあげて、とただ祈る。

 やがて団員が何か言いながら、その場から立ち去っていった。後に残された男の子は黙って俯いていた。


 良かった、とは思えない。

 きっとあの子は傷ついただろう。


 何も出来ない歯痒さに唇を噛み締める。その肩を、ふいにトン、とたたかれた。

 驚いて振り返ると、つい先ほど見た琥珀の瞳と目が合った。


「……ぁ」

「これ」


 短い言葉と共に渡されたものを、思わず受け取る。差し出されたのはリチェルの忘れたお使いのかごだった。


「少し待ってて」

「え……」


 それだけ告げると、青年はリチェルの横を通り過ぎて花屋の方に歩き出した。突然のことに声をかける暇もなく青年の後ろ姿を見送る。そこで初めて青年の背にどこか見覚えのある形をしたケースが背負われていることに気づいた。

 青年は二、三、花屋の男の子と言葉を交わすと、おもむろに背中のケースを下ろして中身を取り出す。それだけでぱっと男の子の顔が華やぐ。青年は不器用に少しだけ笑うと、手にしたそれを構えた。そして──。

 

 鮮やかな音色が、通りに響き渡った。

 

 鳥肌が、立った。

 リチェルは決してたくさんの音楽を聴いてきた訳ではない。演奏会に連れて行ってもらったことがあるのはたった一度だけ。それでも団員達の音は時たま耳にしていたから分かる。

 

 今聴いている音はどの音とも違う。


 息をするのを忘れるほどに胸を打つ。見慣れた通りが、まるで初めて見る風景のように色を変えていく。

 リチェルにだって分かる。この音色は特別だ。


(すごい──)


 瞬きする事も忘れて彼が奏でる音楽に聞き入った。五感全てが耳になったみたいに、揺れる旋律が身体に溶け込んでくる。

 一瞬のようにも思えたし、だけど何時間も聞いているようにも思えて。

 

 弦が、最後の音を奏でる。

 

 一呼吸置いて、わっと通りの人が沸いた。

 時間としては多分五分にも満たなかった。口々に青年を褒め称える声が届き、花屋の男の子は先程の沈んだ様子が嘘のように飛び上がって喜んでいる。だけど当の本人は賞賛に得意がる様子もなく、むしろ通行人がおひねり代わりに差し出してくる売り物を困惑した様子で断っていた。尚話しかけてくる人達と一言二言話すと、彼は丁寧に楽器をケースにしまい、やがてこちらに向かって歩いてきた。リチェルの方に向かって、だ。

 

「良かった。いなくなっていたらどうしようかと思った」

「え?」


 リチェルの前まで来ると、彼は他でもないリチェルに向かってそう話しかけた。そういえばカゴも回収したしこのまま帰っても良かったのだけれど、余韻でぼうっとしていて思いつかなかった。


「こっちへ」



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