op.03 空高く軽やかに舞う鳥(6)
まだ開演には時間があるというのに、劇場前にはもう随分と人が集まっていた。
音楽を鑑賞するという行為が市民階級にも受け入れられ始めて幾年月。特に劇と音楽の融合であるオペラは大衆娯楽の最たるもので、広く市民に愛されている。
ここリンデンブルックは古くから劇場や音楽院が建立されている町で、ここ最近の興行成績は右肩上がり、中でもオペラのチケットはすぐに売り切れるのだという。
劇場へ足を運べる市民はそれなりに裕福な家の者が多い為、自然劇場の周りに集う人々の装いは華やかになる。
ヴィオに連れられて近くまで来たリチェルの足が思わず竦むのは致し方ない事だった。
(変じゃ、ないかしら……)
ヴィオに恥をかかせたりしないだろうか。
まだ慣れないスカートの布地が脚に絡む感触がさらに気持ちを落ち着かなくさせる。似合っている、と言ってくれたヴィオの言葉だけで足を踏み出している状態だ。
と、劇場へと続く階段の前に差し掛かった時にヴィオがふと足を止めた。どうしたのだろうと顔を上げると、琥珀の瞳と視線が合う。自然な所作で立っているヴィオをキョトンとして見上げると、そうか、とヴィオが独り言を零して腕を差し出した。
「リチェル、ここに手を置いてくれるか?」
「手?」
ここ、とヴィオが差しているのはヴィオの腕の事だろう。手を置く、という言葉の意味を理解した瞬間、パッと頬が熱を持った。
「え、でも……!」
「流石に今の君を一人で歩かせている訳にはいかないから」
周りをよく見れば、確かに男性と女性の組み合わせはみんな男性の腕に女性が手を置いているのだ。
『少しずつ心を身体に合わせていかなくちゃ』
サラと出会った日の言葉がふいに蘇った。それはきっとこういう事なのだ。リチェルはもう男の子の格好をしているわけではない。だとしたら周りからの見られ方も当然変わる。合わせていかなければいけないのはリチェルの方だ。
「……そうしないと、ヴィオが困る?」
恐る恐る尋ねる。
以前と違ってきちんと自分が女の子に見えているのであれば、ここでエスコートしないとヴィオが恥をかくかもしれないのだろう。
「嫌なら無理にとは言わないが」
「もちろん嫌じゃなくて! その……、ヴィオが、嫌じゃないなら……」
リチェルが不安げにこぼした言葉にヴィオがふっと笑った。
「嫌ならそもそも何も言わないだろう」
そう言われると、リチェルにはもう何も言えない。
おずおずと手をヴィオの腕に添える。
最後に自分から誰かに触れたのはいつだったか、リチェルは思い出せなかった。ただ覚えていないほど昔であることは間違いない。
今手を置いたヴィオの腕は、男の人だからかリチェルより少し体温が高い気がして、それだけでこれは他人の温度なのだとリチェルに思わせた。
「行こうか」
「……うん」
小さく頷いて、足を進める。
ヴィオが歩く速さを落としてくれたのが分かった。支えられてるはずなのにどこか足元は頼りなくて、近くにある温かさに安堵するのと裏腹に鼓動はトクトクといつもより早い音を刻む。
そうやって歩くのは安心して、どこかくすぐったくて、そして少しだけ誇らしかった。
◇
サラが用意してくれていた席は舞台に程近い上等な席だった。
リチェルの心配を他所に、リチェルの姿が誰かに咎められる様なことは全くなかった。スタッフは礼儀正しくリチェルとヴィオに接してくれたし、周りの人達の視線が刺さる事もない。
それに席につく頃には、リチェルはホールに圧倒されてそれどころではなくなってしまった。
大きな劇場内に足を踏み入れたのは初めてで、目があちこちへと泳ぐ。
高い高い天井に、連なる客席。分厚い緞帳が下りた舞台。舞台の下段では楽器を持った人たちが動いているのが微かに見てとれた。オーケストラだろう。
思わず立ち上がりかけたリチェルをヴィオが苦笑して止めた。
「オペラのオーケストラは脇役で、前に行って覗き込まないと見られないんだ」
「ご、ごめんなさい」
流石にそれはマナー違反だろう。リチェルにだってはしたないことだと分かる。小声で謝って、座り直す。
公演を待っている時間のドキドキは、少しも嫌なものじゃなかった。
目に見える全てが新鮮で、時たま響くオーケストラの椅子の擦れる音や楽器の調律の音だけでも全然違うものに聞こえてくる。
そう言ったものに耳を澄ませていると、これからとても素晴らしい時間が始まるのだとワクワクするのだ。
だから開演の拍手が響くまでの時間はあっという間だった。
始まりはオーケストラの演奏から。
下がったままの緞帳を前に、目を覚ますような最初の一音が響き渡る。始まりの音が去ると、第一ヴァイオリンの優雅なメロディーが流れだす。
演目は『魔笛』
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが作曲した、生涯最後のオペラだ。
舞台はエジプト。ストーリーは森に迷い込んだ王子タミーノが大蛇に襲われ夜の女王の侍女達に助けられる場面から始まる。
夜の女王の娘のパミーナの肖像画を見たタミーノは王女に一目惚れし、悪魔ザラストロに攫われたパミーナを救い出すという筋書きである。
暗い劇場の中、舞台だけが煌々と明るい。オペラの主役はもちろん歌い手で、始まりを奏でたオーケストラを意識の外に追いやるような存在感のある歌声が物語を進め、彩っていく。
サラが演じるのは夜の女王だ。
序盤はタミーノを導き、そして最後には悪役として立ち塞がる役でもある。夜の女王は高音域のソプラノで、劇中『夜の女王のアリア』と呼ばれるソロが二曲ある。
一度目は舞台に姿を現したその時。パミーナの肖像画に一目惚れした王子タミーノに『娘を助け出してほしい』と頼む場面。
月を隠した静謐な夜を思わせる、しっとりとしたソプラノがホールに朗々と響きわたる。娘を攫われた悲しみが豊かな感情と共に歌い上げられ、内に見える激情が端々から滲み出る。
そして二度目は王女パミーナに悪魔ザラストロを殺せと迫る場面である。
最初に登場したしっとりした雰囲気とは全く違う、力強い超高音域の歌声がホールの天井に届く勢いで歌い上げられる。
(すごい……!)
物語に引き込まれるより尚強い力で、サラの歌声に惹き込まれた。
リチェルは知る由もないが、『夜の女王のアリア』はオペラ曲の中でも最高音域を誇る屈指の難関曲である。高音域を危うげなく歌いきる上に、速いフレーズの中に華やかな装飾を持って揺らす高度な技巧が必要となる。
握りしめた手のひらが微かに汗ばんでいる事にも気付かなかった。
たった一瞬たりとも聴き逃したくなくて、まばたきも、息をする事すら忘れる。
ホールに響き渡る生の歌声と音楽は、リチェルにとって衝撃以外の何者でも無かった。
公演が終わり、帰り道ヴィオに連れられて帰る時もリチェルはフワフワと足元が浮いている様だった。
耳の奥でまだ音楽が鳴っている様な気がして、鳴り止まない拍手が響いている気がして。
ぼうっとするリチェルに最低限の声かけだけをして、ヴィオはそれ以外何も話さなかった。宿に着くその時まで、リチェルは自分がずっとヴィオの腕に手をかけていることすら気付いていなかった。
ただ──。
「ヴィオ」
「ん?」
「……わたし、あんな風に歌えるようになりたいな」
そう夢見心地に呟いた時、いつに無く嬉しそうにヴィオが微笑んだことだけが、ぼんやりと頭に残っていた。





