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【完結】Harmonia ー或る孤独な少女と侯国のヴァイオリン弾きー  作者: 原案・絵:若野未森、文:雪葉あをい
第1章
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op.03 空高く軽やかに舞う鳥(3)


 昼過ぎにヴィオとリチェルが待ち合わせ場所に行くと、サラは店の前ですでに待っていった。

 ヴィオの後ろを歩いているリチェルと視線が合うと、朝会ったばかりだと思えない親しみのある仕草で手を振ってくれる。


「ちょうど良かった。私も今着いたばかりなの。さぁ、行きましょう」


 そう言ってサラが足を踏み入れようとした店を前にして、リチェルはようやく気がついた。


(何も考えずについてきてしまったけれど……)


 仕立てる、と言うことは新品の服を作る、と言うことだ。


 目の前にある店はどう見ても、リチェルが足を踏み入れるには分不相応な場所だった。通りに面した扉と壁は上品な木の作りで、窓からは色鮮やかな布地が見えた。

 

 ここに入ると言うことは、つまりこの中から、リチェルの服を仕立てると言うことだろうか?


 それに気付くと足がすくんだ。場違いだと空気で感じて、こくりと喉が鳴る。


「リチェル?」


 様子に気付いたのか、ヴィオが振り返って声をかけた。あの、ともその、ともつかない言葉を発して、少し青ざめた顔をヴィオに向ける。


「わたし、は……」


 服なんて仕立ててもらえる身分ではない。


 声が震える。


 そもそも今までの人生において、リチェルは自分のための服を着たことがない。

 クライネルトの屋敷にいる時は、まだリチェルに対して優しかった楽団員の古着を頂いて何度も繕い直して使っていた。孤児院にいる時でさえ衣服は年上の子のお下がりが当たり前だった。


 当然こんな場所に足を踏み入れたことなんて一度もなくて、その事実に萎縮する。今ヴィオに貸してもらっている服でもリチェルにとっては十二分だ。

 自分だけのために高価な物を買ってもらうだなんてとんでもなかった。


「あら?」


 不思議に思ったのだろう。

 店の前で止まったリチェルのところに、サラが戻ってくる。


「あら、あらあら」


 頬に手を当てて、不思議そうにリチェルのかおを覗き込むサラの目をマトモに見れなかった。

 多分困らせてしまっていると自覚して、何とかリチェルが顔を上げようとしたその直後、ふくよかな手が頭に優しくのせられた。


「────」


 帽子越しでも分かるその手の感触に、戸惑いも忘れて目を瞬かせた。


 温かかった。恐る恐る顔をあげると、不快や戸惑いの色などカケラも無い優しげな空色の瞳がリチェルを見ていた。


「少しびっくりさせてしまったかしら? わかるわ。初めて仕立て屋さんに来た時は、私もとっても緊張したもの。……リチェルはずっと男の子の服を着ていた?」


 リチェルは少し迷って、小さく頷いた。正確に言うなら孤児院にいた時は違う。だけどここ数年はずっとだ。


「なら尚更ね。戸惑うのも無理はないわ。だけどあなたは男の子の格好をもうする必要が無いのでしょう?

 それなら、少しずつ心を身体に合わせていかなくっちゃ。姿が変わると少しずつ心もそれに沿って変わっていくものよ。ここは今のあなたにちゃんと相応しい場所だから大丈夫。それに採寸の時は私も一緒にいますから安心してね」


 そう言ってサラはリチェルの手を勇気づけるように握ってくれる。

 不思議だった。強張っていた気持ちがスッと解れていく。ごめんなさい、と困らせたことを謝るといいのよ、とニコニコ笑ってサラは言った。


 それに、とサラが少しだけ茶目っ気を含んで笑う。


「お金のことならきっと心配いらないわ。そうでしょう?」

「あぁ」


 ヴィオの方を向いてサラがのたまった言葉に、特に何の気負いもなくヴィオが肯定した。

 ほら、とサラが笑う。リチェルが呆気にとられる即答だった。


「これで何も心配なくなったでしょう。行きましょう」


 ヴィオの方を見るが、ヴィオは涼しい顔だ。


 サラが柔らかく手を引くに任せて、リチェルは足をすすめる。戸惑いはあったものの、今度は足はすくまなかった。




   ◇



 サラがお気に入りだと言った通り、サラはその仕立て屋の上客のようだった。

 店主や針子に歓待され、すぐに奥に通されて採寸の用意をされる。


 リチェルの戸惑いを感じ取ったのか、店の人はみな優しく丁寧だった。

 先の言葉通りサラはずっとそばにいてくれて、リチェルの採寸の間も色々と話をしてくれた。

 その時間は終始和やかで、唯一雰囲気が変わったのは最初に帽子を脱いだ時だけだった。無造作に押し込んでいた髪がこぼれ落ちた瞬間、サラが悲鳴をあげたのだ。


 ダメよ、本当にダメ。と口酸っぱく言われて、絡まった髪を丁寧に櫛削られた。


「採寸は終わりましたし、どのような服を仕立てましょうか?」


 採寸を担当してくれた店の針子がハキハキとした元気のいい声でサラに尋ねる。

 そうね、とサラは首を傾げ、リチェルの方へと視線を向ける。


「リチェルは、何か希望はある?」


 そう聞かれて、ふるふると首を横に振った。マトモに女性の服を着たことがないから、どのような物がいいかは分からない。ただ──。


「あの……、動きやすい服だと、嬉しいです」


 だって、ヴィオは旅をしているから。

 ヴィオに付いていくのであれば、足手まといにならないようにしなければいけない。そう思って口にした言葉に、サラは何を感じ取ったのかふわりと笑った。


「じゃあ少し、彼にも聞いてみるわ」

「え?」


 リチェルが顔を上げると、少しだけ一人にしていいかしら? とリチェルに断って、採寸室を出ていく。彼、と言うとヴィオしかいない。


 随分と待たせてしまっているような気がするが大丈夫だろうか。と心配でオロオロしていると、すぐにサラは帰ってきた。


「あの、ヴィオは……」

「えぇ、あなたに似合う色を聞いてきたの。良い意見が聴けたわ」


 意外な言葉に目を瞬かせるが、それ以上サラは何を言うでもなかった。


 リチェルはそれ以上何かを聞かれることもなく、ほとんどサラが手配をしてくれた。仕上がりは二週間後に、と伝えられて街の滞在時間を考えると大丈夫だろうかとヴィオの方を見たが、特に問題はないようでヴィオは頷いた。


 見送りにと最初に挨拶したきり引っ込んでいた店主が店先に顔を出したのは、三人がもう帰ろうとしていた時だった。


「サラ様。衣装の件で少し良いですか?」

「あら、修繕を頼んでいた分かしら?」

「はい、一日早く仕上がったのですが、当初の予定通り劇場にお持ちする形で問題ないでしょうか?」

「えぇ、問題ないわ。それでお願い」

「劇場?」


 リチェルの声に、サラと針子の目がリチェルを振り返った。ハッとして口を押さえる。つい声に出てしまっていたようだった。

 サラがあら、と瞳を瞬かせた。


「リチェル、劇場に興味があるの? 実は私この町の劇団で少し歌を歌っているの。今度講演があるからその衣装のお直しを頼んでいたのよ」

「そうなんですか」


 思わず声が高くなって、リチェルは恥じいったようにすぐに口元を押さえた。


「少しだなんてそんなご謙遜を。お嬢さん、サラ様は劇団でも花形のオペラ歌手なんですよ。私も何度か公演を見せていただいたことがあるんですがそりゃあもう圧巻の一言に尽きます。感動しますよ」

「あらあら、恥ずかしいわ」


 ふふ、とサラが満更でもなさそうに上品に笑う。


「でもそうね。ヴィオさんもヴァイオリンをずっと抱えていらっしゃるものね。リチェルも何か楽器をするの?」

「いえ、わたしは何も……」

「リチェルもソプラノです、貴女と同じでしょう」


 リチェルの否定にかぶせるように、ヴィオがサラリと口を出した。まあ! とサラが嬉しそうな声をあげる。


「そんな、わたしなんて全然……! 一度もきちんとならったことがないですし……」

「あらあら、そんなの誰だって最初は初心者よ。じゃあ質問を変えるわ。リチェルは歌うのが好き?」

「それは……」


 少し口籠ったものの、リチェルはすぐにこくりと頷く。

 確かに知識も教養もないが、リチェルは歌うことが好きだ。リチェルの返答にサラは嬉しそうに笑った。

 

 それから不意に何かを思いついたように、店主の方を振り返った。


「ねぇ、オリヴァーさん。今お願いしたこの子の服だけど一週間で仕上がらないかしら」

「え? どうしてですか?」

「無理を言っているのは分かっているわ。でもいつも頼りにしている私のわがままだと引き受けてくださらない?」

「それは、まぁ……お選びになられた服はモデルの形がある物ですし、サラ様の頼みであれば調整できなくもないですが……」

「嬉しいわ。ありがとう、オリヴァーさん」


 上品に笑って礼を言うと、サラは完全に何も理解出来ていないヴィオとリチェルに向き直る。


「ねぇ、ヴィオさん。一週間後の夜にオペラの公演があるの。私も出演するから、もし貴方たちに用事がないのであれば、リチェルと一緒に聴きに来ては頂けないかしら? もちろんお席は用意するわ」


 オペラ!


 思わずリチェルは息を呑んだ。

 だけど湧きあがった喜びを一瞬で抑え込む。それを決めるのはヴィオであってリチェルではない。


 ヴィオは少し考える素振りを見せたものの、すぐに前向きな答えを返す。


「有難いお誘いですが、構わないのですか? そんな近い日程ならもう席も埋まっているでしょう」

「ふふ、ちょうどお誘いしていた方の都合が悪くなってしまっていい席が二席空いているの。誰か代わりに来てくださる方を探していたのよ。折角だから、新しいお洋服を着て見せてくれたらとても嬉しいわ」


 チラリとヴィオを見上げると、琥珀の瞳とかち合う。口元をキュッと引き締めると、微かにヴィオが笑った気がした。


「ではお言葉に甘えます。何から何までありがとうございます」

「ふふ、こちらこそ。空いていた席に招待できる方がいて嬉しいわ」


 そこでサラは言葉を切って、リチェルの方に目を向ける。


 

「それから実はもう一つ思いついたことがあるのだけど──」



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