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【完結】Harmonia ー或る孤独な少女と侯国のヴァイオリン弾きー  作者: 原案・絵:若野未森、文:雪葉あをい
第1章
22/159

op.03 空高く軽やかに舞う鳥(2)

 窓から吹き込んだ風が亜麻色の髪を揺らす。

 広げたシャツが大きく膨らんで、飛ばされそうになるのを慌てて押さえて干し直すと、リチェルは次の洗濯物を手に取る。


 背後から聞こえていた書き物の音はいつの間にか止んでいた。

 振り返ると、音の主は椅子の背もたれに身体を預け何やら考え込んでいるようでもある。


「ヴィオ」


 名前を呼ぶと、アンバーの瞳がリチェルを振り返った。

 やはり休憩中だったらしい。集中しているときは呼んでも聞こえないことの方が多いから、振り返ってくれると良いタイミングで声をかけられたのだと少し嬉しくなる。


「何か淹れて来ましょうか。コーヒーが良いかしら」

「……あぁ、そうだな。頼む」


 言葉が少ないのはいつもの事で、特に気にするでもなくリチェルは厨房へと向かう。お湯を頂いてこないといけない。


 ヴィオとリチェルが一緒に旅をし始めてもう二週間が経った。

 移動には馬車を使うこともあれば歩くことも多く、目的地がどこなのかも、行く先々でヴィオが何をしているのかもリチェルはよく知らない。

 ただその旅路は少しも苦にならず、行く先々で出会う人達とのわずかな触れ合いや見たことのない風景はリチェルの胸を高鳴らせた。


 ヴィオと一緒にいる時間は穏やかだった。

 リチェルにとっては名前一つ呼ぶのも初めは勇気がいることだったが、段々と敬語を使わなくても話せるようになって来ていた。

 ヴィオの態度は特に変わる訳でもなく、少しずつでいいと言った通り、リチェルが歩み寄るのをゆっくりと待ってくれているのを感じる。


 実際のところ興味がそこまで無いだけかもしれないのだが、リチェルにとっては心地よい距離感だった。


「あら、リチェルちゃん。コーヒーかい? 今ちょうどお湯を沸かしたところだから持って行くといいよ」

「はい、ありがとうございます」


 二日前から泊まっている宿のおかみさんはとても気さくな人で、初日にヴィオに飲み物を持って行きたくてウロウロしていたリチェルにコーヒーの淹れ方を指導してくれた。


「こんな町の端にある宿に泊まってくれるお客さんは貴重だからね。できる限りのサービスはしたいのさ」


 そう言って、初日から何かれと世話を焼いてくれている。


「まだしばらくはこの町にいるんだろう?」

「はい、十日くらいは滞在すると聞きました。それ以降はまだ分からないそうなんですが」

「そうかい。アンタの連れの御仁はちょっと生活に難がありそうだからね、ちゃんと世話を見てやるんだよ」


 何も含むことがないストレートな物言いに否定も肯定もできず、リチェルは困ったように笑う。

 本来なら否定すべきなのだが、どうやらヴィオには生活能力がないらしいというのは二週間共に過ごしたリチェルも薄々理解していた。ただリチェルにとっては悪い事でもないのも事実だ。自分の役割があるというのは、それだけでここにいていい理由になる。

 

 コーヒーを淹れて持っていくと、ヴィオはもう机に向き直っていた。

 邪魔にならないようにそっと近づいて、ぶつからない位置にカップを置くとまだ集中しきっていなかったのか礼が返ってくる。

 上手に淹れられただろうか。

 ヴィオがカップを手に取って口に運ぶのを目で追いながら、恐る恐る口を開く。

 

「お口に合わなかったら言ってくだ……その、言って、ね?」


 わざわざ言い直したリチェルに、ヴィオの口元が緩む。


「大丈夫、美味しいから」


 穏やかにそう言われて、恥ずかしさから消え入りそうな声で良かった、と言って後ろに下がった。


 一通り家事も終わったので、リチェルはヴィオからもらった楽譜を取り出して、音を取っていく練習を始めた。どの音符がどの音を鳴らすか一通りヴィオが教えてくれたから、なんとなく楽譜を見ると音が取れるようになって来ていた。声を出すのは気にしなくていい、と言われていたけれども、あまり邪魔にならないように小声で譜をなぞり始める。


 穏やかな時間だった。

 ひと月前であれば想像することも出来なかった。


 温かなご飯が食べられることも、夜寒さに震えずに眠りにつけることも、自由に歌えることも──。与えられた幸せに感謝して、リチェルが楽譜をめくったその時だった。


 一際強い風が窓から吹き込んだ。


「あ!」


 風は窓から一番近くに干してあった洗濯物、ヴィオのシャツを大きく舞い上げると、咄嗟に伸ばしたリチェルの手をすり抜けて外へとさらっていってしまった。


「大変! わたし、取りに行ってきます!」


 慌てて立ち上がると、何事かと振り返ったヴィオへの説明もそこそこに、リチェルは置いてあった帽子を手に取って外へと出ていく。

 歩きながら、適当に髪を帽子に詰めてすっぽりとかぶると、早足で階下へ降りていく。


 幸いこの宿は町の端にあり、表の通りも人は少ない。荷馬車に踏まれるような心配はあまりないが、早く見つけなくては。


 通りへ出ると、キョロキョロと辺りを見回す。


(ええと、部屋の窓はあそこだから……)


 部屋を見上げて、位置を確認しながら、飛んでいった方向を探す。ヴィオの持ち物なのだから、無くしてしまっては一大事だ。


「もし、そこのあなた」


 と、良く通る声が背後から聞こえて、反射的にリチェルは振り返った。

 自分に話しかけられたと気づいた訳ではなく、その声が不思議と耳に届く声だったから自然と気がひかれたのだ。


「もしかして、これをお探し?」


 白い服を手にした青いドレスの貴婦人がリチェルの後ろに佇んでいた。


「はい! それです!」


 パタパタと走り寄って、差し出してくれたシャツを受け取る。

 広げて汚れを確認するが、すぐに拾ってくれたのだろう。シャツは汚れていなかった。


挿絵(By みてみん)


「ふふ、空から洗濯物が降ってくるなんてことがあるのね。思わず受け止めたら、続けて可愛らしいお嬢さんが飛び出して来たものだからびっくりしたわ」


 そう言って、女性は上品に笑う。


「大事な物なのね。見つかって良かったわ」

「あ、ありがとうございます」


 リチェルはペコリと頭を下げ、そうしながら何故か頬が紅潮するのを感じた。


 柔らかい雰囲気をもつ、貴婦人と呼ぶにふさわしい女性だった。

 上品に後ろで結われた金髪は陽光で白く透けて、蒼い瞳は空を思わせるとても澄んだ色をしている。柔和な笑みを浮かべた頬はふっくらとして健康的で、今までリチェルが出会った中でもとびきり笑顔が素敵な女性だった。

 

「あらあら、緊張しているの? ふふ、初めは男の子だと思ったのよ。そんな格好をしているから。でも声を聞くとすぐに分かるわ。あなたとても綺麗な声をしているもの」

「は、はい。えっと……」


 こんな素敵な貴婦人がリチェルのような孤児に気安く話しかけてくれるのは何故だろうと考えて、今着ているのはヴィオの服だったと思い出す。

 それでもドギマギしてしまうのは彼女の持つ雰囲気のせいだろうか。


「あの、でも綺麗なお声をしていらっしゃるのは、お姉さんの方だと、思います……」


 思わず口にしてしまって口元を押さえた。

 顔を上げると、キョトンとした貴婦人と目が合った。見開かれた瞳がパチパチと驚いたように瞬きする。恥ずかしさにすみません……と口にすると、貴婦人はふわりと破顔した。


「まあ、ありがとう。そう言ってもらえて嬉しいわ。こんな可愛らしいお嬢さんに褒めてもらえるなんて、今日は何だか良い一日になりそう」

「リチェル」


 と、後ろから聞き慣れた声が聞こえてリチェルは振り返った。

 追いかけて来てくれたのだろう。宿から出てきたヴィオはリチェルと貴婦人に目を留めると、大方の事情を把握したのか頭を下げる。


「すみません。貴女が拾ってくれたのでしょうか」

「ええ。あなたが、このお嬢さんの……お兄様? と言う訳ではなさそうだけれど……」

「えぇ、少し事情があって一緒に」

「そうなのね。じゃあ貴方が、このお嬢さんの保護者なのかしら?」

「そう言う事になります」


 返事を聞いた貴婦人はヴィオの姿を見ると、どこか考え込むように口元に手をやって、ことりと首を傾げると不思議そうに口を開いた。


「あの、不躾な質問をお許しくださる?」

「? えぇ、構いませんが……」

「人様の事情を探る気はもちろんありませんから、答えられないのならそう言ってちょうだいね。ほんのお節介なのだけど。……この子は事情があってこんな格好をしているのかしら?」


 今度キョトンとしたのはリチェルの方だった。


 貴婦人が示したのは間違いなくリチェルの服装のことだった。

 リチェルは今尚ヴィオの服を折ったり止めたりして着ている状態だ。なので、不自然に見えないようにリチェルはいつも帽子を被って長い髪を隠して外へ出ている。

 

 ベルシュタットの町でリチェルの服を買う予定だったのだが、ヴァイオリンの騒動があって流れてしまい、その後急ぎ必要もなかったので、ヴィオもリチェルも忘れてしまっていたのだ。

 リチェルにとっては服は男性もののお下がりを着るのが常だったので、特に違和感もなかった。


 ヴィオはヴィオで今思い出したらしい。

 そういえば、とリチェルの格好に目をやって、ただリチェルと違ってヴィオの方は明らかに気まずそうな表情を浮かべた。


「…………いや、特に理由はないんですが」

「まあ」


 女性の声に初めて非難の色が混ざる。


「それじゃあ貴方は理由もなく、こんな可愛らしいお嬢さんに男性の服を着せているの?」

「…………」


 ヴィオが無言になる。


「あの! でもわたし全然大丈夫で……!」

「大丈夫じゃありませんよ」


 美しい声がその柔らかさを少しも損なわずにぴしゃりと言いきった。そしてヴィオに向き直る。


「人様の事情に口を挟むのは良くない事だけれど、それを承知で言わせてもらいますね。こんな可愛らしい女の子に、理由もなく男の子の服を着せる人がありますか。見たところお金に不自由しているようにも見えないし、大丈夫ってこの子が本当に思っているなら尚更よ。貴方がそうではない、と教えてあげないとこの子は姿も考え方もずっとこのままなのよ?」

「それは、その……弁明のしようもない」


 ヴィオがつっと女性から目を逸らして謝る。こんな態度のヴィオを見るのは初めてで、リチェルがオロオロしていると、貴婦人がそっとリチェルの肩に手を置いて、貴女が悪い訳ではないのよと柔らかく笑う。


「保護者と言うのなら彼には責任があるの。そう言うお話なのよ」

「でもヴィオは……」


 リチェルのことでヴィオが責められるのは嫌だ。当然庇おうとするリチェルを制したのは他でもないヴィオだった。


「いや、良いんだ。リチェル。彼女の言う通り、間違いなく俺に責任がある」

「そんな……」

「ご婦人。巻き込んで申し訳ないのですが、この辺りで女性の衣服を仕立てられる店はあるでしょうか」


 ヴィオの言葉に、女性は自身も恥じ入るようにごめんなさいね、と謝る。


「可愛らしいお嬢さんだから、つい口を挟んでしまったの。お詫びと言っては何だけれど、この後時間はあるかしら? 貴方達さえよろしければ、私のお気に入りのお店に案内させてくださらない?」

「えぇ。是非」


 オロオロとするリチェルを端にヴィオと貴婦人の間でさっくりと話はまとまった。

 待ち合わせ時間と場所を二人は手短に決めて、一先ず別れを告げる。


 別れ際に思い出したように女性は振り返った。


「そうだわ。まだ名前を言ってなかったわ。ふふ、名前を告げずに次の約束をだなんて、まるで物語のワンシーンのようね」


 茶目っ気たっぷりにそう言って、貴婦人は名乗った。


「私はサラ・リリエンタールと言います。気軽にサラさん、と呼んで頂けると嬉しいわ」




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