op.02 魔法使いの弟子(7)
ヴィオがマルコを連れて行ったのは、あの楽器屋だった。
店の前に来た時、マルコは少しだけ抵抗するそぶりを見せたものの、すぐに諦めてヴィオに続いて店の中に入ってきた。リチェルも続けて入ると、扉をゆっくりと閉めた。
「いらっしゃ……あ! 昨日の! ちょうど良かったよ」
店主がヴィオの姿を見て頬を緩める。
「実は昨日出かけていた調律師が昨晩帰ってきたんです。例のヴァイオリンの調整ももう終わって……」
そこで初めて後ろにいる少年の姿に気付いたのだろう。店主が目を丸くする。
「あれ、ドナートの工房の子じゃないか。どうしたんですか? 何か忘れ物が……」
「店主。すまないが昨日のヴァイオリンを弾かせてもらっても良いだろうか。全てここへ持って来てほしい」
ヴィオの言葉に店主はポカンとしたが、すぐにえぇもちろん、と言って奥へ引っ込んでいった。
「こちらですね」
すぐに店主は一本のヴァイオリンを携えて帰ってきた。
丁寧な手つきで一つずつヴァイオリンを裏から持ってくると、順に机へと並べていく。リチェルから見ると、やはりどのヴァイオリンも同じに見える。この一つが贋作と言われても信じられないくらい、その作りは全て精巧だった。
じっとヴァイオリンを見ていたヴィオがその中の一つを手に取った瞬間、マルコの表情が強張った。それでリチェルも気付く。ヴィオが持ったヴァイオリンがきっと、マルコの作なのだろう。
一呼吸置いて、ヴィオが演奏を始めた。
途端に軽やかに流れるような明るいメロディーが室内に溢れ出す。春の色彩あふれる季節を謳歌するようなこの曲はベートーヴェンのヴァイオリンソナタ『第5番 へ長調 Op.24』、通称『春』と呼ばれる曲だ。
リチェルも曲名こそ知らないものの、その曲を聞いたことはあった。ヴィオが言った通り、クライネルトの前当主は故人となった音楽家の曲目を愛していたのだろう。
花と花の間を蝶が遊び飛び回るような情景が浮かんでくる音色は朗らかで、ヴァイオリン自体に何ら問題を感じさせる物ではない。
全てを演奏する気は無かったのか、ヴィオはワンフレーズ演奏するとすぐに手を止めた。
息を詰めていたのか店主が一呼吸置いて、放心したように拍手をする。
ヴィオは礼もそこそこに、次はコレを、と別のヴァイオリンを指差した。同じものを何故と問う事もなく、言われるがままに店主がヴァイオリンを差し出す。ヴァイオリンを受け取ると、ヴィオがチラリとマルコに視線を寄越したのが分かった。
そうして、もう一度同じ曲を、ヴァイオリンが奏でる。
(あれ……?)
始まってすぐに、違和感に気付いた。
軽やかに流れる美しいメロディー。先程と遜色のない演奏のはずなのに、何かが違った。
(音色が、違う……?)
ヴィオが弾き方を変えているわけでは決してないだろう。
ほんのわずかな、言われないと気づかない程度の違和感。だけど確かに今響く音色には先ほどの音と比べて深みがある。
演奏の途中、一瞬ヴィオと目が合った。その瞳が微かに笑った気がした。
曲が、終わる。
ゆっくりと弓を下ろしたヴィオが、マルコに目を向けた。ヴィオの演奏を黙って聴いていた少年はただただ呆然と立ち尽くしていた。
その瞳からは先程の懊悩が抜け落ちている。表情のないままヴァイオリンとヴィオをもう一度交互に見て、マルコは息を呑んだ。
その瞳から、一雫、涙がこぼれ落ちた。
と、マルコが急に膝を床に突いて、次の瞬間店主に向かって頭を下げた。
「申し訳ありません!」
迷いのない声だった。
「そのヴァイオリンの中に師の手でないものが混ざっています! 一つは本物ではありません。師の作ったものではないんです! 弟子が作った作品です!」
これにはさしもの店主も度肝を抜かれたのだろう。ギョッとして、マルコの方に向き直る。
「それは……、一体どういうことだ?」
流石に店主の声には険がこもっていた。あわや騙されそうになったのかと、疑念のこもる口調でマルコに問いかける。
「……それは」
「間違えて別の作品が紛れていたことが今朝方分かったようで、彼が売られる前に回収しなくてはいけないと急いでいた所に偶然行き合ったんだ」
答えに詰まったマルコのセリフを引き取ったのはヴィオだった。驚いたようにマルコがヴィオを見上げる。
「店主が見分けが付かなかったのも当然だろう。言われなければ分からない、どれも見事な品だから。音色を聞けば分かると言う事だから協力して弾かせてもらったんだが、今のでどれか分かったか?」
わざとらしくヴィオがマルコに目線をやると、呆然としていたマルコがよろよろと立ち上がり、こくりと頷く。
「……はい」
頬を伝った涙の後を雑に拭くと、マルコはヴィオが最初に弾いたヴァイオリンを持ち上げる。
「これです」
「そうか。良かった。店主、部外者が口を挟むことでもないが、今回は大事に至らなかったようだし、水に流してもらうのは難しいだろうか?」
「本当に申し訳ございません!」
ヴィオの言葉に、店主がううん、と唸る。頭を下げるマルコとヴィオを交互に見て、店主はやがてため息をついた。
「まぁ、客に売ってしまう前だから良いんだけどね……。商売をやっていると色んなミスがあるし、中にはその嘘を押し通す輩もいる。それに比べたら君はきちんと正直に話してくれたんだから信用に値すると、そう言いたいのは山々なんだが……」
困ったように店主が頭をかいた。
「とはいえ、頼んだ数が一本足らなくなるのは頂けない。最近はヴァイオリンを習う人間も増えているし、そろそろ良い品を、と考えてくれる方も増えているんだ。あとの一本はどうにかならないかな? 君が行って取って帰って来るには時間がかかりすぎるでしょう」
これにはマルコも申し訳なさそうに黙り込んだ。結んだ唇の隙間から、漏れ出すように日数のような言葉が聞こえてくる。恐らく往復の日数の算段だろう。
口調は荒くても、マルコの本質は誠実なのだ。向き合うと決めた以上は、最後まで責任を取ろうとしているのが見てとれた。
リチェルにはクレモナがどこにあるかは分からなかったし、かかる日数も想像すら出来ないが、彼らの口ぶりからして二、三日の事ではないことはよく分かる。
これにはヴィオも答えが出ないようで、どこか難しい顔で考え込んでいた。
「失礼」
微かに聞き覚えのある声が入口から響いたのは、その時だった。
(あ……)
見覚えのある紳士が、店へと入って来たのだ。
「カリーニさん?!」
驚くことに反応したのは、マルコだった。身なりのいいスーツに身を包んだ壮年の紳士は、ゆっくりとした足取りでヴィオ達のところにくると、気安くマルコに声をかける。
「やあ、マルコ君。ここにいたんだね。君を探していたんだけどなかなか見つからなくてね。……それに、また会いましたね」
意味ありげにヴィオに目線を寄越した紳士は、昨日の朝カフェでヴィオのヴァイオリンの不調を看破した人だった。
「店主、彼の持ってきたヴァイオリンに不手際があったようで申し訳ない。ちょうど彼の忘れたヴァイオリンを持って来たんですよ」
そう言って紳士は手に持っていたヴァイオリンケースを下ろす。丁重に中からヴァイオリンを取り出すと、机に並べられた二本の隣に取り出した一本を置いた。
「まだまだ若いつもりでしたがいけませんね。若者の足にはなかなか追いつけず、最後の町まで来てしまいました。ですが、寸前で間に合ったようで何より」
穏やかに笑う紳士に、ポカンとしていた店主がようやく笑い声をこぼす。
「いやはや、どう言うことか分かりかねますが、うちとしては決められた本数を卸していただけるのであれば特に言うことはありませんよ」
笑い声をあげた店主は、もういいから顔をあげなさい、とマルコに言う。
「ドナートの工房とは今後も良い付き合いをしていきたい。うちにあるクレモナとのラインは君のところだけだからね。今回は水に流すから、次回から気をつけて下さい」
ありがとうございます! とマルコが勢いよく頭を下げる。
(良かった……)
その光景を見て、リチェルはほっと胸を撫で下ろした。これならきっと、マルコの『好き』が損なわれることはないだろう。そのことが何だかとても嬉しい。
ふとリチェルが顔を上げると、マルコのそばに立つヴィオと視線がかち合った。
そういえばリチェルはヴィオを置いて飛び出したのだ。途端に申し訳なさが込み上げて目線を下げるリチェルを見て、ヴィオが穏やかに笑う。
どうしてこの人は、怒らないのだろう?
勝手な行動をして飛び出したのに、何故許してくれるのだろう。
そんな疑問が渦巻く。
対等でいいのだ、と示してくれたヴィオに、自分はまだ少しも応えられていない。迷惑になっていないのかと、自分なんかがという気持ちがリチェルを臆病にさせる。
あと一歩。
あと一歩があれば、勇気を出せるかもしれないのに──。