op.02 魔法使いの弟子(5)
物心ついた時から、マルコにとって音楽はすぐそばにあるものだった。
父は楽団に所属するチェリストだったが、それだけでは収入が足らず富裕層の子どもたちに教養としてヴァイオリンを教えていた。父はヴァイオリンも弾けたし、親が習わせたがるのもヴァイオリンが主だったからだ。
マルコ自身もヴァイオリンを習ってはいたが、どう頑張っても父が鳴らす深みのある音が出せなくて手こずった。自分には父のように演奏家になることは無理だろうということは諦観でもなく事実として、マルコは早い内から理解していた。
転機が訪れたのは十歳の時、父に連れられてヴァイオリンの工房に出向いた時のことだった。
部屋いっぱいに広がるニスとオイルの匂い。
奥から響くカンナで木を削る音。
マルコが抱えることの出来るわずかな木材からあの素晴らしい楽器が出来るのだという事実に驚きと感動を隠せなかった。
自分の天職がここにあるのだと、十歳のマルコはその時理解したのである。
その後は毎日のように父にヴァイオリン職人になりたいと頼み込んだ。
マルコが演奏家になれる実力がないことは、父も理解していたのだろう。それなのにどうしてマルコがヴァイオリンから離れようとしないのかも。
父はマルコをいつもお世話になっている工房の親方に紹介してくれた。親方は物静かな人で、マルコが来ても特に何かを教えることはなかったが、学校が終わるとマルコはすぐに工房へすっ飛んでいって、暗くなるまで職人たちの雑用を手伝っていた。
ヴァイオリンに関わる作業を少しずつ手伝わせてくれるようになったのはいつからだっただろうか。
ある時工房の作業を手伝っているマルコに、親方は余った木材と、まだ組み上がっていないヴァイオリンのパーツを持ってきて、空き時間に作ってみなさいとマルコに言った。
その時の喜びは一言では言い表せない。
工房の手伝いをしながら空き時間を使って、時に親方の弟子である職人に教えを乞いながらマルコはカンナで木材を削った。しなやかな白木は力加減を間違えると致命的に木が持つ形を損なってしまいそうで、息を詰めて作業をした。
集中しすぎて頭痛がするほどだった。
正式に弟子にしてもらったのは、そのパーツが完成して間も無くのことだった。
親方は厳しかった。
普段は物静かな人だったが、ヴァイオリンに関しては妥協がなかった。出来の悪さに、殴られたことだって何度もある。褒めてはくれないし、認めてもくれない。だけどやめろと言われたことは一度もなかったから、決して諦めなかった。
そうしてある時、マルコの中でも自信作とも言える一本を作ることができた。出来上がったヴァイオリンを親方に渡すと、彼は目を細めていったのだ。
『良いんじゃないか』
たった一言。
だけどその一言がどれだけ聴きたかったか。
どれほど、嬉しかったことか。
完成したヴァイオリンを作業机に置いて、その日マルコは少しだけ泣いた。
だから、ほんの出来心だったのだ。
ヴァイオリンに、普段出荷する品と同じようにラベルを付けた。
決して外へ出そうと思ったわけじゃない。親方と比べられる出来じゃないことは自分が一番よく分かっている。
ちょっとした悪戯心で、父に弾かせてみたら物が違うと分かるだろうか、なんて考えただけだ。悪戯が終わればもちろんラベルは剥がすつもりだった。
誓って、師の作だと偽ろうと思ったわけではないのだ。
懇意にしてくれている楽器屋数件に、ヴァイオリンを卸す役割をもらったのはその直後だった。
今までそんな仕事を頼まれたことはなかったけれど、工房の代表として行ってこいと言われたから舞い上がった。兄弟子たちも確認しているだろうし大丈夫だろうと、持っていくヴァイオリンのチェックを適当にしたのはマルコ自身だ。
喜び勇んでクレモナを出た。
まさかこれから卸すヴァイオリンの中に、自分の作品が混ざっているだなんて考えもしなかったのだ。
気づいた時にはもうマルコは国境を超えていた。今更戻っても納品には間に合わない。手遅れだった。
これは正式な工房の仕事だ。代表として行ってこいと任されたのに、検品をサボってヴァイオリンを間違えましただなんてどの面さげて言えるのだろう。
親方が認めてくれたのだ。
これからきっと、もっと大事な仕事にも関わらせてもらえるようになるかもしれない。
それなのに、たった一度の間違いで、積み上げた信頼の全てを不意にする事なんてできるはずがなかった。
『贋作を渡したと知れたら工房の名に傷がつくし、君は工房を追い出される事になる』
荒い息を吐き出して、マルコは足を止めた。
後ろを振り返って、誰も追いかけてくる気配がない事に安堵して、路地裏に座り込む。
あの演奏家の言葉がマルコの頭の中をぐるぐると回っていた。
(だけど、問題ないって、言ったんだ……)
鉛玉を呑み込んだような心地で、この町の楽器屋にヴァイオリンを卸した。
店主が問題ない、とそう言ってくれた時の安堵。
騙し通せた、と思った。
これで大丈夫だと、そう思ったのに心の中はいつまで経っても重いままで、すぐにこの町を出てクレモナに帰ろうと思えない。
(どうして、声をかけちゃったんだろう……)
答えはすぐに出た。ヴァイオリンの音を聞いたからだ。
一音一音の短い物だったが、音色は伸びやかで自由だった。
弾き手が良いのかヴァイオリンが良いのか気になって、近くで見たらもっと気になって声をかけてしまった。
あぁ、だめだ。きっと何度巻き戻ってもマルコはあの青年に声をかけただろう。
ぎゅっと目をつぶった。
気づいたときから繰り返していた後悔が、ぐるぐると何度も頭を巡る。
工房を出る前にきちんと検品していれば。
自分の作ったヴァイオリンを机に置きっぱなしになんてしていなければ。
そもそもラベルなんて、つけなければ……!
どれだけ後悔してももう遅い。ラベルはつけたし、ヴァイオリンは置きっぱなしにしていた。
検品をサボったのは自分で、ヴァイオリンはもう店に渡してしまった!
頭の中に、演奏家の言葉が回る。
贋作ヲ渡シタト知レタラ、俺ノセイデ工房ノ名ニ傷ガツク。
ソシテ俺ハ工房ヲ────。
「マルコさんっ!」
自分の名が路地に響いたのはその時だった。
ゆっくりと顔を上げると、息を切らした少年が一人立っていた。大きく上下する胸を押さえて、荒い息を吐き出して、ほつれた亜麻色の髪が耳元に垂れている。
自分を追いかけて来たのだと、すぐに分かった。