エピローグ
柔らかな風が若草のカーテンを揺らした。
部屋の中に入り込んだ若葉を拾い上げて、机の上にのせる。
手に持った数枚の紙に綴られた丁寧で端正な字は、この手紙の差出人の性格を表しているようで何度読み返しても笑みが漏れる。
「……あ」
と、舞い込んだ風が柔らかい亜麻色の髪を揺らした。新芽を思わせる若葉の瞳を瞬いて、リチェルは澄んだ空を見上げた。
「……会いたいな」
そうして、小さな声でつぶやく。
ハーゼンクレーヴァー本邸で迎える初めての春。
リチェルは先月で十六になった。
ヴィオからリチェル宛に手紙が届いたのは、二月も終わりに差し掛かろうという頃だった。
当時まだリチェルはルーデンドルフ夫妻の家にいて、サラから笑顔で手渡された手紙の差出人を見てとても喜んだのはまだ新しい記憶だ。
手紙には無事家の問題は解決したこと、リチェルへのお礼などが、簡潔な言葉で綴られていた。
『学院へ戻る事になって慌ただしくて、連絡が遅くなってしまってすまなかった。また改めて会いにいくから待っていてほしい』
そう書かれた手紙にすぐに返事を書かなきゃ、と思ったところで、リチェルはとても大事な事に気付いてしまった。
孤児院にいた頃文字の練習はしていたから一通り字は書けるが、リチェルが書けるのはイタリア語だ。
ドイツ語は読めるが書けない。
何よりそもそもリチェルは手紙を書いたことがなかった。
作法も分からなくてワタワタしているリチェルに、楽しそうに笑ってサラは手ほどきをしてくれた。
初めての返事を書き終わる頃には、リチェルはハーゼンクレーヴァーのお屋敷に戻ることになり、リチェルの返事はエリーが送ってくれた。
そしてハーゼンクレーヴァーの屋敷に戻ったリチェルが落ち着く暇もなく、待っていたのは様々な分野の家庭教師によるみっちり詰められたスケジュールだった。
『仮にもハーゼンクレーヴァーの娘ですからね。周りに教養がないなんて絶対に言わせないよう励みなさい』
戻ってきた初日にイングリットは淡々とリチェルにそう言い渡した。
イングリットが自ら作って教師を手配したらしいスケジュールは目を回すほどの忙しさで、しばらくリチェルはエリーやイングリットと話をする暇もない程だった。イングリットは当然だと言う顔をしていたが、後日こっそりとエリーがリチェルに耳打ちしてきた所によると、
『お祖母様ってば毎晩バルバラを呼び出して、姉様の様子を聞いてますからね』
との事で、それなら尚のこと期待に応えたいとリチェルなりに必死で頑張ってきたのがこの一ヶ月だ。
(ヴィオから返事、来ないかな……)
もう何度も読み返した手紙を丁寧に折りたたむと、封筒に戻す。封筒を裏返すと、差出人の箇所には『ヴィオ・ローデンヴァルト』の名義が書かれている。
実を言うと、リチェルはまだヴィオの本名を知らない。
ルーデンドルフ夫妻はヴィオを偽名の方で認識していたから、きっと手紙の名前も合わせたのだろう。手紙の返事を書くときに困って、一度だけエリーに尋ねてみたのだが、にっこり笑って『内緒』と言われてしまった。
(元気かな)
エリーに聞いた所によると、今はイースター休暇で家に戻っているだろうとの事だった。会いに行きたい気持ちはもちろんあるけれど、ヴィオは卒業後家督を継ぐ準備で忙しいだろうし、何より約束もなしに軽々しく訪ねてはいけないと言うことくらいは今のリチェルには分かる。
『あなたに、会いたいです』
前回の手紙で、そう書きかけてペンを止めた。
ヴィオはきっと忙しくしているから、きっと困らせてしまうと代わりに『お家のことを優先してください』と書いて送った。
だけど本当は少し、寂しい。
二週間ほど前から、レーゲンスヴァルトの通りにはアーモンドの花が咲き始めていた。お屋敷の庭の緑も艶々として美しく、どこにいても春の訪れを感じる。
そんな些細な変化を感じるたびに、ヴィオのことを思い出す。
(……少しだけ、外を歩いてこようかな)
今日は珍しく午前のレッスンが終わったら、午後は確か何もなかったはずだ。気分転換には良いかもしれない、とリチェルは窓から離れると部屋の出口に向かう。
「あれ、リチェル様。どこに行かれるんですか?」
と、部屋に戻ってきたバルバラに声をかけられてリチェルは笑う。
「少しお庭に」
「あら、そうですか。じゃあ誰かつけたほうがいいですかね。私が行きましょうか?」
心配性なバルバラの申出に、リチェルは『大丈夫です』と笑った。
「そんなに遠くへは行きませんから。少しだけ」
「分かりました。早めにお戻りくださいね」
「はい」
返事をして、リチェルは部屋を出ていく。
廊下の窓からも青々とした葉を伸ばす木々の様子が見えた。ふと玄関に馬車が見えてリチェルは首を傾げる。
(お客様かしら?)
それなら迷惑にならないように、裏口から出ていかないといけない。
空は晴れ渡り、風は心地いい。
きっと庭を歩くのは楽しいだろう。
「あれ、姉様は?」
部屋の主人を呼びにきたのに肝心の姿が見えなくて、エリーは首を傾げた。
「先程出て行かれましたよ」
「うわ、本当に?」
バルバラの言葉にエリーは盛大に顔をしかめた。
「お庭に行かれると言ってましたけど、リチェル様のことですから庭園ではなくて裏の小道の方だと思いますよ。この時間だと庭師もいるから大丈夫かと思ったんですけど、何か問題がありました?」
「大ありだよ。内緒にしてたのが裏目に出たなぁ。ごめんバルバラ。姉様が戻ってきたら一階の応接室まで知らせてくれる?」
返事を聞かずに、エリーは身を翻すと廊下を駆けていく。イングリットに見つかれば、目くじらを立てられるだろうが、今は執務室にいる事はちゃんと確認済みだ。足早に一階の応接室まで行くと、エリーは呼吸を整えて扉を開く。
「すみません。姉様がちょっと庭に出てしまってるみたいで、ここで待ってていただければ今呼んできますから」
先程訪ねてきたばかりの青年は席から立ち上がると、いや、と涼しい口調で口にした。
「場所を教えてもらえたら迎えに行くよ」
「流石にそんな手間をおかけする訳には……」
「手間だとは思わない。分かるだろう」
そう言って、青年はかすかに笑う。
「少しでも早く会いたいだけだよ」
チラチラと木漏れ日が石畳の小道を照らしていた。
背の高い常緑樹が青々とした葉を広げて、太陽の日差しをめいっぱい受け止めている。小道を抜けると、白いベンチが置かれた小さな丘に出る。ハーゼンクレーヴァーの庭はとても広大だけれど、中でもこの小さな丘はリチェルのお気に入りの場所だった。
木々の間を吹き抜けた風がふわりと広がり、リチェルの髪を舞いあげた。乱れそうになる髪を押さえて、空へと駆け上がる風を目で追う。
高く、高く。
「────」
自然と、慣れ親しんだ旋律が唇からこぼれ落ちた。
丘の空気に溶けるようなソプラノ。
曲はメンデルスゾーン『歌の翼に』
以前は何も知らずに歌っていたけれど、この詩は元々恋の歌なのだという。決してたどり着くことの出来ない遠い楽園へ恋人を誘う、そんな詩。
明るく歌い上げられるこの曲は、哀愁を感じさせるようなメロディーと同居する。美しい園へ行こうと誘いながら、その場所は本当は決して行けるものではない安寧の夢なのだとそう語るのだ。
半年前、この歌をあの丘で歌っていたリチェルにとっては文字通り楽園はおとぎ話だった。出口が見えないまま、たどり着くことは決して出来ない夢の園を自分はあの丘で歌っていたのだ。
(だけど──)
『俺はただ、君の歌が聴きたくて降りてきたんだ』
あの日、ヴィオがリチェルの歌声を見つけてくれた。
リチェルを連れ出してくれた。
それは歌の中で語られるような、夢のような場所ではなかったかもしれない。
リチェルがこの旅の中で知った様々な事実は、穏やかで心を満たすものだけではなかったかもしれない。
だけどきっと、ヴィオが連れ出してくれたこの場所が、リチェルにとっては一番美しい場所なのだとそう思う。
風が舞い上がる。
歌声は高く空へと手を伸ばすようだ。
「リチェル」
不意に名前を呼ばれて、振り返った。
「────」
驚きに目を見開いたリチェルの視線の先には、一人の青年が立っていた。
濃いブラウンの髪、琥珀色の瞳。
仕立てのいい服を身につけた青年は、あの日と同じように丘の上に立つリチェルを見ていた。
だけどもう怯えたりしない。
だって目の前にいる人は、リチェルにとって誰より愛しい人だから。
一緒にいたのはほんの二か月だった。
会えなかった時間の方が長かった。
だけどもまるで時間が巻き戻ったみたいに、一瞬でそばにいた頃に立ち戻る。
青年の瞳は優しい色をして、リチェルをじっと見ている。
「ヴィ……」
歩み寄ってきた青年は、そっとリチェルの言葉を制する仕草をする。
「ちゃんと名乗っていなかったんだ、君に」
「あ……」
「ヴィクトル」
少し体温の高い手が、優しくリチェルの手を取る。
「ヴィクトル・フォン・ライヒェンバッハと申します」
待たせてしまってごめん、と落ち着いた声が耳を揺らす。かすかに視界が滲んで、だけどリチェルは静かに首を振る。
「うん。わたしも──」
ゆっくりともう片方の手を重ねて、リチェルは笑う。
「ずっと、あなたに会いたかった──」
長らくお付き合いいただきありがとうございます!
Harmoniaはこれで完結となります。
今後外伝なんかもあげるかもしれませんが、その場合外伝はこの作品ページにそのままあげる予定です。
最後に評価をつけていってくださると、とっても喜びます〜!
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