op.16 春風吹き渡る時(15)
朝方おりた霜がまだ窓に張り付いている。
窓の外に行儀良く並んだ木々は、ハーゼンクレーヴァーの屋敷に比べるとこじんまりとしているが、今朝降った雪が綿帽子のように積もっていてどこか可愛らしい。
コンコン、と背後で小気味よいノックの音が聞こえて、リチェルは振り返った。
「リチェル、ごめんなさい。レッスンが長引いてしまって。お茶にしましょうか」
「サラさん」
入ってきた女性の名前を呼んで、リチェルは顔をほころばせる。
リチェルがリンデンブルックにあるルーデンドルフ夫妻の屋敷に着いたのはつい昨日の事だ。
元々ハーゼンクレーヴァーの屋敷を出たらリンデンブルックに向かう予定だったのだが、到着日が少し後ろに倒れたからサラには迷惑をかけてしまった。
それなのにリチェルを迎え入れてくれたサラはそれはもう大変な喜びようで、リチェルもその歓迎が嬉しくて少しだけ泣いてしまった。
「昨日はきちんとおもてなしが出来なかったから、今日は張り切ったのよ。リチェルが好きそうなお菓子も紅茶も色々用意したから、たくさん食べなさいね」
そう言ったサラに案内された部屋には、二人ではとても食べきれない量の菓子が並べられていた。
用意してくれたお菓子は色鮮やかで、思わずリチェルは感嘆の声を上げる。
以前もお世話になった使用人の女性がどうぞ、と椅子を引いてくれて、お礼を言うとリチェルは席に座った。
サラに促されるままにリチェルは出されたクッキーを口に運ぶ。
口の中に広がる甘みに頬がゆるむ。その様子を目の前に座ったサラがにこにこと笑って見ているのに気付いて、リチェルは頬を染めた。
「あの、ごめんなさいサラさん。きちんと予定の日に来れなくて……。それにこんなにお菓子もたくさん……」
「ふふ、良いのよ。リチェルが帰って来るのをとても楽しみにしていたんだから、数日くらい何でもないわ。また歌のレッスンも再開しましょうね。楽しみだわ」
それに、とサラが悪戯っぽく笑う。
「お菓子のことも本当に気にしなくてもいいのよ。だってこんなものでは全然足りないくらいハーゼンクレーヴァーのお屋敷から頂いているの。奥様も旦那様も飛び上がっていたわ」
その言葉にリチェルはより恐縮してしまう。今のリチェルはハーゼンクレーヴァー家から正式に、だが内密にルーンデンドルフ夫妻に預けられている形になっているのだとエリーから聞かされた。
ハーゼンクレーヴァーの家を発とうとしたあの日から、リチェルを取り巻く環境は目まぐるしく変わった。
イングリットはエリーの申し出を受けて正式にリチェルをリーゼロッテの娘だと認めることに同意し、その為の準備が終わるまでリチェルは目立たないようにルーデンドルフ夫妻のところに預けられる事になったのだ。
ルーデンドルフ夫妻には昨日挨拶はしたものの、諸々の事情の説明は一緒に送ってくれたエリーが引き受けてくれてリチェルは多くを聞かされていない。
ただ少なくない額が自分のために用意されたことは、出立前にバルバラからこっそり聞かされた。
道中恐る恐るエリーに尋ねると『当然でしょう。こちらの面子の問題ですから、姉様は全く気にする必要はありませんよ』とおかしそうに笑うだけで、リチェルからすると戸惑うばかりだ。
だから昨日久しぶりに会ったサラが以前と少しも変わるところがなく、リチェル、と気安く呼んでくれることがとても嬉しくて、ホッとしたのだ。
リチェルとまた過ごせて嬉しいわ、と今もサラは穏やかに笑っている。
「エアハルト様も春までには何とかすると言っていたから、二、三ヶ月はここにいられるのでしょう? 私は別にいつまでもいてくれて構わないのだけど、そういう訳にもいかないものね。ヴィオさんに怒られてしまうわ」
「さ、サラさん……!」
揶揄うような言葉に真っ赤になって抗議の声を上げると、ふふ、とサラが嬉しそうに笑った。
「とにかく、リチェルが気にすることは何もないのよ。ご当主に滞在中何か気をつけなさいと言われたわけではないでしょう?」
「あ、はい。『今はお前にできることはないから、余計なことは喋らずに大人しくしていなさい』と」
「つまり『リチェルは何も気にせずにゆっくり休んでていいのよ』と言うことね」
にっこりと笑ってサラが言いかえる。
「はい」
リチェルも嬉しそうに頷く。イングリットは言い方は厳しいが、本質は優しい人だとリチェルは思っていた。
それこそシスター・ロザリアのように。
ただ少し不器用で、そのせいでたくさんボタンのかけ違えをしてしまった。それはきっと取り返しのつかない事で、他人が『大丈夫だ』なんて簡単に言える事ではないだろう。
ただ、だからと言ってこの先も不幸である必要はないのだ。
これからのイングリットの毎日が少しでも温かなものであればとリチェルは願っているし、その為にできる事があれば何でもしたいと思っている。
それにしても、と何かを思い出したのかサラが視線を窓の方に向ける。
「エアハルト様は、リチェルに似ててとても可愛いらしい方だったわね。少しはゆっくりしていけばと思ったのだけど、すぐに発ってしまって残念だわ」
「それは……ごめんなさい。エリーもきっともう少しゆっくりしたかったんだけど、わたしが頼んだんです」
「あら、そうなの?」
サラがキョトンとして首を傾げる。はい、とリチェルは頷く。
詳しくサラに話す訳にはいかなくて口籠もると、事情を察したのかサラがにっこりと笑う。
「それならリチェルを迎えに来た時にはゆっくりしてもらいましょうね
「はい」
ほっとして頷くと、リチェルも窓の外に目線をやる。
遠くに見える白い山々。ヴィオの屋敷は、とても寒い土地にあるのだと聞いた。もう十二月も終わりで、ヴィオが今いる場所は雪で覆われているのかもしれない。
『姉様のことが、ヴィオさんの迷惑になるかって?』
リチェルが正式にハーゼンクレーヴァーに入ると決まったその日。
ずっと気になっていたことをエリーとイングリットに尋ねた。
貴族であるヴィオは、本来なら孤児であるリチェルが話をすることも出来ない人間だろう。そのヴィオの旅にリチェルがずっと付いていたことは、ヴィオにとって何か不都合な事にならないのだろうか、と。
『そうですね。正直黙っていればいいだけですし、揉み消すことも可能な範囲なのでそこまで問題にはならないとは思いますが……。お祖母様はどう思われます?』
エリーが書斎の机に座ったままのイングリットに話を振る。イングリットは少しだけ考える素振りを見せたが、すぐに口を開いた。
『子爵の家は今当主が不在で、実際にはその当主は亡くなっているのですよね。今は弟が領地を見ていると聞いているけれど──、そうですね。もし当主の座を弟が欲しいと思ったら、エリー。お前ならどうする?』
話を振られてエリーはすぐに合点がいったのか『あ』と短い声を出した。
『確かに徹底的につつきますね。ヴィオさんの性格を考えるときっと言い訳しないでしょうし。事実ベースの弱みがあると好都合ですもんね。そっか。うん、姉様。もしヴィオさんの家で家督争いが起きていたとしたら確実に不利な材料にはなります』
率直に伝えられた言葉に血の気が引いた。
エリーやイングリットの言葉はずっとその社会に身を置いてきただけあって、余計な感情を含まず淡々としていた。
そして家族だからか、ヴィオやソルヴェーグのようにリチェルに対してその事実を隠す訳でもない。それが今はとても有り難かった。
『無論、これは家督争いがある前提の話になりますよ。そうでないのであれば、逆に無かったことにするでしょう。気にすると言うことは、お前は何か引っ掛かる所があるのかい?』
『……はい』
実を言うと、リチェルは少しだけヴィオの事情を察していた。
ヴィオが生家からと思われる文を受け取った時の表情や、ソルヴェーグと話している様子。断片で漏れ聞こえる内容。
聞かないようにしていても、リチェルもヴィオと同様耳のいい方だ。
だから『家に誰かヴィオと敵対してる人間がいる』という事実くらいは察せてしまった。
ヴィオが隠そうとしていることをわざわざ尋ねたりしなかっただけで、ヴィオの『片づけなくてはいけない事がある』という言葉は、単純に家を継ぐための手続きがあると言う意味だけではないのだろう、とそう思っていたのだ。
『……お祖母様』
そっと一歩イングリットの方へ歩み寄る。
『ヴィオを助けることは、出来ないでしょうか……? ヴィオはわたしの恩人です。出会ってからずっと助けてもらってきました。ヴィオがいなければ、わたしはここにいなくて、今頃きっともっと酷い環境に置かれていました。わたしのせいでヴィオが不利になるような事があると言うのなら、そんな事……』
『姉様……! そんな自分を責めないでください!』
駆け寄ってきたエリーがリチェルの肩を抱く。対してイングリットは、冷静な瞳でじっとリチェルを見ていたが、やがて根負けしたように短く息を吐き出した。
『──いいでしょう』
パッとリチェルの表情が明るくなる。イングリットは憮然とした表情を崩さずに『別にお前の為にという訳じゃありませんよ』と口にする。
『お祖母様!』
『ハーゼンクレーヴァーの娘が元孤児だなどと後ろ指を指されたままなのは、後々禍根を残しますからね。早くに対処するのが望ましいと言うだけです。それに、借りを作ったままなのは性に合いませんから』
紙とペンを、とイングリットが控えていた使用人に命じる。
『エリー。伝令はお前に任せますよ』
『はい、お祖母様』
答えたエリーがリチェルを安心させるように笑う。もう大丈夫ですよ、というように。
それから程なくして、リチェルとエリーはハーゼンクレーヴァーの家を発った。
約束通りエリーはリチェルをサラの元へ届け、その足でイングリットからの手紙を持ってヴィオの所へ向かった。それが昨日の話だ。
(どうか──)
ここにはいない青年の事を思って、リチェルは心の中で祈る。
(どうか間に合って──、エリー)