op.16 春風吹き渡る時(14)
ヴィオがルートヴィヒとの面談を正式に依頼したのは、もう十二月も下旬に差し掛かる日の事だった。その日も雪は降り続いていて、窓の下半分に張り付いた新しい雪が風に吹かれて小刻みに揺れては落ちる。
「それで、改まって何の話だ」
いつもの執務室ではなく応接室のソファに腰掛けたルートヴィヒは、憮然とした顔でヴィオを見ている。
ヴィオの後ろに控えたフォルトナーをチラリと見て、不機嫌そうにルートヴィヒは黙る。この執事が完全にヴィオに付いていることは、ルートヴィヒもすでに既知の事だ。マイヤーにもあまり良い風には言われていないのだろう。
「しかも俺だけではなく、ハンスにまで来いとは。何かケチをつける材料が見つかったのか?」
「率直に言うとその通りです、叔父上」
「何?」
ピクリとルートヴィヒが片眉を吊り上げた。隣に立つマイヤーも大げさに顔をしかめて見せる。
「何と言うことを。これでも一年足らず私は身を粉にして侯爵家に尽くしてまいりましたのに……」
「黙ってくれないか」
わざとらしい台詞を静かな声で遮ると、マイヤーが頬を叩かれたかのように目を見開く。
「今はお前に話をしていない」
「ヴィクトル貴様──っ」
「……いえ、構いません。ルートヴィヒ様。ここはヴィクトル様のおっしゃる通りです。私は口を慎みましょう」
マイヤーの言葉にルートヴィヒがグッと言葉を飲み込む。不機嫌そうに腕を組むと『それで何だ』とイライラした様子を隠しもせず先を促した。
「兼ねてより、そこにいるマイヤー殿が私に尾行を付けていたという話は叔父上もご存知の通りかと思いますが、その理由を叔父上はご存知ですか?」
「理由も何も、ハンスは俺の為にお前の同行を……」
「何故?」
「何故だと? それはお前が信用に足る人間でないからだろう! 己の不足を他人のせいにするつもりか!」
「何度も言いますが、マイヤー殿が私に尾行をつけていたのは叔父上の信用を私が損ねる前からのお話でしょう。マイヤー殿は『叔父上の為を思って』と仰いますが、マイヤー殿は叔父上の個人的な客分であって、この家の正式な客人ではない。私とはほとんど面識がない中、私がマイヤー殿の行動を看過する理由はありません」
「ハンスはずっとこの屋敷を支えてくれたのだぞ⁉︎ それでも貴様はそのような恥知らずな事を言うのか!」
「叔父上」
ヴィオの静かな声に、ルートヴィヒが一瞬気押されたように黙る。
「先程聞きましたね。何故、と。何故マイヤー殿が私を尾行していたのか。叔父上は考えたことがないのですか。叔父上の為にではなく、自分の為にこそ私の後を付けてきていたのだと言う可能性は?」
「貴様何を言って……」
「結論から言います。マイヤー殿が私を尾行していたのは、私を屋敷に戻らないように仕向ける為です。そして叔父上に報告がなかったリンデンブルック以後もマイヤー殿は私の動向をずっと把握していました。父上の消息を掴めたのはその為です」
「な……⁉︎」
ルートヴィヒが信じられないと言うようにマイヤーを振り返る。マイヤーは誤魔化すように何度か咳払いをすると『何かの間違いです』と口を開いた。
「失礼、ヴィクトル様。事がことなので私が口を開いても?」
「あぁ」
「何か思い違いをされているかと思います。確かに私はヴィクトル様の動きを調べておりました。ただリンデンブルック以後はルートヴィヒ様の命を受けて手配をしていて、その連絡があるのは不自然ではないでしょう? 一体どのような証拠が?」
「自分が送った手紙の内容を覚えていないのか? リンデンブルックでは俺を追い出すために随分と入念に準備をしていたようだが」
フォルトナーに視線を送ると、後ろから来た執事は黙ったまま一括りの書簡をルートヴィヒの机の前に置いた。
「これは?」
「そちらのマイヤー殿が私の尾行に使っていた人間と交わしていた書簡です」
「……なっ」
これには流石にマイヤーも目を剥いた。
ルートヴィヒは目の前の書簡の束を見つめたまま『どう言うことだ?』と質問を重ねる。
動かないルートヴィヒの代わりに、さっさと書簡の紐を解くと該当のものをルートヴィヒに差し出す。訝しむ様子でそれを受け取ったルートヴィヒが、黙って手紙を開いた。
その表情が文字をなぞる内にどんどん困惑の表情に変わっていく。
「……ハンス、俺はお前にヴィクトルを連れ戻すように命じたな?」
「はい、もちろんでございますとも」
「この手紙には、ヴィクトルを外へ追い出すようにと書かれている。フリッツやベンの情報、俺が奴らに出した指示も仔細にだ。どう言うことだ?」
「で、ですから、事実無根です! 第一そちらは私の手と言うわけではでしょう⁉︎ であれば幾らでもでっち上げる事は出来ます!」
「記録もあるが」
悪あがきするなら、特に隠し立てする気もない。フォルトナーが無言で開いた電信記録をルートヴィヒの前に置いて、後ろに下がる。
「この日付で、叔父上がフリッツ殿達に依頼した内容をマイヤー殿以外の人間が送れるとは思えないがな。それから叔父上、2枚目以降の紙は以後の電信記録です。私の滞在した宿は、お調べになればすぐに日付の確認が取れるでしょうが、こちらが一覧です。マイヤー殿宛ての電報が打たれた場所も時刻も、私を発見出来ていなかったと言うにはいささか苦しいと思いますが」
あれから、フォルトナーはエリーの提供した情報を元にマイヤーが依頼した人物に辿り着いていた。やり取りの内容や、その人物の宿の記録は、凡そヴィオの旅の記録と重なっている。
「加えて、叔父上が最近家に招いている弁護士の先生や、会計監査の専門家は全てマイヤー殿の既知の人物との事ですね。父上が懇意にしていた先生方と連絡を取りましたが『しばらく当主の不在で忙しいから、こちらから連絡するまで声をかけるな』という趣旨の、実質断りに近い文句の書状が送られていたようで、ご存知でしたか?」
「……」
「叔父上。父上は叔父上を信頼してこの家を預けた。そうであれば、マイヤー殿の一連の行動が何を示すのか分からないとは言わせません」
「……っ」
ルートヴィヒの手紙を持つ手がワナワナと震えている。ハンス、と怒気のこもった声がルートヴィヒの口から漏れる。
「これは一体、どう言うことだ──?」
「いえ、ですから私は……」
「俺はどう言うことだと聞いているのだ!」
ルートヴィヒの怒鳴り声が容赦なくビリビリと部屋を震わせた。と、お許しください! とマイヤーが崩れるようにその場に膝をついて頭を垂れた。
「申し訳ございません、ルートヴィヒ様! 確かにヴィクトル様のおっしゃることは事実です! ですがどうかご理解ください! 貴方様の命令に背いてしまったことは私にとっても苦渋の選択だったのです! 全てルートヴィヒ様の事を想ってのことです!」
「何?」
この後に及んで何を、とヴィオも眉根を寄せるが、マイヤーは哀れっぽく床に膝をついたままルートヴィヒを見上げる。
「最初ヴィクトル様の動きを調べたのは、ルートヴィヒ様がヴィクトル様まで奥方を放って家を飛び出していたことを憂いていたからです。出過ぎたこととは思いながらも、私はヴィクトル様のことをよく知らぬ身で、ルートヴィヒ様の優しさゆえに外へ出たヴィクトル様が期待通りに行動されているか気になった一心でございます! ですが! ですがです! 以前も申し上げたとおり、ヴィクトル様はどこの馬とも知れぬ娘を連れ歩いていたのです! これは次期当主として、ルートヴィヒ様が守ろうとしているお家を継ぐ人物として相応しいのか不安になるではないですか! ルートヴィヒ様こそが相応しい人物ではないかと、そう思ったのです!」
実際、とマイヤーは言い募る。
「ルートヴィヒ様も疑っておいでだったではないですか! ヴィクトル様がこの家を守り切れるのか不安であると仰ったではないですか!」
「それは、そうだが……」
「そしてこうなったのであれば私も真実を申し上げます! リンデンブルック以後も私はヴィクトル様の動向を追っておりました! だからこそ存じ上げております! 以後もずっと、ヴィクトル様が件の娘を連れ歩いていたのをルートヴィヒ様はご存知ですか⁉︎ 大事な兄君の行方を探すのに、ずっと気に入りの娘を連れ回している人間が当主に相応しいとでも⁉︎」
「……っ」
そうきたか、とヴィオはマイヤーの舵の切り方に舌を巻いた。
敵対するヴィオから見ても、この切り返し方は上手い。自分の罪状を認めた上で、ルートヴィヒの情に擦り寄って、全く違う方向から糾弾してくる。
案の定、怒りの矛先が変わって、ルートヴィヒがヴィオの方を睨む。
「それは本当か? ヴィクトル」
「言い方に非常に悪意があると思いますが、行き先が同じでしばらく共にいたのは事実です」
「行き先が同じで? そう、孤児ではないと言われていましたが、ご一緒に孤児院へ向かっていたでしょう。父君を探しているはずの貴方が何の用があってそんな所に?」
(コイツは……っ)
ここに来て、隠し玉をどんどん投げてくる。無意識に奥歯を噛んで、マイヤーを睨みつける。その瞳の奥が嗤っている事に気づいて、怒りが沸く。
さぁ、どうする? とその瞳が挑発するようにヴィオの目を見返した。
「……クソッ!」
沈黙を破ったのはルートヴィヒだった。ダン──ッ! とともすれば壊れそうな勢いで、机を殴りつけてヴィクトルとマイヤーを交互に睨む。
「貴様らは一体何なのだ! 揃いも揃って俺の信頼を踏み躙りよって! 何がしたいんだ!」
ヴィクトル! と怒鳴りつけるようにルートヴィヒがヴィオの名を呼ぶ。
「マイヤーが言うことが事実だと言うなら、ここにその娘を連れ回していた正当な事情とやらを今すぐに持ってこい! 洗いざらい話せ! そうでなければ俺はお前のことなど信用できん!」
「……」
ルートヴィヒの剣幕にヴィオは黙り込む。だってそんなものはない。リチェルを連れていた事に正当な事情なんてそんなものは──。
コンコン。
と、不意にノックの音が部屋に響いた。場違いに落ち着いた音。失礼します、とその場に姿を現した人物の姿に、ヴィオは目を見開く。
「取り込み中失礼致します。実は至急ヴィクトル様に取り継いで欲しいという客人がおりまして──」
ソルヴェーグだった。
「……っ、待たせておけっ! ソルヴェーグ! 今はそんな状況ではないと分かるだろう!」
「いえ」
穏やかに、だがはっきりとソルヴェーグがルートヴィヒの言葉を否定する。
「今だからこそ、と思いまして。私の一存でお通ししました」
「何を……っ」
と、ソルヴェーグが扉を開ける。入ってきた少年の姿を見て、今度こそヴィオは言葉を失くした。
「お初にお目にかかります。大事なお話の途中に割り込んだ無礼をお許しください」
一歩部屋に踏み入れた少年が、一寸の隙もない仕草で礼を取る。
「レーゲンスヴァルト伯爵家が当主イングリットの名代で参りました。エアハルト・フォン・ハーゼンクレーヴァーと申します」