op.16 春風吹き渡る時(13)
夢を見ていた。
否。ずっと夢の中にいるようだった。
起きている時も、寝ている時も。思い出を何度も繰り返す。緞帳の落ちた舞台に立ち尽くしたまま、ただ何度も。
「────」
夕べを揺らす音色に、マルガレーテは目を覚ました。ヴァイオリンの音が鳴っている。あの人がよく演奏していた曲。覚えている。
J・S・バッハ「管弦楽組曲第3番BWV1068第2楽章『アリア』」
『その曲がお好きなのですか?』
彼が良く弾くから、マルガレーテももう楽譜を覚えてしまっていた。弓をゆっくりと下ろしたディートリヒが頷く。
『あぁ。もっと言うなら、この時間帯に弾くのが好きなんだ』
そう言う彼の後ろの窓は茜色に染まっている。
『一日の終わりに寄り添ってくれるようで』
ぼんやりとした視界に、天蓋の布が映る。ゆっくりと窓の方を向くと、美しく染まる夕日の光がチラチラと揺れていた。茜色の部屋の中で、侍女のアンネッテが音を立てないように作業をしている後ろ姿が見える。
「アニー」
か細い声でその名を呼ぶと、アンネッテが振り返った。
「……奥様?」
目を覚まされたのですね、とアンネッテが頬を緩める。少しひやりとした手がマルガレーテの手を取ると、慣れた手つきで脈を取る。
一体どれくらい眠っていたのだろうか。
「まだ起きられないでくださいね。何か飲まれますか? ご飯が食べれるようなら、何か召し上がって頂いた方が……」
「アニー」
その言葉を遮る。普段マルガレーテが彼女の言葉を遮るような事はなく、驚いたようにアンネッテが顔を上げる。その手を弱い力で握って、『ヴァイオリンが……』と震える声で呟いた。
「あ……。その、美しい音色ですね」
何かを誤魔化すようにアンネッテが笑う。
「違うの」
その言葉を遮って、必死でマルガレーテは言葉を紡ぐ。
「だって……、だって……」
優しい音色。
『この演奏を聴く誰かの一日がどんなものだったかだなんて誰にも分からないけれど、この曲は誰の終わりにも寄り添ってくれる気がするんだ』
そう、ディートリヒは言っていた。きっとあの人は弾いている時もずっと、この屋敷で働く皆のことを考えていた。誰かの終わりに、その一日の終わりに、寄り添おうとしていた。
優しい人。
大切な人。
彼の演奏が好きだった。愛していた。
だけど、同じくらい──。
「違うの。だって、この、おとは……」
涙が頬を伝う。
『父上みたいにまだ上手には弾けないけど』
いつからか、ディートリヒがいない時も、この屋敷に同じ曲は響いていたのだ。いつしか彼の真似をするように、あの子が弾くようになったから。他でもないマルガレーテが、お願いしたから。
ポトポト、と熱い雫がシーツに染みを作る。
「奥様……」
だから分かる。
音楽に詳しくなくても、どうしてかマルガレーテには二人の音は聞き分けられた。
この音は。この演奏は──。
「この音は、あの子の音だわ……」
痛いくらいシーツを握りしめる。同時に夢だと思っていた光景が急速に像を結ぶ。目を背けていた全部を、本当は初めからマルガレーテは認識していた。蓋を閉じていただけで。思い出そうとする勇気が、なかっただけで──。
『あなたは、誰──?』
何と言うことをしたのだろう。
『待って、ディルでしょう──?』
何て残酷な言葉を、あの子に吐いたのだろう。
どうして、忘れていられたというのか。
あの人がくれた物は時間だけじゃない。何より大切なものを、マルガレーテに与えてくれたのに。
「あぁ……」
吐息がこぼれ落ちた。
忘れてはいけなかった。
何を忘れてもあの子のことだけは、絶対に忘れてはいけなかったのだ。
肩を震わせて嗚咽を漏らす。流れ落ちる涙がシーツに新しい染みを作っていく。アンネッテが慌てたようにハンカチを取ってきくれたけれど、その手を握ってマルガレーテは身体を起こす。
行かなければ。
「アニー、お願い」
どんなに痛くても、私はもう、夢から覚めないといけない。
何も出来ないと思っていた。
だけどあの人は一度だって、私に何も出来ないのだと言ったことは無かった。
「私を連れて行って──」
どんなに辛くても、もう目を逸らしてはいけない。
「ヴィクトルのところへ」
廊下がにわかに騒がしくなっていた。
ヴィオがその音に気づいて演奏を止めるのと、私室の扉が開いたのはほとんど同時だった。
「ヴィクトル──っ」
部屋に入ってきたマルガレーテの姿を見た時、一瞬息が止まるかと思った。
急いでヴァイオリンを台に置くと、走り寄って部屋に駆け込んできたその身体を抱き止める。
「母上、お身体に触ります。まだ寝ていないと……」
落ち着いてそう口にしながらも、今がどう言う状況なのかヴィオには全く掴めない。名前を呼んだと言う事は、ヴィオを認識していると思って良いのだろうか。
(だが父上のことは? 一体どこまで覚えている?)
後ろにいるアンネッテを見ると、アンネッテも戸惑ったようにヴィオを見返した。その様子からきっとここへ来たのはアンネッテにも予想外の出来事だと察する。この訪問はマルガレーテの意思だということだ。
「母上……?」
大丈夫ですか? と困惑したままヴィオは支えたマルガレーテを見下ろす。そのマルガレーテの手が弱々しくヴィオの服を握りしめる。
「ごめん、なさい……」
押し殺すような声が、マルガレーテの口から漏れた。
「……え?」
「ごめんなさい、ヴィクトル。ごめんなさい……っ。私、貴方を、ディルと間違えるような、真似をして……っ」
ポロポロと涙を流して謝罪するマルガレーテに、言葉が詰まった。どこまで思い出しているのか分からないまま、ヴィオは謝るマルガレーテを宥める。
「構いません。いえ、構わないと言うのも違いますが、仕方がない事です。母上も混乱していたのですから」
「違う……、違うの。違うのよ、ヴィクトル。私は……」
マルガレーテが嗚咽を漏らす。
「逃げていたの。ずっと、一人で、卑屈になって、逃げていたの」
息継ぎすら惜しむように、言葉を紡いでいく。
「貴方にたくさん押し付けたの。貴方にたくさん背負わせたの。私が不甲斐なくて……、不甲斐ないせいで、今までもたくさん、貴方に無理をさせてしまった……っ。きっと、これからも私は……、今後貴方が背負うものに対して、何の役にも立たなくて……っ」
「そんな風に思ったことは一度もありません」
慌てて否定するが、マルガレーテは首を横に振る。弱々しく首を振って、だけど、と小さな声で呟いた。
「それでも、私は、貴方の母親なの……」
真っ直ぐに、深い紫紺の瞳がヴィオを見る。
「あの人がいなくなったとしても、貴方がいる事を。貴方がいてくれることだけは、決して忘れてはいけなかった──」
マルガレーテの震える手が、まるで拒まれるのを恐れるようにヴィオの服を握っていた。
(あぁ──)
覚えているのだ、と思った。
今目の前にいる母は、ディートリヒの死も、ヴィクトルの事も、覚えていて。その上でここに立っているのだと。
そう気付くと、ふっと気持ちは軽くなっていた。
「──大丈夫です、母上」
そっとマルガレーテの手の上に、自分の手を重ねる。
「俺は、本当に一度も、貴女に無理をさせられたなんて感じたことはありません」
見開いた弱々しい瞳を見返して、安心させるようにヴィオは不器用に笑ってみせる。
「確かに父は偉大な人でしたし、その後を継ぐのは重く感じたこともあります。ただその為に努力することを厭った事は一度もないのです」
逆にずっと案じていた。自分が取りこぼしたものが、マルガレーテに降りかかることを。自分の不出来が全て、母の重荷になることを。
「それに俺に限った話ではありません。どの家でもきっと後継は多かれ少なかれ、同じような苦悩をするものだと思いますよ」
エアハルトもきっとそうだろう。飄々としているように見えて、あの少年もきっと悩んでいた。だけどやはり、誰かを責めることは少しもしなかったのだ。
「だから母上が気に病む必要はどこにもないのです。俺は、貴女が笑っていてくれればいい。きっと父上も、それを望んでいるはずだから──」
少し考えて、いや、と口を濁す。コホンと咳払いして、ヴィオはもう一度口を開く。
「むしろ多分、母上はそれが良いんです。恐らく父上はきっと、そんな母上が家で待っていてくれることに十分に力を貰っていたと思いますよ。だからあんなに母上との時間を大事にしていたのでしょうし」
今となっては父が忙しい合間を縫って無理やりにでもマルガレーテとの時間を作っていた気持ちが少し分かる。きっとただシンプルに、父は母に会いたかっただけなのだ。息子である自分が母にそれを伝えるのはいささか気恥ずかしいことではあるが、多分言わないと分かってくれないのできちんと言葉にするしかない。
驚いたようにヴィクトルを見上げるマルガレーテの表情がふっと和らいだ。うん、とか細い声が頷く。
「あの人も、そう、言ってくださったわ」
新しい雫が母の頬を流れ落ちたのを見て、少し落ち着かない気分になりながら、ヴィクトルはマルガレーテの肩をそっと押した。
「ほら、アンネッテが困っています。そろそろ部屋にお戻り下さい。母上の気持ちは分かりましたから」
ヴィオの言葉に、頬を涙で濡れしたままマルガレーテが頷く。奥様、と後ろで控えていたアンネッテがヴィオの代わりにマルガレーテの肩を抱いた。
「……ヴィクトル」
「はい」
「またあの人の、ディルのお話を聞かせてくれる? 貴方はずっとあの人を探していたのだと聞いたから」
マルガレーテの言葉に『はい、もちろん』と答える。リコルドでの話も。きっとマルガレーテは間もなく聞けるようになるだろう。
「それから、貴方のお話も」
「…………」
マルガレーテの言葉に目を瞬かせる。だがすぐに笑って、はい、と静かに答えた。
「俺では父上の代わりにはなれないかもしれませんが」
「違うわ、ヴィクトル。代わりになんてならなくても良いの」
マルガレーテがその瞳に涙を浮かべたまま、だって、と笑う。
「貴方は私の、たった一人の息子なのだもの──」