op.16 春風吹き渡る時(12)
膠着状態の侯爵家の状況が動いたのは、ディートリヒの葬儀から一週間程経った昼下がりだった。
いつものように部屋に入ってきたフォルトナーが『ヴィクトル様』とやや高揚した声でヴィオの名を呼んだ。
「見つかったのか?」
「はい」
フォルトナーが届いたばかりの報告書をヴィクトルの机の前に広げる。
マイヤーに関する報告の全ては、侯爵家ではなく領内にあるフォルトナーの屋敷に届けられるように手配されている。流石にフォルトナーの私邸になると、マイヤーの目は届かない。
現状フォルトナー自身がほぼ住み込みで侯爵家にいる為、報告にはタイムラグが発生するが出来るだけ速やかに届けるように家でも厳命しているらしく、手紙が届いたのは午前中のことだったという。
「ヴィクトル様に聞いた名前が偽名だったので時間がかかりました。リンデンブルックでマイヤーが雇っていた三名ですが、その内の一人がやりとりした書簡を全て残していたようです」
「……そうか」
一種の賭けだったが、安堵で息を吐き出す。
ヴィオがフォルトナーに捜索の指示を出していたのは、リンデンブルックでヴィオ達を国外へ逃がそうとした三人だ。
あの三人はマイヤーと直接連絡を取っているようだったし、その内の一人、カーターと名乗っていた男は随分と用心深い性格に思えたから、後の保険に依頼のやり取りを残している可能性はあると踏んでいたのだ。
「それなりの額を要求されているようですが」
構わない、とヴィオは即答する。
「お前の差配で問題ないと思う範囲なら、俺に判断を仰がなくてもいい」
「良かった。そうおっしゃると思ってもう進めています」
「助かる。もう片方は?」
「そちらはまだ知らせは返ってきていません。ですが順調に足取りは掴めているようです。と言うか以前も思いましたが、良くあんな情報を手に入れられましたね?」
「あっちは俺が調べたわけじゃない」
ヴィッテルスブルクに到着したその日、フォルトナーにヴィオが捜索を依頼した人間は大きく分けて二つだ。片方はリンデンブルックでヴィオが一時的に共闘を持ちかけた三人。そしてもう一つは──。
『ヴィオさんもありがとうございます。お礼になるかは分かりませんが、これを──』
レーゲンスヴァルトでの別れ際、エリーが渡した封筒の中身。あそこに書かれていたのは、カスタニェーレからヴィタリにかけてヴィオ達を尾行していた人間の情報だった。
エリー自身もリチェルの位置を把握する為に尾けていた際に、同じようにヴィオ達の同行を伺っている人間の存在に気付いたのだろう。
何かの材料になる可能性が少しでもあるのであれば、多少労力を払っても記録する。
ハーゼンクレーヴァーの政治手腕は、幾重にも張り巡らされた情報網に裏付けられたものだ。
その片鱗を見た気がして、改めて敵に回したくはないなとヴィオも思った。だが現時点においては、大いに利用させてもらう事にする。
「電信会社の記録も取れるか?」
「もちろん。すぐに手を回します」
詰めていた息を吐き出す。
(……ようやくだ)
ようやく状況が動いた。屋敷に帰ってきてほぼ一ヶ月、これがうまくいけばマイヤーを追い出す手札が揃う。
「年末までに間に合いそうか?」
「間に合わせます」
フォルトナーが強い口調で答える。
「年を跨ぐ前に絶対に叩き出してやりましょう」
いつになく熱のこもった執事の言葉に苦笑をこぼして、ヴィオもまた頷く。
「あぁ、必ず」
気付けば、夕日が窓の外を赤く染めていた。
目を通していた書類から顔を上げると、ヴィオは私室の机の前でぐっと伸びをする。
目を通さなければいけない書類も、学ばなければいけないことも数え切れないほどあって、今日もほとんど机に齧り付いていた。
家に回ってくる書簡で当主が目を通すものは事前に写しを取ってヴィオにも回してくれるよう、フォルトナーが手を回してくれているのだが、ヴィオはまだ学院に通う身だったし、目を通してもすぐに理解出来ないものも少なくはない。
有難いことに多忙の中フォルトナーが参考になる資料を一通り一緒に届けてくれるのだが、これがまた量が多いのだ。
椅子に背中を預けたところで、ふと、部屋に立てかけたヴァイオリンのケースが目に入った。父の葬式以後練習を控えていたから、しばらく触っていない。
『ヴィクトル様。良かったらまたヴァイオリンを演奏していただけませんか?』
先程フォルトナーが退出する際、そう声をかけられた。
使用人達にとってもディートリヒの死は随分と応えたらしく、屋敷全体の雰囲気が落ち込んでいるのだとフォルトナーは言っていた。
『以前は頻繁に旦那様かヴィクトル様が部屋で演奏されていたでしょう。使用人達も音楽に詳しい訳ではありませんが、ここで働いている者は皆貴方の音に親しんでいるものばかりです。仕事中に聞こえる貴方の演奏に心を慰められる者は多いと思います。私も含めて』
ですから、気が向いたら演奏して頂けませんか。そうフォルトナーは告げて、自身の仕事に戻っていった。
椅子から立ち上がると、ヴァイオリンのそばにいく。自身のヴァイオリンケースに手をかけたところで、不意に隣に置かれたもう一本のヴァイオリンが目に入った。リコルドで回収してきた父の物だ。
「…………」
少しだけ迷って、父のヴァイオリンに手を伸ばした。静かな部屋に留め具を外す音が、やけに大きく響く。ケースを開けると、父のヴァイオリンは父の生前と寸分変わらずそこにあった。
磨かれた表面は深みのあるブラウンで、その楽器が経てきた時間をあたかも感じさせるようだ。
紡いできた演奏が折り重なったように、そこには父の意思がある気がした。
手に取って試しに一音鳴らすと、音は少しずれていて、何かに背を押されるようにヴィオは調律を始めた。
夕日が部屋を明るく照らしている。
一音一音が部屋の中にくっきりと響く。
どう奏でても出せない柔らかな父の音。
ヴィオにはそれは己の技量不足だと思えたが、父はそれを否定した。
『奏でる音はその人を良く表す。お前の音は誠実で芯の通った、澄んだ音をしている』
お前の音を奏でれば良い、と穏やかな声で父はそう言ったのだ。
一呼吸おいて、弓を構える。
演奏する曲は迷わなかった。父がよく演奏していた曲だったから。
思い出をなぞるように、最初の音が屋敷の中に零れ落ちる。まるで茜色の空に溶けるように──。