op.16 春風吹き渡る時(9)
その日ルートヴィヒの呼び出しを受けてヴィオが執務室を訪れると、意外なことにそこにはルートヴィヒの姿しかなかった。
「失礼します。お呼びですか?」
「……何か気になることでもあるのか?」
部屋に入った時にヴィオの視線が左右に走ったことに気付いたのだろう。
元々軍にいたせいか、ルートヴィヒはこういった仕草には鋭い。隠し立てする理由もないので『マイヤー殿はいないのですね』と淡々と口にするとルートヴィヒはフンと鼻を鳴らす。
「始終そばに置いているわけでもないわ。アイツはアイツで仕事もある」
無駄話をする気はないのか、それで、とルートヴィヒはすぐに本題に入った。
「ヴィクトル。お前の今後についてだが、年が明けたら一旦学院へ戻れ」
「……その事はもうお話したはずです」
落ち着いてヴィオが返す。
そう仕向けてくるだろう事は分かっていた。マイヤーからして見れば、ヴィオの存在は邪魔でしかない。基盤を築いている内はまず遠ざけようとするだろう。
「父上がいなくなった今、一刻も早く領地のことを学ばねばなりません。幸い私が通っていたのは音楽院ですし、学業の如何が経営に関係する訳でもありません」
「とはいえ侯爵家の跡継ぎが中退では話にならん。俺は社交には疎いが、醜聞になって困るのはお前だろう」
「……それなら休学と言う形にします」
正直に言うならヴィオとて学院を中退したい訳ではない。ただ、今この時に屋敷を離れるのは絶対に避けなくてはいけないだけだ。ルートヴィヒがため息をつく。
「お前はそんなに俺の事が信用できんか?」
「叔父上の事を信用できないと思ったことはありません。父もそう思っていたから叔父上に領地を任せたのでしょう」
「……っ、だとしたら尚更だ。信頼に足ると思っているなら俺に任せればいいだろう!」
ルートヴィヒが声を荒げるが、ヴィオは落ち着いて口を開く。
「父が亡くなった今この時に、家を離れるほど無責任にはなれません。今後私が背負うものですから」
「お前は……っ」
ルートヴィヒからすると言うことを聞かないヴィオに苛立ちもするだろうが、この一線はヴィオも譲れない。言葉の通りルートヴィヒになら任せられる。マイヤーさえいなければ、だ。
正面から向かい合ったヴィオの視線を睨みつけて、分かった、とルートヴィヒが苦い声を絞り出した。
「それなら俺の本心を言おう。俺はな、ヴィクトル。正直お前を信用していない。父を探しに行ったと言うのに、道中どこの馬の骨とも知らん娘を連れ回している様では、自覚が足りんと言わざるを得ん」
「……叔父上の期待に背いた事についてはお詫びいたします。ただ助けを必要とする人がいて、自分が助けられるのであればそうするでしょう。きっと父上でも同じ事をした。それ自体は間違っているとは思っていません」
「俺の信頼を損ねてもか?」
「お言葉を返す様ですが、一度家を出した私に尾行をつけていた事に対して叔父上は不誠実であるとは思われないのですか?」
徹頭徹尾引く気はない。口調だけは静かに返したヴィオの言葉に、苛立ったようにルートヴィヒが頭をぐしゃぐしゃとかく。
「ハンスのことなら、それは確かにアイツに非があると思っている。俺はお前を信頼して行かせた。そこにコソコソと後をつけられたとなれば確かに不快だろう」
だがな、とルートヴィヒが苦い口調で続ける。
「それでも侯爵家の子息が若い娘を連れて旅をする事が、どれほど軽率な行動か分からんとは言わせん」
「…………」
思いの外冷静に返ってきた言葉に、ヴィオは閉口する。これに関してはルートヴィヒの言うことが圧倒的に正しいことをヴィオも自覚している。
「例え人助けだとしてもだ。お前がこの家の正式な後継として相応しくない、迂闊な行動をしたのは確かだ。それについては正当な理由を俺の目の前に持ってこれない以上、覆しようのない事実だろう。異論はあるか?」
「……いえ」
顔を伏せて、かろうじて短くそう答えた。
本当は分かっている。それ自体が間違った行動だったと、後悔しているのだと言えば、少しはルートヴィヒの溜飲も下りるのだろう。今後話もし易くなるかもしれない。それが分かっていて。
(それでも──)
たとえ嘘だとしても、あの出会いを後悔しているとは言いたくなかった。
それ以上答えないヴィオに、ルートヴィヒがフンと鼻を鳴らす。
「お前の謹慎は年を跨げば解いてやる。ただし、年が明けたら学院に戻れ。お前が俺を信頼すると言うのであれば、お前が卒業するまでの期間俺が留守を預かることに何の不満があると言うのだ」
だから貴方のそばにいる男が、貴方がその座から降りることを良しとしないのだと。
そして恐らくマイヤーは貴方をその気にさせる算段がついているのだ、と。
正直にそう言ってやりたくなる衝動を抑え込む。今はまだ追及できる材料が揃っていない。下手に反発するのは悪手だと己を押さえ込んで、ヴィオは黙ってルートヴィヒに頭を下げて部屋を退出した。
廊下を歩きながら、拳を握りしめる。焦燥感が込み上げる。
ルートヴィヒの事だ。これで年が明ければ学院に戻されることは動かせない。それまでに、何としてもマイヤーの尻尾を掴まないといけない。
(約束したから──)
お守りがわりに内ポケットに入れたリボンを服越しにそっと撫でる。全部終わらせて会いに行くと、約束したのだから。
ソルヴェーグがディートリヒの遺体を伴い屋敷に帰ってきたのは、それから三日後のことだった。
事前に葬儀の段取りはフォルトナーが手配しており、二日後に葬儀はつつがなく執り行われた。
雪の降る日だと言うのに葬儀にはたくさんの人が参列し、ディートリヒという人間がいかに愛されていたかを屋敷の者に実感させた。
ただ一人。
参列者の中に最愛の妻であるマルガレーテの姿はなかった。
その日降り続いた雪は空気を白く、白く染め上げて。
あたかもマルガレーテの心にかかる霧のように、白くけぶっていた。