op.16 春風吹き渡る時(7)
ヴァイオリンの音が聞こえる。
生温い微睡みの中──。いえ、違う。私はソファに座っている。目の前で聴いたばかりの演奏に、驚いて目を丸くしている。あの人は私の様子を見て、悪戯が成功したみたいに笑った。
『もしかして、演奏を聴くのは初めて?』
『いいえ。お父様が呼ばれた楽団の演奏を何度か聴いた事はありますわ。でも貴方のような演奏をなさる方に出会ったのは初めてです。貴方の演奏はとても伸び伸びとしていて……そう、鳥。鳥が空を飛んだ時のように自由な振る舞いを思わせるのです』
『それは気に入っていただけた、と言うことかな?』
『えぇ、もちろん』
『そうだ。君も弾いてみてはどうだろう?』
『私ですか?』
作法は幾重にも習ったけれど、楽器を習った事はない。
大丈夫だよ、と笑って彼は私の手を取る。不健康な私の白い手を躊躇いなく握った彼の手は大きく、自分の手で包み込むようにヴァイオリンの弓を私の手に握らせる。
『ほら、構えて』
背中に感じる体温に胸が高鳴る。父とさえこんなに近い距離で触れ合ったことは記憶になかった。彼の操り人形みたいに出した音は、彼が奏でる音とはまるで違って、私はびくりと肩をすくめた。
『貴方の様には弾けませんわ』
そっと弦から弓を離すと、彼は面白そうに笑う。
『良いんだよ。上手くいかなかった事を楽しめば良いのだから』
『上手くいかなかった事を、楽しむのですか?』
『あぁ。君が生家で経験出来なかったたくさんの失敗をこの屋敷では経験してみたら良いんだ。きっとその内の半分くらいは楽しめる』
半分なのですか? と驚いて訊くと、彼は笑って『あぁ、そうだ』と頷いた。失敗するのはやはり少し悔しいからね、と。
ヴァイオリンの音色が、聞こえる。
ぼやけた視界には、ぼやけた天蓋の天井が映る。
ここはどこだろう。今は何日だろう。
あの人は、どこにいるのだろう?
繰り返す疑問は浮かんでは消えて、意味を為さずに意識に沈む。流れ落ちた涙は頬を伝って枕に落ちた。
マルガレーテ・フォン・ライヒェンバッハ=グロースライヒ。
皇家の遠戚であるグロースライヒ公爵の第二子として生を受けた彼女は、その病弱さゆえ幼い頃から屋敷の奥深くで周囲の目から隠すように育てられた。
一日のほとんどを私室で過ごしたマルガレーテの世界は狭く閉じられた物だったが、幸い母と父は他の兄弟妹と変わらずマルガレーテを愛した。
豪奢な屋敷の深奥、温かなゆりかごに抱かれて育ちながら、両親の愛情に応えるようにマルガレーテは与えられる淑女教育を完璧に呑み込んでいった。
マルガレーテの所作はその血を他所においても他の妹たちより余程洗練されていて、公爵夫妻は娘の病弱さをさらに悔やむことになった。それでいて彼女の気性は年齢を重ねても穏やかであり続けたのだ。
元気な時は生活に支障はないものの、些細な風邪を酷く拗らせて歩けなくなることもある。
体調に左右されるマルガレーテは満足に社交界に出る事も出来ず、その病弱さ故に良い縁談を探すことも出来なかった。
公爵は悩んだ。何しろ自分がずっと娘を守れるわけではない。
グロースライヒ公爵家にはマルガレーテ以外に六人の子がいたが、兄弟妹たちはみなマルガレーテに対して好意的ではなかった。
両親は子どもたちに平等に愛情を注いだつもりだったが、きっと兄弟妹たちからはそう見えなかったのだろう。私が死んだらあの子はどうなるのだろう、と悩んだ公爵が相談相手に選んだのが、当時のヴィッテルスブルク侯爵、ヴィオの祖父である。
『でしたら、私の息子に任せていただくのはいかがでしょうか?』
公爵は二つ返事でその提案を飲んだ。息子のディートリヒの人柄の良さは当時の社交界でも評判だったからだ。
縁談はトントン拍子で進んだ。
公爵がディートリヒに望んだのは自身の死後も娘を庇護してくれる事であり、元より妻としての扱いを期待するものではなかった。
マルガレーテが公爵家の娘である以上縁談という形であるが、ディートリヒが別の女性との間に子を為す事を公爵は初めから承諾していたのだ。
誰も彼も、実の親さえも、マルガレーテが嫡子を産めるとは思っていなかった。マルガレーテ自身もその異常さに何の疑問を持つ事もなく侯爵家に嫁いだ。
マルガレーテにとって生きるということは、いつだって与えられるものを受け入れるという事でしかなかった。
自分の人生なのに他人事で、まるでよく出来た舞台を見ているかのよう。
その事に疑問すら持たない、透明な自分。
ディートリヒとの結婚もマルガレーテの世界が公爵家の私室から、侯爵家の妻の部屋へと移るという、ただそれだけの事だと思っていたのに──。
『君はもう少しわがままになるべきだよ、マルガレーテ』
夫になったディートリヒはマルガレーテにそう言った。
『やりたい事は何でもやればいいし、欲しいものは口に出せばいい。君が何を考えて、何を望むのか、俺はとても興味がある』
ディートリヒがマルガレーテに与えたのは、彼女を囲う鳥籠ではなく外の世界へ繋がる扉だった。
それがマルガレーテにとって幸福だったのか不幸だったのか、今となっては誰にも分からない。
ただ閉じていた世界が広がった瞬間は、大きな衝撃だった。
まるでいきなり舞台の上に引き摺り出されたかのよう。
自身の人生の主役は自分でしかあり得ないのだという現実。
世界の音が鮮明に、クリアになる。
今まで見ようとしていなかった観客の反応ももう他人事ではない。
温かな拍手も、冷たい嘲笑も、全てが視界に入ってくる。
そして一度目に入れば、それが悪意か善意かをマルガレーテは正しく理解出来た。
マルガレーテが侯爵家に入って二年。二人の間に当然跡継ぎは生まれず、またディートリヒに愛妾がいる気配もない。
マルガレーテはお飾りの妻であり、同時に賢く物分かりの良い妻でなければいけない。夫の隣に添えられた上品な花である事が、自分に求められた役割だ。
『貴方、良いのですよ』
『何が?』
『私への義理はもう十分に果たしてくださっています。跡継ぎがいなければ、みな不安になります』
そう告げた時、今までになく胸が痛んだのを覚えている。マルガレーテの言葉に、彼は真面目な顔で考え込む素振りを見せる。
『いつかはルートヴィヒが結婚するだろう? 一人くらい男の子を養子に譲ってはくれないかなと思っているんだがそれだと気が長いかな。そうなると、そろそろ養子の目星をつけないといけないね』
『貴方、違いますわ。そうではなくて──』
貴方が子を為すことを皆が望んでいるのです。そう言おうとしたのに、言葉が出てこない。ディートリヒもマルガレーテが暗に自分以外の女性を指していることを察しているだろう。マルガレーテの瞳を覗き込むと、悪戯っぽく笑う。
『参ったな。妻に浮気を勧められる程俺には甲斐性がないのか』
メグ、と穏やかな声がマルガレーテの愛称を呼んだ。
『この先俺は君以外の女性を愛するつもりはないんだ。今までも話していたつもりだったけれど、信じていなかったのかい?』
それは、と口篭った。もちろん彼から注がれる愛情を疑った事はない。
だけどもうマルガレーテは無知ではない。
与えられるそれが当たり前のものではない事を知っている。
ディートリヒがマルガレーテに一心に注ぐ愛情を危惧している人達が存在することを知っている。生きている以上期待される役割があり、マルガレーテは彼に子を為す事を促さなければならない立場だ。そう周りから期待されている。
『だけど、跡継ぎが……』
『君はそうして欲しいの?』
穏やかな声に問われて、言葉に詰まる。適切な答えが分からない。どう答えればこの人の望んだ答えになるのだろう。
それ以上に、どうしてこんなにも息が詰まって、苦しくて──。
生きるということは、いつだって与えられるものを受け入れるという事でしかなかった。
降り注ぐ物は愛情だろうと憎しみだろうと、マルガレーテはそれを与えられるがままに受けいれた。
望まれることを望まれるままに振る舞った。
それが自身の役割だと思っていた。だけど──。
そうして欲しいの?
ディートリヒの問いかけへの答えは、正解を探すよりもずっと明確に自分の中にあった。抗っても抗いきれなくて、やがて透明な雫がマルガレーテの瞳から滑り落ちる。いいえ、と震える声が紡いだ。
『──いいえ、貴方』
ポロポロとあふれた涙は止まらなくて。
そんなマルガレーテの涙を拭うと、子供にするようにディートリヒがポンポンと頭を撫でてくれる。
『それなら良かった。……だが君をそんなに悩ませていたなら、本格的に考えないといけないな。後でソルヴェーグにも相談してみよう』
真面目な顔でそう言ったディートリヒを見上げる。
長いまつ毛が揺れているのを見て、この人の血を引く子はきっと美しい顔をしているのだろうと思った。
『──私に、産ませてください』
気付けば、そう口にしていた。ディートリヒが動きを止める。マルガレーテを見る目が驚きで見開かれている。
『……メグ、この件に関して君が責任を感じる必要は』
『違います、違うのです貴方』
今までずっと、自分では駄目だと思っていた。
誰もマルガレーテが後継を産むことなど望んでいない。
望まれないなら、それはしてはいけないという事だ。望んではいけないということだ。だけど──。
『誰もそんな事を望んでいないのは存じております。お父様も貴方も、みな私の為を想って決めて下さったのも分かっています』
滲んだ涙を今度は自分で拭って、夫の目をまっすぐに見つめる。
『だけどわがままになって良いとおっしゃったのは貴方です。たくさんの失敗を経験してみれば良いと貴方がおっしゃいました。半分は楽しめるから、と言ってくださったのです』
それなら、とマルガレーテは続ける。
『愛情だけじゃなく、責任も一緒に与えてください。それがお前の役目だとおっしゃって下さい。私は──』
貴方の妻に与えられる全てが欲しいのです。
絞り出すように発した言葉と共に、新しい雫が滑り落ちる。ディートリヒは黙ってマルガレーテを見ていた。
『……少し、時間をくれないか』
答えたディートリヒの声は、少し掠れていた。
ディートリヒが返事をくれるまで一ヶ月以上かかっただろうか。
彼の答えを待つ時間はマルガレーテにとって、今まで生きてきた中で一番長い時間のように感じられた。
だけど最終的に、ディートリヒはマルガレーテの望みを受け入れてくれた。
マルガレーテが待つ間に、ディートリヒは義父を説得し、公爵である父の了承を正式に得て、マルガレーテに答えを返してくれた。
そうして産まれたのが、ヴィクトルだ。
産まれた子が男の子であった事、ヴィクトルが母に似ずさほど大きな病気もせずに成長したこと。何より自分が子供を授かれたこと。それはマルガレーテにとって奇跡のような出来事だった。
十分だった。
幸せなはずだった。
奇跡の地続きは現実で、マルガレーテの身体が弱いのはずっと変わらない。
妻としての仕事は行えず、その皺寄せは玉突きのように夫にかかる。そうでなくとも多忙な彼が忙しいのは当然だった。
『奥様がもう少し丈夫でいらっしゃったら』
『正妻の跡継ぎがいるのでは、他の女性との間に子を作るのもね。ほら、旦那様はお優しいから……』
『ヴィクトル様はまだあんなにお小さいのに、求められる事が多くて見ていて気の毒になるわ』
妻としての責任を夫に求めたのは自分だ。だからこの声を聞くのも自ら望んだことだ。誰かに任せれば良かったのに、その場に立つと決めたのは自分なのだから。
きっと耐えられる。
だって貴方がいるのだから。
貴方が──。
アノ人ハ、イツ、帰ッテクルノダロウ。
会えない時間の方がずっと長い。
透明な壁の向こうに見ていた世界はいつだって淡く静かだったのに、踏み出した途端この世界は驚くほどに色濃く、五月蝿い。
美しいものを見た。 ──汚イモノヲ見タ。
美しい言葉を聞いた。 ──汚イ言葉ヲ聞イタ。
耳を塞ぐことも、目を塞ぐことも許せない。
舞台に立つ私の目の前にはたくさんの観客。彼らの言葉に頭痛がして、目の前が真っ暗になる。まるで重い緞帳が一気に落ちるように。
『兄上は、旅先で事故に遭って──』
そんなはずが無い。
だってヴァイオリンの音が聞こえるから。
今もずっと、屋敷のどこかで彼が弾いているから──。
(でも、この音は)
コノ音ハ、──ノ。
かすかに意識が揺れる。
だけどその続きの答えにたどりつくことはなく、マルガレーテの意識は再び眠りに落ちた。