op.16 春風吹き渡る時(3)
返事を待って執務室へ入ると、ルートヴィヒがあからさまに不機嫌な態度を隠さず椅子に座っていた。
窓の向こうにかすかに見える空は厚い雲に覆われていて部屋全体が薄暗く、空気は重い。
ヴィオを迎えたルートヴィヒの様子は最後に会った日と特段変わりはなく、ただ以前よりも増して不機嫌そうだった。
ルートヴィヒの隣にツンと澄まして当然のように立っている男は、現在ルートヴィヒに付いて領地の事を実質取り仕切っているだろうヨハネス・マイヤーだ。フォルトナーが追い出されてマイヤーが叔父の片腕として居座っているのは知っていたが、やはり実際に見ると気分が良いものではなかった。
ルートヴィヒがヴィオを見る目は予想していた通り厳しいが、その視線を正面から受け止めてヴィオは叔父に礼を取る。
「長く留守にして申し訳ありません、叔父上。先程無事戻りました」
「…………」
無言のままルートヴィヒはヴィオを見ていたが、左手で顎鬚を擦ると『それで』と重い口を開いた。
「俺の呼び出しを無視した事に対して弁解はあるのか?」
「フリッツ殿の事であれば、正式に叔父上への伝言をお渡ししたはずです」
「一度戻れ、と俺は言ったのだ。貴様の投げて寄越した返事は無視をしたと同義だろう!」
「ですがそのお陰で父上の消息が掴めたことも事実です」
「その事だがな」
フン、とルートヴィヒが鼻を鳴らす。
「確かにお前が兄上の消息を掴んだ事は事実だろう。だがその二日後にこっちのハンスが手配していた人間が同様に兄上の消息を掴んでな。ほんの二日だ。分かるか? お前が行ってようがいまいが、二日の差でこの屋敷にいながら此奴が兄上の消息を掴んだのだ。この意味が分かるか?」
「二日、ですか」
チラリとヴィオはマイヤーに目をやる。
マイヤーは澄ましたように、ルートヴィヒの隣に控えている。挨拶もしないのはこちらを明らかに下に見ているからだろうか。
(それなら逆に都合が良いんだが──)
本当に見下されているのであれば、つけ込む余地もある。
だが恐らくそうでは無いだろう。この態度は恐らくヴィオの神経を逆立たせる為のものだ。ルートヴィヒの発言を遮らないよう控えていると言えばそれで通るので、特段無礼でもない。
マイヤーから目線を外すと、落ち着いてルートヴィヒに向き直る。
「私が父上の消息を掴めたのは運が良かっただけです。私が父上に似ていたことと、父上のヴァイオリンが見分けられたこと。どちらが欠けても確証に辿り着くには至っていないでしょう。二日遅れて、と言うことでしたら丁度良いタイミングだったと思います。父の死亡を確認した医師も素性を把握した後ですから」
「何が言いたい?」
「そのままの意味です。マイヤー殿の手配した人間がその日リコルドに辿り着いたとして、父上の消息を見つけるのは困難だっただろうと思います。とはいえ、短時間でリコルドまでたどり着いたマイヤー殿の手腕が見事であることは事実でしょう。もう少し時間をかければ発見出来ていた可能性は否定しません。ただ確証を得るには、やはりソルヴェーグなり父上をよく知る人物が現地へ向かう必要があったと思います」
「……」
揶揄する訳でもルートヴィヒの言を完全に否定する訳でもないヴィオの言葉に、ルートヴィヒが毒を飲まされたような顔になる。
ひとえにヴィオを詰りたかったのだろうが、今の話でヴィオを批判するのは難しい。第一父親の遺体の引き取りの手配も全て、ヴィオと同行していたソルヴェーグが行っているのだ。
「父の不在の中、領地を治めて下さった叔父上には心より感謝しております。その叔父上の意思に反する行動を取ったことにはお詫びを申し上げます」
「……っ、それだけではない! 旅の最中孤児の娘を連れ歩いていたと聞いているぞ! 兄上の不在に義姉上の病状を分かって、そのような遊興に耽るなど貴様には侯爵家の後継たる自覚があるのか!」
リチェルの事を言われることは鼻から分かっているから動揺はない。
何を揶揄されているかは分かって心が逆立ちはするが、表にそれを出すことは決してなく、あくまで落ち着いた口調でヴィオは淡々と説明する。
「隣人の息女をしばらくの間同行させたのは事実です。その事実に関しては申し開きをするつもりもありません。彼女との関係については私が今ここで申し上げても、叔父上の信用にはきっと足らないでしょう。ソルヴェーグが同行していたので、帰還後に説明の機会を頂ければ。ただ私の旅の目的は父上の捜索で、その目的を疎かにした事はありません」
「隣人の息女? 孤児と聞いたが?」
「どこでそのような話を? フリッツ殿から聞いた訳ではないでしょう」
フリッツとベンがリンデンブルックに到着したのはヴィオが身を隠してからだ。
そしてマイヤーの手勢であった男達がヴィオ達の足取りを掴んだのもリンデンブルックだったと聞いている。
旅に出てしばらくの間マイヤーがヴィオに尾行をつけていたことは既に確信しているが、アーデルスガルトに着く前に尾行は撒いている。
恐らくはリンデンブルックに入るまで、実際リチェルとヴィオが一緒にいる所を目にした人間はいないのではないだろうか。
加えてフリッツに囚われた時もリチェルは何も話していないと言っていたから、サラを後見人に持つリチェルが孤児であった証拠などどこにもない。
苛立ったようにルートヴィヒがキツい口調で怒鳴る。
「それはここにいるハンスがお前の足跡を追って聞いたのだ! 孤児を買って同行させていると!」
「……それはおかしな話ですね」
その発言が出る事を待っていた。あくまでも口調は穏やかなまま、ヴィオは続ける。
「叔父上がお怒りになったのはその噂を聞いたからだと推測しますが、そもそも私は孤児を買ってなどいませんし、何より順序が逆では? 叔父上は一度は私が家を出ることを許したはずです。その私の跡を追うようマイヤー殿に命じられたのですか?」
「俺がそんな事をする訳が……!」
「勿論叔父上がそのような真似をするはずがない事は存じております」
多少気は短いが叔父は裏からコソコソと画策する事を嫌う潔癖な人柄だ。
一度許して送り出したヴィオの跡をつけるなど姑息な真似をする訳がない。
ただ送り出した甥が孤児の娘を連れ歩いているという情報だけを聞いて感情が先に立ち、そもそもマイヤーがそれを知っていること自体がおかしいことにはきっと気付かなかったのだろう。
「まぁまぁ、ルートヴィヒ様。一度落ち着かれてください」
思っていた通り、マイヤーがルートヴィヒとヴィオの間に入った。その事で確信する。この男は『ヴィオがリチェルを買った』という証拠など持っていない。
「ヴィクトル様も話のすり替えが大層上手くていらっしゃる。私はいつだってルートヴィヒ様の助けになるよう、先を見越して動いているだけですとも。孤児とは言いましたが、はて、どこかで行き違いがあったのやもしれません。不名誉な事を申し上げて癇に障ったのなら申し訳ございません」
状況が状況なら不敬で叩き出したくなる言い草である。ルートヴィヒの御前という事もあり、今この時点でヴィオもマイヤーと言い争うつもりはなかった。それを見越しての発言であれば、この男はやはり知恵が回る。
「とにかく貴様は一度その身を振り返って反省しろ! しばらく屋敷の外へ出る事を禁ずる!」
「叔父上がそうおっしゃるならそのように。ただ一つだけ申し伝えたいことがございます」
「何だ……!」
「謹慎が解けたら私も侯爵家の事に専念します。母の病状もよくない中、学院に戻るつもりはもうありませんので、今後はそばで勉強させて頂ければ」
ヴィオが静かに告げた言葉にルートヴィヒが言葉に詰まった。
本来、ディートリヒの後継はヴィクトルだ。
それは周知の事実であるし、ルートヴィヒも納得していた父の意向でもある。ここで断ることはその決定に叛意があると言うようなものである。ルートヴィヒとて迂闊なことを口に出せないのは明白で、うむ、とどこかはっきりしない様子で頷く。
それから、とヴィオは視線を横に逸らす。
「マイヤー殿」
「……何でしょう」
「侯爵家の人間として、父の不在中叔父上を支えて下さった貴方の献身に感謝を申し上げる」
「ヴィクトル様の口からそのような言葉を頂けるとは、光栄でございますとも」
一瞬の沈黙の後、マイヤーがにこやかに言葉を返した。
笑っていないその瞳をまっすぐに見返し、もう一度ルートヴィヒに退室の挨拶をすると、ヴィオは執務室を後にした。