op.16 春風吹き渡る時(2)
ヴィッテルスブルク。
国境を内包する辺り一帯を広く領邦として治めるライヒェンバッハ家が本邸を置く地である。
険しい山々と美しい湖に囲まれた土地は、その景観とは打って変わり厳しい冬と共にある。
屋敷に通じる正門を抜けて、凍った湖面を眼下に馬車は険しい坂を登っていく。
白く染まった木々の間から、一際立派な建物が尖塔を覗かせていた。ライヒェンバッハ家の本邸であり、ヴィオが生まれ育った屋敷だ。二ヶ月ぶりだというのに、懐かしさはあまり感じなかった。それよりも取り掛かるべき事案が多くて、早く帰らなくてはと心が急かす。
馬車から降りて、朝の雪かきから新しく積もっただろう雪を踏みしめるとサクリと靴底の雪が音を立てた。
視界に入る屋敷の外壁はどこか薄暗く、それは本来いるべき人物の不在を感じさせる。もう一度屋敷を見上げてから、ヴィオは迎えに出て来ていた使用人の中心に立つ人物に改めて目を向けた。
「お帰りなさいませ」
折り目正しく、隙のない礼を取る青年にヴィオはかすかに頬を緩める。
後ろに撫で付けたブロンドも眼鏡の奥にある冷静な瞳も見慣れたものであるのに、屋敷とは違いこちらは存外懐かしい。
「あぁ。留守中苦労をかけたな、フォルトナー」
ハインリヒ・フォルトナー。
ソルヴェーグが育てた自慢の後継、ヴィオの父であるディートリヒに仕えていた侯爵家の執事だ。
歳は今年三十になったところで、ヴィオが幼い頃に一時教師の一人として側に付いていた時期もある。ヴィオの言葉に一瞬フォルトナーの青い瞳が意外そうに瞬いた。だがそれも一瞬で、フォルトナーは顔を上げると『ご無事で何よりです』と御者と同様の台詞を静かに口にした。
そして荷物を下ろす御者と出て来ていた使用人に手短に指示を出す。
「そっちはメイド長に渡してくれ。ヴァイオリンは、……一本は旦那様のものだな。ヴァイオリンは二本ともヴィクトル様の私室へ運ぶ。──それで構いませんか?」
「あぁ」
話を振られて頷く。元々ヴィオの荷物はそう多くない。
手短に指示を終えると、フォルトナーは『こちらへ』とヴィオを玄関へ促した。
「長旅でお疲れでしょうが、まずはルートヴィヒ様へ帰還の挨拶を。すぐに顔を見せるようにとのことです」
「元からそのつもりだ。叔父上は執務室に?」
「えぇ。ただその前に、まず御身の帰りを待ち望んでいた者たちに顔を見せて頂ければと思います」
小声で伝えられた含みのある言い方にヴィオはかすかに眉を上げる。
だが浮かんだ疑問はすぐに氷解した。フォルトナーが扉を開けると、侯爵家に仕える使用人たちが全員とは言わずとも大勢、一堂にホールに介していたのだ。お帰りなさいませ、と告げられた見事な唱和に思わずヴィオも目を丸くする。
「……随分と大仰な出迎えだな」
父の時でもこんな光景は見たことがない。
フォルトナーに視線をやると、涼しい顔で『みな自主的に集まっただけですよ』と執事は答える。
「数ヶ月ぶりの主人の帰還ですから。心待ちにしていたのは当然かと」
「…………」
澄ました声で返った返事に、この執事の意図がようやく読めた。
自主的に集まった訳がない。
間違いなくこれはヴィオの叔父であるルートヴィヒの客分、ヨハネス・マイヤーに対する牽制だ。予想はしていたが、この数ヶ月で余程鬱憤が溜まっているらしい。
居並ぶ使用人の前で軽口を叩くわけにもいかず、心中で苦笑するとヴィオは周りに視線をやる。
「出迎えご苦労。だがみな忙しいだろう。もう仕事に戻ってくれ」
そう口に出して、自分でも意外に思う。
自然と父がしていたような柔らかな声が滑り出た。フォルトナーも驚いたように目を丸くしたが、すぐに使用人たちに持ち場に戻るよう促す。
と、ほとんどの使用人が持ち場に戻る中で古参のメイドが一人、歩み出てヴィオに礼を取った。
「よくご無事でお帰りくださいました、ヴィクトル様」
「エレオノーレ」
ヴィオに歩み寄ったのはこの屋敷のメイド長だ。
感極まったように潤んだ瞳に流石に罪悪感を覚えて『長く空けてすまない』と素直にこぼす。
エレオノーレはライヒェンバッハに長く仕えているメイドで、ソルヴェーグの妻でもある。
自然幼い頃からヴィオも面倒を見てもらっており、どうにも頭が上がらない存在だった。ソルヴェーグとは異なりまだ現役で働いており、父の不在や母の病状の悪化が重なる中、彼女の心労も察して余りある。
「いえ、いいえ。ヴィクトル様が無事お戻りくださっただけで十分です」
お風邪を召したりはされていませんか? と尋ねられて苦笑をこぼす。
母と違いヴィオはそんなに頻繁に病気をしなかった事は知っているだろうに。大丈夫だ、と返事をすると、安堵したようにエレオノーレが柔らかく微笑む。
「取り急ぎルートヴィヒ様に面会しなくてはなりませんね。フォルトナー。ヴィクトル様も戻られたばかりなのですから、先に衣服を整えた方が良いのでは?」
「仰ることは分かりますが、何より先にとの仰せなんです」
「そうですか……」
フォルトナーの言葉にエレオノーレが肩を落とす。気遣ってくれていることが分かるから『俺のことは気にしなくていい』と口に出す。
「俺も叔父上とは話がしたかったら。エレオノーレにもきっと苦労をかけただろう。引退したソルヴェーグをずっと俺の事情に付き合わせてしまってすまなかった」
「……」
「どうかしたか?」
気付けば黙ってエレオノーレがじっとヴィオの方を見ていて、首を傾げる。そういえば先程同じようにフォルトナーもヴィオの方を見ていた気がする。
「ふふ、いいえ」
だがエレオノーレは頬を緩ませて嬉しそうに笑うだけで、はっきりと答えはしなかった。
「あの人なら良いんです。根が仕事人間だから、きっと家にいたら落ち着かずに考えを拗らせて、逆に胃を痛めてしまっていたんじゃないかしら。むしろまだ御身のお役に立てる事があって喜んでおりますわ」
クスクスと笑いながら、皺のついたヴィオの衣服を軽く整えて『さぁ』とエレオノーレがヴィオを促す。
「ルートヴィヒ様がお待ちです。フォルトナー、この先はよろしく頼みますね」
「はい」
頭を下げたフォルトナーに微笑みかけて、エレオノーレが持ち場に戻っていく。
「お前も付いてくるのか?」
「いえ。恐らく私は執務室には入れないかと」
執事は執事の領分の仕事をするべきだというルートヴィヒの意識は思っていたよりも顕在化しているのだろう。
十代からソルヴェーグに付いて、その引退後は父と共に領地の経営を担ってきたフォルトナーからすると、やるかたない気持ちだろうに、その感情を一切表情に出す事なく冷静に口にした執事に『分かった』とヴィオは短く口にする。
「詳細は後で部屋で聞くから、今は下がってくれて良い」
「──はい」
ヴィオの言葉にかすかにフォルトナーが笑う。
すでにヴィオに伝えたい情報は整えているだろうが、必要がないのにヴィオに付くのは時間の無駄だ。やる事など掃いて捨てるほどあるだろう。
(出来れば先に詳細を聞いておきたかったが、それは贅沢な望みだな)
まずはルートヴィヒに会うことが先決だ。