op.16 春風吹き渡る時(1)
覚えている父との一番古い記憶は、冬の記憶だ。
窓から見える真白の山々と凍った湖。春や夏には自由を謳歌していた緑の木々が眠りについたように色を無くす。その様子はまるで静かに寝息を立てているかのように安らかで、吐き出した息もその情景の一部のように滲んで消えた。
あたりは静かで、雪の舞う音が聞こえるような気さえする。
『美しいだろう?』
ふと落ち着いた声が静謐な空気に割り込んだ。自分を抱き上げた父の顔を仰ぎ見て、ゆっくりと頷く。息を吸うと喉がチリチリと焼けるように感じる。だけどキンと冷えた空気はどこまでも澄んでいて、心地よい。
『これからお前が守っていく地だよ』
その言葉に、ヴィクトルはもう一度遠くまで見える白い景色に目を凝らす。
うつくしい、という言葉をその時理解していたかどうかは覚えていない。
何も分からないまま父の言葉に同意しただけかもしれない。
ただ、その後同じ場所から幾度も見下ろすことになるその景色の中で、一際鮮明に残るのは幼い頃父と見た光景だった。
守っていくのだ、と父は言った。
治めるのだとも、お前のものになる、とも言わなかった。その言葉の意味を理解するにはまだヴィクトルは幼く、だけどどうしてか、決して忘れることはなく、胸の中に残っていた。
(二ヶ月ぶり、か……)
分厚い雲の隙間からかすかに差し込む光を仰ぎ見て、ヴィオは息をつく。吐き出す息は真白に染まり、喉を通る空気は凍てついたように冷たい。二ヶ月前、家を出た時にはまだ葉を広げていた駅前の木々の枝も今は雪に覆われていた。待っていた馬車に歩み寄ると、見覚えのある御者がそっと頭を垂れた。
「お帰りなさいませ、ヴィクトル様」
父の訃報はまだ末端の使用人の耳には入っていないだろう。
だけど人の口に戸は立てられない。正式な通達はまだとはいえ何かしらは耳に入っているだろうに、御者の態度は主人に対する敬意以上の感情を感じさせない、礼を尽くした態度だった。だから──。
「あぁ。寒い中苦労をかける」
荷物を手渡しながらさり気なくそう声をかけると、御者が一瞬肩を震わせて『いえ』と静かに答える。
「──ご無事でお帰りくださって、何よりです」
頷いて、馬車に乗り込む。静かに動き出した馬車の窓から雪に覆われた地を目で追って、ヴィオはかすかに瞑目する。
『これからお前が守っていく地だよ』
はい、と心の中で頷いた。
(──はい、父上)