op.02 魔法使いの弟子(2)
ヴィオと共に街に出て、リチェル達がたどり着いたのは小さなカフェだった。
リチェルにとってはこういったお店に来ること自体が初めてで、物珍しそうに辺りに視線をやる。テラス席に通されると、慣れた様子のヴィオをチラリと見て自分も大人しく席に腰を下ろした。
前に座るヴィオは来る途中に買った新聞に目を通していた。ヴィオはリチェルと会話がなくても特段気にした様子がなく、そういう性格なのだなと理解してリチェルもあまり気にしない事にした。気付いてはいたが、きっと元々あまりしゃべらない人なのだ。
初めは慣れない場所で緊張していたが、運ばれてきたコーヒーを一口飲むとふっと身体から力が抜ける。
思えば昨日から怒涛だったから、ずっと身体に力が入っていたのだろう。
(……夢みたい)
昨日は疲れて椅子で眠ってしまったはずなのに、早朝目を覚ました時にはベッドの中だった。
屋敷で受けた傷は昨晩宿に着いた時に、宿の人が手当をしてくれたし、何よりベッドで眠ったからだろう。ヴィオに言ったことは嘘ではなく、随分と身体は楽になっていた。
ただ本来主人と同等の場所で眠るなど許されるはずもない。
幸いベッドは二つあったしヴィオも隣の寝台を使っていたからホッとしたが、運ばせてしまった申し訳なさとヴィオの寛容に感謝しながら、今朝は起こさないように部屋の片付けをした。
だけどヴィオはリチェルを雇ったわけではない、と言ったのだ。
それどころか呼び捨てでいいとか敬語を使わなくて良いとか、リチェルにとっては戸惑うことばかりだ。
こうして並んで食事を取っていても、地に足がついていないような心地がする。
当たり前のことだが、カフェで出してくれるパンは冷たくも固くもなかった。焼き上がったばかりのパンはリチェルの今置かれている状況みたいにふわふわだ。
「口に合わないか?」
「え? ち、違います!」
ぼうっとしていたのだろう。
いつの間にか新聞から顔を上げたヴィオが、カップを持ったまま黙り込んでいるリチェルを見ていた。慌てて否定して、敬語はいいと言うのに使ってしまったと気付いて口を押さえる。
「とっても美味しいです。ありがとうございます……」
だけどやっぱり出てくる言葉は敬語になって、尻すぼみになる。自分なんかがこの人に普通に話して良いのだろうか、とぐるぐると思考が回る。
「それはお気に召していただいて良かったです」
と、リチェルの迷いを遮るように横から女性の声が聞こえた。ハッとして顔を上げると、店員さんだろう。制服を身につけた女性が笑っていた。丁寧で穏やかな口調とは裏腹に表情は溌剌としている。
「良かったらコーヒーの追加もして下さいね。この店のオーナー、元々ウィーンでお店を開いていて豆の種類もとっても豊富なの。テラス席のあるカフェもまだベルシュタットでは珍しいんですよ」
「そうなんですか?」
キョトンとして問い返したリチェルに、パッと女性の顔が華やぐ。
「やっぱり! 可愛らしいお嬢さんね。綺麗な声が聞こえたと思ったのに、どう見ても男の子が座っているものだから不思議に思ってたの。ごめんなさいね」
慌てて口元を押さえたリチェルにクスクスと店員の女性が笑う。
「道中で服がダメになってしまったから、一時的に俺のを着てもらっているんだ」
サラリと横からヴィオが口を出す。店員は特に怪しむでもなく『そうだったのね』と納得して、ふとヴィオの背後に目を止めた。
「あら貴方、もしかして演奏家さん?」
ヴァイオリンケースに気付いたのだろう。ヴィオが首肯すると、まぁ! と女性が手を合わせた。
「ということはもしかしてこの子はお弟子さん?」
「いえちがい……」
慌てて否定しようとしたリチェルの声は店員には聞こえていないようだった。キラキラと目を輝かせて、テーブルに手をつくと勢い込んでヴィオに頼み込む。
「ねぇ、もし良かったら演奏を聞かせてくださらない? このお店のオーナー、私の主人なのだけど、首都じゃ素晴らしい演奏をたくさん聴いてきたっていつも自慢ばかりするのよ。この町に劇場はないでしょう? 私もきちんとした演奏って聞いたことがなくて!」
少女のように目を輝かせて演奏をねだる店員にヴィオがたじろぐ。その表情に戸惑いを読み取って、リチェルはオロオロと二人の間で視線を迷わせる。
恐らくヴィオは困っている。
助け舟を出したいのだけれど、リチェルには出し方が分からない。この女性に悪気は全くないのだ。
ヴィオもそれを理解しているからか迷っているようで、そのヴィオに『朝食代、演奏のお代金と言う事で良いから!』と店員が念押しする。
(どうしよう……、ヴィオさん困ってる……)
だけど同時に不思議にも思う。以前町の子どもにヴァイオリンを聞かせたヴィオに躊躇いはなかった。小汚いリチェルのような使用人にも分け隔てなく演奏を聴かせてくれたヴィオが、今演奏する事に迷っているのはどうしてなのだろうか。
「…………分かった。一曲だけなら」
やがて根負けしたのかヴィオは立ち上がると、ヴァイオリンケースを開く。実物を間近で見て、それだけで店員が感嘆の声を漏らす。
「素敵! 都会のカフェでは昼下がりに演奏会を開いたりする所もあるんでしょう? うちでも一度やってみたかったの。演奏家さん、どうぞこちらにいらして」
諦めたのかヴィオは案内されるがままに、店員についていく。すまない、と目線だけでヴィオがリチェルに伝えてくるが、とんでもないと首を振る。ヴィオの演奏が聞けるのはいつだって嬉しい。
カフェで食事を取っていた客も何が始まるのかと、ヴィオの方に視線を向ける。その注目に何ら気負うでもなく、ヴィオは周りを見て演奏家が行うように一礼をすると、ごく自然にヴァイオリンと弓を構えた。
誰も分からない。
この人がとてもすごい演奏家なのだと。この場でそれを知っているのはリチェルだけだ。
演奏は、子どもが跳ねるような軽快なメロディーから始まった。
軽やかでテンポの速い曲だった。ともすれば音を殺してしまいそうな疾走感。だけどその一粒一粒が明瞭で多彩だ。
リチェルでも聞いたことがあるメロディーだった。きっとあの楽舎で誰かが弾いていたのだろう。
メロディーは明るさと軽やかさを伴ったまま、優美な旋律を奏でていく。どこか耽美さを滲ませて、切り替わるように冒頭のメロディーが戻ってくる。
どうしてだろう。
ヴァイオリン一本からこれだけ多くの音が鳴るのが、リチェルには不思議で仕方がない。
息をするのも忘れて奏でられる演奏に聴き入った。
時間は恐らく五分にも満たなかっただろう。やがて音の粒は空へと駆け上がり、最後の音を奏でた。
一拍おいて、弾けるような拍手が巻き起こる。
ブラボー! と声が飛んだ。
カフェに居合わせた客からすれば突然始まったささやかな演奏会だが、彼らは幸運だ。表情を見れば分かる。
食事をしていた人々が席を立ってヴィオの演奏を口々に褒めそやすのが、リチェルにも何だかとても嬉しかった。ヴィオに演奏を頼んだ店員などは感動して彼の手を掴むと盛んに何かをまくし立てている。
「おかえりなさい」
席に戻ってきたヴィオに声をかけると、ヴィオはあぁ、と小さく笑って席に座った。
後ろの客が話しかけてくるのに一言二言ヴィオが答える傍ら、先程の店員さんが『冷めてしまったから』とコーヒーを取り替えてくれた。
ただ座っていただけのリチェルの分まで取り替えてくれて恐縮した。しかも取り替えられたコーヒーにはこれでもかと泡立てたミルクのようなものがのせられていた。
「えっと……」
「飲んだことない? これホイップクリームよ。そのまま食べちゃっても良いけど、スプーンで溶かしながら飲むと美味しいわ。甘いもの嫌い?」
「いえ! でも、その……」
演奏をしたのはヴィオだ。リチェルまで何かを頂くのは申し訳ない。困ったようにヴィオを見ると、軽く笑って頷いた。貰っておけば良いということだろうか。
「ありがとう、ございます」
「いえいえこちらこそ。あんな素敵な演奏を聴かせていただいたんだもの。驚いちゃったわ。えぇ、本当に……」
まだ余韻が抜けないのかほぅ、と店員が息をつく。
帰り際に何人かの客が『また聴かせておくれよ』とヴィオに声をかけていく。その一つ一つに言葉は少ないが、丁寧に礼を返していくヴィオはこういった事には慣れているようだった。
声をかけてくる客も少なくなり、ヴィオとリチェルも席を立とうかという頃だった。
「失礼」
頃合いを見ていたのだろう。一人の紳士がヴィオに話しかけてきた。落ち着いたグレーのシルクハットから明るいブラウンの髪が覗く。
「とても素晴らしいモーツァルトだった。久しぶりに胸が躍るようでした。一言お礼を伝えたくて声かけてしまいましたが、構いませんか?」
「ありがとうございます」
折り目正しく礼を返したヴィオが顔を上げると、一瞬紳士は目を細めた。
「君は……」
何か口にしかけて、だがすぐに勘違いだったのか失礼、と口を閉じた。
「君の演奏は素晴らしかったし、楽器も君の腕に良く応えるとても良いヴァイオリンですね。丁寧に手入れもされている」
紳士の言葉にリチェルは首をかしげる。近くで見た訳でもないのに、そんな事までわかるものなのだろうか。紳士は少し悪戯っぽく笑うと、付け加えた。
「それと余計なお世話かもしれませんが、楽器店は北通りの方にありますよ」
これにはヴィオが驚いたように目を瞬かせた。それから今度は苦笑混じりに礼を言う。
「貴方のように耳の良い方がいらっしゃるから、演奏しても良いものか迷ったんです」
「ふふ、大丈夫です。ほとんどの方は気付きもしないでしょう。朝から良い演奏がきけた。またお会いできれば光栄です」
「こちらこそ」
軽くヴィオと握手をして紳士は去っていった。そろそろ出ようか、と声をかけられてリチェルもヴィオに続いて立ち上がる。
この町を出る前にもう一度演奏しに来て、と去り際に店員がヴィオを拝み倒していた。勢いに圧倒されながらもそれを受け入れるヴィオは、やはり優しい人なのだとリチェルは思った。