op.15 悲しみと涙のうちに生まれ(15)
イングリット・フォン・ハーゼンクレーヴァーは、ハーゼンクレーヴァー家の長女として生を受けた。
イングリットには五つ歳の離れた兄が一人おり、家は兄が継ぎイングリットは年頃になれば順当に嫁にいくはずだった。事情が変わったのは、当主となった兄が事故で亡くなってからだ。
早くに父を亡くしていた為、兄は若くして家を継いだ。兄自身が結婚に対して消極的だったため相手はまだ決まっておらず、十四歳になったイングリットと母が突然取り残されたのだ。
当主の座が空白になったハーゼンクレーヴァー家は、遠戚による後継争いで荒れた。まるで嵐のように容赦なく。誰も家族を失ったイングリットや母の事など思い遣ってくれなかった。
自分を守っていた家という基盤が、恐ろしいほど脆いものであると知った日。
だけど同時に、その家がイングリットが持つ唯一の武器でもあると自覚した日でもあった。
(守らないといけない)
この家を守れるのはきっと自分だけだと、その時理解した。
揉めに揉めた跡目の問題は、結局イングリットが婿を迎える形で収束した。
当主の座は結婚相手に、だが決して結婚相手の親族を伯爵家の血筋としては認知しない、あくまで血筋はイングリットから連なるものしか認めないという証文まで取らせての物だった。
慌ただしく進んだ縁談で、婚約者であるユリウスと初めて挨拶をしたのは式当日だった。まだ十四だったイングリットより十も年上で、これからお飾りの当主であると後ろ指を指されることになる夫はとても落ち着いていた。
『緊張している?』
一目で気を張っていることを見抜かれて、イングリットは一瞬狼狽えた。
『これからよろしく、イングリット』
イングリットの目の前に跪いた夫が差し出した手をおずおずと握り返す。これから夫となる人からは、お日様をたくさん浴びた大きな木の香りがした。
ユリウスは政治には不向きな人だった。
良く言えば大らかで、悪く言えば大雑把。人を疑うことを嫌う人だったから、神経を尖らせるのはいつだってイングリットばかりだった。
だけどきっとそれで良かったのだ。
『氷の貴婦人だなんて呼ばれているんだって? 笑うと可愛いのに君は少しも笑わないから』
『構いません。ヘラヘラしていると言われるより、恐れられた方が余程やりやすい。好かれる役が必要ならそれこそ貴方が担ってくださればいいのです』
実際イングリットの気性は凍てついた冬のようだと周りから言われていた。
イングリットも冬は嫌いだったからちょうど良い。若い女である時点で馬鹿にされるのに、これ以上舐められてはたまらない。
『だけど冬には聖誕祭があるよ、イングリット』
『え?』
『厳しい寒さに耐え抜くから、温かな春を祝う事ができる。それなら春の恵みがありがたいのは君のお陰だね』
『またそんな屁理屈を言って……』
だけどその理屈はいつだって、イングリットの心を守るものである事を良く知っていた。
エリーは知らないけれど、アドベントリースはイングリットではなくユリウスが好きだったのだ。毎年庭や家の中を飾り付けて『楽しいだろう』と笑うユリウスは、きっとずっと、冬を嫌うイングリットを気にかけてくれていた。
愛情深い人だった。
リーゼロッテが産まれた時も誰よりも喜んでくれた。
第一子が女の子だったことに落胆を隠せなかったイングリットに、『こんなに可愛い娘を産んでくれてありがとう』と言葉にして伝えてくれる人だった。
リーゼロッテが子供の頃イングリットを嫌いにならなかったのは、きっとイングリットの代わりにユリウスがずっとリーゼロッテの心を守ってくれたからだ。
たった一人の娘に愛情を注いでくれたからだ。
『イングリット。君は不器用で、私はそんな君を愛しているけれど、同時に心配でもある』
ユリウスは亡くなる前、そんな事をイングリットに伝えた。
『君はもう少し、自分の心を認めてあげなさい。悲しみも喜びも慈しみも全て、君の心から起こるものだよ。どれだけ許せなくても、己の心を否定し続けるには限度がある。それを否定することは君の心を傷つけて、いつか取り返しの付かないほど、大切なものを傷つけてしまうよ』
『……傷つく心など、私にはもうありません』
震える声で答えた。
心などどこかへ置いてきた。イングリットが温もりを感じるのは、そばにいるユリウスが温かいからだ。その温もりさえもう失おうとしている。イングリットの中にはもう何も残っていないのだ。
だけどユリウスは静かに首を振った。
『どうか覚えていて。イングリット。君はちゃんと──』
「お祖母様、今何とおっしゃいましたか?」
執務室に呼んだエリーが、イングリットの言葉を聞いて呆然と問いかけた。
その声が動揺しているのが分かって、ため息をついた。
策を弄したのであれば失敗することも当然起こり得る事だろう。それが顔に出てしまうのではまだまだだ。
知らないふりをしたまま、イングリットはもう一度繰り返す。
「ですから、もう体調は良くなりましたから、臨時で来ていたマリアには下がってもらいなさいと言ったのです。元々ライヒェンバッハ子爵と共にいた知人の方でしょう。これ以上留めおくのは申し訳が立ちません」
「だ、って……。でも、お祖母様──!」
「エリー」
語気を強めて名前を呼んだ。それだけでエリーは黙った。こちらを見る目が動揺で揺れている。
「私は下がってもらいなさい、と言ったのよ。この意味が分からないほど、お前は馬鹿ではありませんね?」
「……っ」
エリーが息を呑んだ。
何事かを言いかけて、だがエリーは賢明に口をつぐんだ。うつむいて、震える声で了解する。
「わかり、ました……」
いつまでに? とかすれた声が問いかける。
「明日には下がってもらって構いません。随分世話をかけたのだし、帰りの馬車はお前が手配しておあげ」
「……はい」
エリーが頷いて、うなだれたように部屋から下がった。
その後ろ姿を見て、これで良かったのだとイングリットは息をつく。きっと誰にとっても、この結末が一番良い。