op.15 悲しみと涙のうちに生まれ(13)
(歌?)
階下から流れてきたメロディーにエリーはふと足を止めた。今日はバルバラが外に出ているから少しだけリチェルの様子を見に来たのだが、部屋にいなかったから引き返そうとしていたところだった。
流れてきたのは、エリーも知っている有名なクリスマスキャロルだ。
元々ドイツ北部に伝わる民謡で、一九世紀に入ってから新しく詞を付けられ親しまれている。元々は恋の歌だったという。
明るくシンプルなメロディーを、柔らかなソプラノが紡いでいく。その声がリチェルのものであるとすぐに分かった。
リチェルが歌を歌うと言うことは知っていたものの、実際に聞いたのは初めてだった。歌声に釣られるように廊下の窓を開けると、冷たい空気と一緒に粉雪が舞い込んでくる。同時に先程より鮮明になった歌声に耳を澄ました。
美しい歌声だった。
流れてくる美しい音色に、目を細める。透明で優しい歌声は、そのまま歌い手そのもの心を表しているようだ。
「────」
心の柔らかいところに沁み入るような歌声は温かい。しかし同時に泣きたくなるような懐かしさを含んでいた。
(きっと……)
きっと、リチェルは少しも気付いていないのだろう。
今までリチェルがただの一度もイングリットのことを悪く言わない事に、エリーがどれだけ救われているのか。
孤児院に預けられていたのだから、リチェルは自分が捨てられたことを知っている。
そう指示をしたのがイングリットだと言うことも知っているようだった。
それなのにリチェルはイングリットに対しての恨み言を口にしたことがない。
リチェルの口から出るのが純粋にイングリットを案じる言葉ばかりなのは、本当に奇跡みたいな事だった。
イングリットは確かに苛烈な人間だ。
きっと彼女の行いで傷ついた人間は一人や二人ではなく、その一人にリーゼロッテが含まれていることだって事実だ。
だけどエリーは、イングリットを嫌いにはなれない。
小さな頃から当主になる為の教育を受けて育ち、早くからイングリットに付いて回っていたエリーには、祖母がどれ程苦労して家を支えてきたのかが分かっていた。
ハーゼンクレーヴァーの直系は元々イングリットで、祖父であるユリウスは入り婿だ。きっとイングリット自身も幼い頃から家を存続させる責任を教え込まれて育ったに違いない。
ユリウスが他界した時リーゼロッテはまだ十二歳で、イングリットが当主として立つしかなかった。女性が表に立つことがどれだけ難しいかは想像に難くない。
きっと周りには軽んじられただろう。
女というだけで足下を見られる事は珍しくもなく、男であれば寛容と見られることが、女であれば甘さだと嗤われる。
周りを牽制するには、時に容赦のない判断を下す事も必要になる。
自らを律し、心を殺し、時に残酷にすらならなければそこに立ち続けることは出来なかったはずだ。
その道程を尊敬しこそすれ、嫌うことなどエリーにはあり得ない。
息子に恵まれなかった以上、一人娘であるリーゼロッテに後継を産む事を求めるのは当然の事だとエリーは思う。イングリットの立場では、どうあっても娘にそれを求めざるを得なかった。
(だけど──)
だけどエリーは、同時に母の事も愛していた。ずっとそばで見ていたから、母の気持ちも分かるのだ。リーゼロッテの生来の気の強さを熟知していたからか、それとも身内に対してだからか、イングリットのやり方は娘に対して容赦がなかった。
それがどれ程母を損なったのか、分からない訳じゃない。
『──さま!』
耳に届く旋律は、どうしたってクリスマスの賑やかな町の風景を、遠い日の記憶を掘り返す。
『母様、どこにいるの──! 母様──!』
十になった頃、気分転換にと母をお忍びで町に連れ出した事がある。
十二月の街並みはクリスマスの飾りで彩られて、どこも華やかだった。そこでエリーはリーゼロッテとはぐれたのだ。焦燥感にかられて必死で母を探して町を走りながら、同時に『このまま見つけない方が良いのではないか』と思っている自分もいた。
母に、ずっと大切に思っている人がいた事を、エリーは知っていた。
エリーの前では決して母はそれを口にしなかったけれど、その人の様子を定期的に母が調べさせていたことを、幼い頃隠れて聞いて知った。
『どうして、出来ないの⁉︎ 薬を届けてほしいって、ただそれだけなのに──!』
『ご様子をお教えするだけなら出来るのですがそれ以上は……、すみません』
『どうして──!』
母はいつだってエリーの前では笑顔で、全力でエリーを愛してくれていて。
だけどその実、母の幸せはきっとここにはないのだと思っていた。
(僕が──)
探さなければ良いのだ。
エリーが探すことを止めたら、母は自由になれるかもしれない。
愛する人の所へ行けるかもしれない。
(僕が、いるから──)
イングリットがリーゼロッテを閉じ込めていたという噂は、実際のところ真実とは程遠い。
リーゼロッテが屋敷にいたのは彼女自身の意思だった。
エリーを産んで以後イングリットは娘に干渉せず、リーゼロッテの望みのほとんどを許していた。きっと祖母はリーゼロッテが今度屋敷を飛び出したとしても、連れ戻そうとはしなかったのではないのだろうか。
だからリーゼロッテが屋敷にいたのは母自身が決めたことで、自由な母を縛りつけたものがあったとすれば、それは間違いなくエリーの存在だ。
早く大人になりたい、とどれ程願っただろう。
エリーが自立出来れば母を自由に出来るのだと願っても、時間は残酷な程平等で。遅々として進まなくて。
大人になれたら、こんなに必死で母を探す事はないのではないのだろうか。母がいない事を寂しいと思う弱さも、無くなるのではないだろうか。
『母様──!』
『エリー!』
広場で見つけた母は必死でエリーを探していた。
人混みをかき分けてエリーを抱きしめてくれた母の体温はとても温かくて、上がった息に、どれ程必死に探してくれていたか想像出来て。
『……っ、ごめんなさい』
『良いの! 母様が悪いの! ごめんねエリー! 良かった……っ、見つかって……っ!』
そう言ってまたエリーを抱きしめてくれた母の体温に、安堵してしまう自分が心底嫌だった。
違う。
違うのだ。
だってもう、離してあげたほうがきっとこの人は幸せになれる。
(ごめんなさい、母様……)
ギュッと母の背中に手を回して、涙をこぼしたあの日。『行ってもいいよ』と言ってあげられない自分の弱さがどうしようもなく嫌で──。
『馬鹿ね、エリー』
母が病気になった折、枕元でポロリと溢した本音に母は微笑んだ。
細い手がエリーの頭を撫でて、母は静かに首を振る。
『母様はそんなに優しい人間じゃないわ。母様がそうしたいと思って、母様が望んで残ったのよ。あの人の代わりにエリーはなれないし、同じようにエリーの代わりになれる人だってどこにもいないのよ。母様はエリーの事がすごく大事で、母様のわがままでそばにいたかったの』
自分の存在を優しく肯定する言葉は、最後まで愛に溢れていた。零れ落ちる涙を拭いながら、初めて訊いた。
『母様の好きな人は、どんな人だったの──?』
ずっと聞けなかった、母の想い人の事を。母は目を伏せて、たった一言だけ、呟いた。
『……お父様に、少し似ていたわ』