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【完結】Harmonia ー或る孤独な少女と侯国のヴァイオリン弾きー  作者: 原案・絵:若野未森、文:雪葉あをい
第4章
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op.15 悲しみと涙のうちに生まれ(9)

「姉様。不躾なお願いではあるのですが、ハーゼンクレーヴァーに使用人として入っていただくことは出来ないでしょうか」


 リチェルが目を瞬かせる。


「わたし……?」

「はい。姉として迎えたいと思っていた方に言う言葉ではないことは重々承知しています。でも僕はまだ社交界にも出ておらず、信頼のおける人脈の形成も出来ていません。頼れる人間が、あまりにも少ないのです。ただ、唯一人を見る目はあるつもりです。姉様が、信頼のおける方だと言うことは分かります」


 もちろん、とエリーが続ける。


「危険な目には遭わせません。毒見なんかは別の人間がしますし、ただ祖母の身の回りの世話を手伝っては頂けないでしょうか。祖母が今回倒れたのは心労も大きいのです。だけど周りの使用人は新しい人間が多くて、祖母のことを本質分かっている人は少なくて。きっと気が休まらないでしょう。それに引き換え、姉様はそばにいて落ち着く方ですから──」


 きっと嘘は言っていないだろう。

 だけどエリーの説明は随分飛躍しているし、矛盾もある。当主の側仕えを経験のないリチェルに任せようとすることも無茶だ。


 抜け目のない少年にしては目立つミスは、きっとこの考え自体がイングリットが倒れて初めて思いついた事だからだ。熟考出来ていない。


 だけど、間違いなくリチェルを動かすには十分だった。


(だが、ハーゼンクレーヴァーの当主が気付かないはずがない……)


 エリーとリチェルはよく似ているし、恐らくイングリットの娘であるリーゼロッテとリチェルはもっと似ているのだろう。

 ただイングリットは『ハーゼンクレーヴァーの血筋はエリーただ一人だ』と断言した。


「……そうか。分かっても、認めるはずがないのか」

「その通りです。お祖母様は姉様の正体が分かっても決して口にするわけにはいかない。同時に身元の保証は確かなのです。勿論多少は勘繰られるでしょうけど、お祖母様は僕など足元にも及ばないほど、人の本質を見抜く目をお持ちですから。姉様が何も隠し持っていない事くらいすぐ分かるでしょう。姉様」


 もう一度エリーがリチェルの方に目を向ける。


「お願いです。助けていただけませんか」


 リチェルは両手を胸の前で組んだまま、黙っていた。


「……ヴィオ」


 ヴィオを向いたリチェルの瞳が揺れている。リチェルが言い淀むのは、答えに迷っているわけじゃないだろう。それはヴィオに対しての配慮だ。そして彼女が何と言うのかを分からないほど、ヴィオはリチェルの事を知らないわけじゃない。


 短く息を吐き出して、ヴィオはリチェルを安心させるようにかすかに笑う。


「思っていることを言ってくれればいいよ」

「……わたし、行っても良い?」


 予想通りリチェルはそう口にした。口調にわずかに混ざる不安は、ヴィオの反対を押し切って、自分の意思を通そうとしている事に対してだ。


 だけど、そんな心配する必要はない。

 ヴィオはリチェルの考えを尊重するし、彼女のやりたい事は昨日聞いた通りだ。リチェルがこの状況を捨て置けるわけがない。そしてリチェルが望むのであれば、身の安全が保証できる限りヴィオに否定する気はない。


「リチェルがやりたい事をしたらいい。俺は反対もしないよ」


 安心させるように笑うと、エリーの方に目を向ける。それならリチェルの安全は確保しておく必要がある。


「ご当主がリチェルに何かするという可能性はないと思っていいか」

「はい。お祖母様にはヴィオさんからの紹介だと伝えるつもりですが構わないでしょうか。姉様に確実に害がないと分かれば、敢えて材料を作る方がリスクでしょう。そのような愚行を犯す方ではありません」

「分かった。お前の口から出てくる保証の言葉が、ただの精神論でなくて安心したよ」


 そう言って、息をつく。


「期間はどれくらいで考えてるんだ?」

「祖母が元気になるまで、と。その後は僕が責任を持って姉様をリンデンブルックまでお送りします」


 真剣な顔でエリーが約束した。


「……分かった」


 目を伏せて、息をついた。ハーゼンクレーヴァーに入るとなれば、ヴィオに出来る事はない。エリーを信用して任せるしかないのだ。


「姉様、ありがとうございます。不躾な頼みを聞いてくださって」

「それは良いの。どこまで役に立てるかは分からないけれど……、わたしで少しでも力になれるなら」

「姉様がいたら百人力ですよ」


 人懐っこくエリーは笑うと、ヴィオの方を向く。


「ヴィオさんもありがとうございます。お礼になるかは分かりませんが、これを──」


 そう言ってエリーが差し出した封筒を、訝りながらヴィオは受け取る。


「少しでもお役に立てばいいんですけど」


 チラリと気づかれないようにリチェルを視線で示して『後で見て下さい』とエリーが笑う。リチェルの前では開けるなと言うことだと判断して、ヴィオは黙って封筒を内ポケットにしまった。


「えっと、ヴィオさんはもうすぐ出発ですよね? この後姉様は僕と一緒に来ていただいてもいいでしょうか?」


 確かに気付けばもう宿を出なければいけない時間が近づいていた。エリーの言葉に、リチェルがハッとしたようにヴィオを見る。


 気付いたのだろう。

 レーゲンスヴァルトに残るのだとしたら、ヴィオとは一旦別れることになる。一瞬痛みを覚えたような顔をして、だけどリチェルはキュッと唇を結んで顔を上げた。


「ヴィオ……わたし」

「今生の別れという訳じゃないから、そんな顔しないでくれ」


 苦笑してそうこぼすと、リチェルが小さく頷いた。


「駅まで送りますよ。すぐそこですけれど、馬車に乗った方が早いですし」

「あぁ、すまないな」


 とりあえず荷物を詰めてしまわないといけない。ヴィオがベッドから立ち上がると、リチェルもすぐに気付いたのだろう。ヴィオより余程慣れた手つきで荷物を詰めるのを手伝ってくれた。


 リチェルはもう用意が終わっていたのか、すぐに自分の部屋から鞄を下げて部屋から出てきた。


 駅まではあっという間だった。

 馬車から降りたヴィオを追いかけるようにして、リチェルも馬車を降りる。


「ここで良いよ。人ごみもあるから、このままここにいてくれた方が俺も安心する」

「……うん」


 小さく頷いて、リチェルがヴィオを見上げる。


(初めて会った時も──)


 リチェルはこんなふうに不安気な瞳でヴィオを見ていた気がする。だけど瞳にこもる感情は以前よりずっと色鮮やかだ。リチェルが何を考えているのかも、随分と汲み取れるようになった。その事を純粋に嬉しいと思う。


 一瞬ためらったけれども、結局ヴィオは目の前の少女の身体を引き寄せると、強く抱きしめた。



「──君がどこにいても必ず迎えに行くから、どうか待っていてほしい」

 


 耳元で囁くと、リチェルの肩が震えた。そっと身体を離すと、揺れる瞳と目が合う。数秒見つめ合って、やがてリチェルがふわりと笑う。


「──はい。待ってます。ずっと」


 不意にリチェルが自分の後ろに手をやって、スルリとリボンを解いた。そして遠慮がちにヴィオに差し出す。


「あの、ヴィオに貰ったものなんだけど。お守りがわりに……」


 リチェルの小さな手が、ヴィオの手を取ってリボンを落とした。ヴィオの手をそっと両手で包んだまま胸元に引き寄せて、リチェルが目を伏せる。それから吐息と共に、小さな声で口にする。


「どこにいても、何をしていても、ずっと貴方の事を想っています」


 囁かれた言葉に、息が詰まった。ささやかな声量で紡がれた言葉は、ヴィオの耳だけに届くそよ風のようで。


「──どうか貴方の道行きが幸いでありますように」


 祈るように、言祝ぐように。静かに口にすると、顔を上げたリチェルが柔らかに微笑んだ。


「……ありがとう」


 リチェルといる時間はいつだって穏やかだった。今まで自分でも気付かなかった自分の弱さにも、そっと寄り添ってくれる心優しい少女。


 きっとヴィオにとって、リチェルは春を呼ぶ人だった。


 やがて息を吐き出すと、ヴィオは馬車の方に目を向ける。


「エアハルト」


 名前を呼ぶと、すぐにエリーがひょいと馬車から顔を出した。多分気をきかせていたつもりなのだろうが、聞き耳は立てているだろうなと思っていた。


 軽い足取りで降りてくると、リチェルのそばに並んで『何でしょう』とエリーが尋ねる。


 一筋縄ではいかない人物だとは思う。


 だけどエリーがリチェルのことを大事に思っていることだけはきっと本当だ。だから──。


「あとは任せた」


 その言葉を口にした瞬間、エリーの目に今までとは違う光が灯る。一瞬唇を震わせて、だけど次の瞬間目を伏せてエリーは胸に手を当てるとヴィオに頭を下げる。


「この名にかけて、必ず」


 真面目な返礼にふっと笑みが漏れた。目を丸くしたリチェルの頭をそっと撫でると、短くヴィオは別れを口にする。


「じゃあ、また」

「うん。気をつけて」


 少女の温もりが手から離れる。名残惜しい気持ちを振り切るように、ヴィオはリチェルに背を向けた。


 もう、振り返っている暇はない。


 リチェルをちゃんと迎えに行く為には、本家の事を終わらせなければならない。それはきっと、リチェルに出会っていても出会わなくても変わらなかったはずだ。


(だけど、どうしてだろうな)


 状況はどう考えても芳しくない。それなのに悲観的になる気には全くならない。


 もう間も無く本格的な冬に入るというのに、気持ちはずっと春の温かな日差しに照らされているようだった。

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