op.02 魔法使いの弟子(1)
『────』
優しい声が名前を呼んだ。耳に馴染んだ心地よい響きは、いつだって深い愛情に満ちている。
『すごいわ、とっても上手。お父さんみたい』
だけども時たま少女のように無邪気な声をあげて、手をたたいて喜んでしまうような素直な人だった。お父さんみたい、が褒め言葉だと思っているところなんか特に。
他意がないと分かっていても少し複雑な気持ちになるのだけど、母にとってはそれが最上の褒め言葉だと知っているから怒ることも出来ない。
『広場へ行って弾いて来てもいい?』
そう尋ねると、母は嬉しそうに頷いた。
『えぇ。きっとみんな喜ぶわ。あ、でもソフィアンも一緒にね? 一人で行ってはダメよ』
はい、と答えてヴァイオリンをケースにしまうと、部屋から出ていく。室内の演奏も好きだけれど、青空の下で弾く方が好きなのは多分昔からだった。
広場で演奏するとみんなが喜んでくれる。それがとても嬉しかった。
『──どうしてお前たち親子はいつもそうなんだ!』
突然、机を叩きつける音がした。
『……に……て……になる! ……を……ろ!』
途切れ途切れの苛立った声は、休みなく自分を糾弾する。
隙間からベッドが見えた。ベッドには見慣れた女性が横たわっている。目を覚ました彼女はこちらを見て、薄い唇を開いた。
『あなたは────?』
◇
微かな衣擦れの音で目を覚ました。
窓の隙間から差し込む光が朝を告げている。チラついた光は、シュルリという音と共にすぐに霧散した。
「…………ん」
気怠い身体を起こすと、パサリと布を落とす音がした。顔を上げるとかち合った若葉色の瞳が驚いたように何度か瞬く。
「……ごめんなさいっ、起こしてしまいましたか?」
慌てた様子の少女が、落ちた布を拾い直して申し訳なさそうに目を伏せた。ぼうっとしていた頭が動き出す。そこでようやく自分が一人ではなかったことを思い出した。
「ヴィオさん?」
ベッドから起き上がったまま黙り込んでいるヴィオの顔を、恐る恐る少女──リチェルがベッドの側の床に膝をついて覗き込む。
「……そうか。君が……」
「もう起きられますか? 水とお顔を拭くものを持って来ますね」
そう言うと、リチェルはパタパタと部屋から出ていった。回らない頭でその背中を見送って、昨日の出来事を思い出す。
クライネルト家からリチェルを引き取り、乗り合い馬車でアーデルスガルトを出てきたのだ。
ここベルシュタットにたどり着いたところで日も沈みかけていたので、とりあえず宿を取って、体力が限界だったリチェルを先に寝かせた。その後夜遅くまで作業していたことは覚えている。
(いつ眠ったか、覚えてないな……)
途中でベッドに倒れ込んだような気もする。
作業をしている間は集中してしまうので、リチェルの様子は全く覚えていない。きちんと眠れたのだろうか。チラリと見ると机の上は一通り片付けられていた。食器類は下げられていて、扱いに迷ったのだろう楽譜の類はある程度揃えて置かれている。間違いなくリチェルだ。
しばらく経つと出ていった時よりもゆっくりとした足音が廊下から聞こえてきて、リチェルが部屋に入ってきた。水を入れた桶と清潔な布を手にかけてヴィオの所へ歩いてくる。
「どうぞ」
「……あぁ、すまない」
差し出された桶の水は冷たくもなく熱くもないちょうどいい温度だった。
時間がかかったのは、お湯をもらいにいっていたからだろう。まだ覚めやらぬ頭のまま顔を洗って、差し出された布を違和感なく受け取り顔を拭く。
最近は全て自分でやっていた事だ。面倒臭くて水のまま使っていたから、ちょうどいいお湯を用意されるのは懐かしい心地がする。屋敷にいた頃は当たり前のことだったが──。
(…………おかしい)
そこでようやく今の状況に違和感が生じた。
「その、リチェル」
「はい?」
キョトンとしたリチェルに、ヴィオは困惑したまま言葉を重ねる。
「俺は……、別に君をメイドとして雇ったわけではないんだが……」
「え?」
リチェルの顔が途端に曇る。
「ご、ごめんなさい。わたし、余計なことをしてしまったでしょうか……」
「いや、もちろん有難いんだが。そうではなくて……」
一瞬で萎縮したリチェルに、何と言えばいいのかとヴィオも口ごもる。
リチェルを引き取ったのはヴィオにとっても完全に予定外の出来事だったが、だからといって見返りを求めたい訳ではない。ヴィオにはリチェルを所有している意識はないし、ただ一緒にいるだけなのだが、恐らくリチェルは所有者がヴィオに移ったという認識なのだろう。
空室の都合上一部屋しか空いていないと言われた時もリチェルは特に慌てた様子はなく、疲れ切っているというのに当然のように床に丸まろうとしたのを慌てて止めた。ベッドで寝ることは最後まで拒否していたので、結局一旦好きなところで寝かせて、熟睡したところをベッドに運んだのだ。
ようやく頭が回ってきた。ベッドから足を下ろすと端に腰掛けて、どう言えば伝わるのだろうかと考えあぐねる。
「……とりあえず、朝食をとろうか」
そう言うとパッとリチェルが顔を上げた。
「はい。宿の方にお伝えして来たらいいでしょうか?」
「いや、朝食は頼んでないから外に買いに行こう」
「お店の場所と、その……お代金があれば買ってきますが」
「それも構わない。それより身体はもう平気なのか?」
リチェルが暴行を受けたことを、クライネルトの当主は口にはしなかったが地下室での様子から察していた。昨晩宿の人間に手当を頼みはしたが、まだ寝ていた方がいいだろうか。しかしリチェルは首を横に振る。
「もう大丈夫です。ゆっくり眠りましたし平気です。ありがとうございます」
答えるリチェルの挙動には確かに無理をしている様子はない。顔や手など目立った所に傷はないし、一旦リチェルの言葉をそのまま信用することにしてそれなら、とヴィオは続ける。
「ちょうど外に用もあるし付き合ってくれるか? その前に一緒に朝食にしよう」
パチパチと丸い目を瞬かせるリチェルの様子に、ヴィオは苦笑を零した。案の定、リチェルが不思議そうに繰り返す。
「いっしょに、ですか?」
「あぁ」
主人と使用人が一緒に食事をとることなどあり得ない。多分リチェルも一緒に食事をとるという選択肢は浮かびすらしなかったのだろう。今もリチェルはベッドの脇の床に両膝をついたまま、恐る恐るヴィオを見上げる。
「……でも」
「雇った訳ではないと言っただろう」
そこでふとリチェルの衣服が昨日から変わりないことに気付いた。クライネルトの屋敷にいる頃から変わらない、不揃いな男物の上下。リチェルが荷物にと持って来たのは、臙脂の肩掛けひとつきりだった。きっと本当にそれだけだったのだろう。
ただ──。
(これだと流石に周りからの見え方が良くないだろうな……)
ヴィオは自身の衣服に頓着はないが、衣服を選んだ人間の目利きは信用している。悪い物は着ていない自覚はある。対してリチェルの服装が釣り合ってないことは容易に想像が出来る。このまま外へ連れて行くと、店の人間は間違いなくヴィオではなくリチェルに荷物を押し付けるだろう。
「…………服がないな」
「え?」
キョトンとするリチェルには気付かず、ヴィオは無言で立ち上がると荷物から自分の衣服を引っ張り出すとリチェルに差し出した。
差し出されるままに衣服を受け取ったリチェルは、何か勘違いしたのか丸まった衣服を一度広げて、そして何か合点がいったのか顔を上げた。
「あ、お手伝いします!」
「いや、違う。それを君にと……すまない、やはり俺は言葉が足りないな。君の衣服のことだが、また合った物は用意するとして、とりあえずそれを着てもらっても良いだろうか?」
「え!?」
リチェルが今度こそ驚きの声をあげて、手元の服を見る。流石に男物は無理があっただろうかと思ったが、結局のところ服を仕立てるにはリチェルを店に連れていかなければいけないし、一日で出来るものでもない。
「やはり嫌だろうか」
「いえ! 違います!」
ぶんぶんとリチェルが首を横に振る。
「だって、こんな良い物を貸していただいて良いんでしょうか……」
慌てるリチェルは単に恐縮しているだけのようで安心した。男物が嫌な訳でも、ヴィオの着ていた服を着るのが嫌な訳でも無いようだ。よく考えたら元が男物の服しか着ていないのだから、当然といえば当然である。
「それにお召し物でしたらヴィオさんもお着替えされないと。今お召しになっている服が、あの、シワになってるので……」
その事実を言及すること自体に申し訳なさそうにしながらリチェルがそう言うのを聞いて、昨日着替えずに寝たことに思い出した。
自分の服装を見ると確かにシワにはなっている。だが目立つのはシャツだけだし、外へ出るときはベストやコートも羽織るし大丈夫だろう。それに気付いたのか気付いていないのか、リチェルは控えめに渡した服をヴィオに差し出してきた。
「あの……、ご迷惑でなければ今身につけているシャツは洗いますので、こちらをお召しになってください。わたしはこのままで大丈夫です。本当にこんな良いものを貸して頂くわけにはいかないので」
「それは本当に気にしないでくれ。替えはまだあるから。俺の方はコートも羽織るから少しくらい外へ出る分には大丈夫だろう」
そう言いながらベストを着る。この状態にコートを羽織ればさしてシワも目立たないだろう。それでもリチェルはやはり申し訳なさそうで、ヴィオは苦笑をこぼした。
「……分かった。じゃあ帰ってきたら洗濯をお願いしてもいいか?」
「……はい!」
パッと顔を明るくしたリチェルに、その代わりと服を抱えた腕をリチェルの方へ軽く押し戻す。
「あの……」
「外に出ているから、着替えたら声をかけてくれ」
そう言ってヴィオは必要な物だけまとめると、まだ戸惑うリチェルを残して廊下へ出た。
壁に背を預けると目頭を軽く押さえる。まだ少し眠気が残っていたが、すぐ覚めるだろう。
(……手際が良かったな)
ふと朝のリチェルの様子を思い出した。屋敷では制服も来ていなかったから人の世話をする事自体に慣れているとは思えないが、生来よく気がつく性分なのだろう。
(むしろ何もしていない事の方に罪悪感を覚えるんだろうな)
だから頼み事をされた方が気が楽なのかと思い頼んでみたのだが、実際のところ洗い物はしてもらえるとかなり助かるのも事実だ。元々細々とした作業は苦手で、旅の途中も基本宿に頼んでいたのだが、今泊まっている場所で頼めるかどうかは確認していなかった。
他愛ない事を考えていると、コンコンと控えめに内側から扉がノックされた。すぐに扉が開き、着替えたらしいリチェルが顔を出した。
「お待たせしました」
リチェルはヴィオより頭ひとつ分以上小さく小柄だが、大きいサイズの服を着るのには慣れているのだろう。
余っている部分をきちんと折り込んで綺麗にヴィオの服を着ていた。元々の服が汚れていた分、先程よりも随分小綺麗に見える。唯一頭にかぶった帽子だけが少し浮いてはいるが、ヴィオの服も男装であるには違いなく、帽子を外すことは難しいと考えたのだろう。
(まあ声を聞かれなければ男でも通るか……)
別段分かったところでやましい事は無いのだが、不思議には思われるだろう。
「ヴィオさん?」
「あぁ、行こうか」
壁から背を離すと、廊下を歩き出す。その後ろをパタパタとリチェルがついてくる。
「リチェル。呼び方だがヴィオでいい」
「え?」
「敬語も外してもらって構わない。何度も言うが、俺は別に君を雇ったわけじゃないから」
そう伝えると、リチェルは目を丸くして戸惑ったようにヴィオを見る。
「でも……」
「元々敬語で話していたわけでも無いだろう」
良家の子女と言うわけでも無い。短い間だろうが、自然体で過ごしてもらえたらと思う。
すぐには無理なら少しずつで良い、と伝えるとリチェルはやがてこくりと頷いた。