op.15 悲しみと涙のうちに生まれ(6)
エリーは用事があるから、とリチェルには会わずに帰った。
「姉様に会うとどうしても離れがたくなっちゃうんですよね。でも僕も用事があるので今日のところは諦めます。見送りには必ず来ますから」
そうヴィオに託けて、さっさと馬車に乗って帰って行った。去り際は清々しいくらいアッサリしていて、きちんと私情と家の事を切り分けているのが分かる。そういう所もやはり嫌いにはなれなかった。
その後は部屋に戻り、リチェルにイングリットとの話の顛末を一通り話した。話を聞いたリチェルは、意外にもあまり驚いた様子を見せなかった。
「仕方がないことだと思うわ。一目会えるならとても嬉しいけれど、エリーのお祖母様が望んでいないのなら嫌がる事はできないもの」
そう言って、少しだけ寂しそうに笑った。
『ヴィクトル様から見て、姉様は僕の提案を迷惑だと思うでしょうか。今更現れて、家族だなんて言ったら、虫が良すぎるでしょうか』
不意にエリーの言葉が蘇った。
そんな事はないとヴィオは答えた。実際リチェルが迷惑だなんて言うところは想像できない。
だけど、リチェル自身の希望はどうだろうか?
イングリットが望んでいないのなら、と言った彼女は、もし望まれた時どう思うのだろう?
リチェル、と呼びかけるとキョトンとしてリチェルはヴィオを見上げた。
「……もしハーゼンクレーヴァーの当主が正式に君を血縁として迎えたいと言ったら、リチェルはどうしたい?」
少なくともリチェルはハーゼンクレーヴァーの当主が、自分の母親と父親を引き離したことを知っている。今認知しない、と言われていることも。だけどリチェルの声音に祖母への嫌悪はない。
「本来であれば、君がハーゼンクレーヴァーの当主の事を良く思う理由はないんだ。そんな家に行くのは、リチェルが傷つくことになるんじゃないかと思ったし、君も望まないんじゃないかと思っていたんだが──」
だけどそれはヴィオの思い込みで、リチェル自身が言った事ではないのだ。
「リチェルは、どう思う?」
大きな瞳が、不思議そうにヴィオを見ていた。だけどきっとそれが大事な質問だと感じたのだろう。
「そうね……」
口篭って、考え込んで。
やがてリチェルは『……全然違う話なのだけど』と言葉を紡ぐ。
「昔ね。私がいた孤児院に併設されていた修道院に、教会と間違えて来る人がいたの。シスター・ロザリアはその方達をすぐに帰すことなく、孤児院の方へ招いてお話を聞いていたわ」
年に数回の話。だけどそれは珍しくはない頻度でもあったから、不思議に思っていたのだとリチェルは言う。
「そんなにみんな何を悩んでいるのかしら、って。わたしはきっと単純だったから。ヴィオと旅に出るまで、外にこんなにたくさんの感情が溢れていることを知らなかったから」
シスターはね、とリチェルが続ける。
「生きている限り誰でも人は悩むし、間違える事があるのだとわたしに話してくれたの。間違いはある時は正解である事もあるし、誰かの間違いが誰かの正解だったりもする。生きて行くことは他人と繋がる事だから、自分の正解と他人の正解が異なることは珍しい事ではなくて、傷が生まれるのは必然なのだって」
時たま考え込みながらも、リチェルが自分なりに懸命に言葉を選んで紡いでいることが分かる誠実な口調だった。
「……お母さんの悲しみも苦しみも、わたしには分からない。もう聞く事も出来ないわ。だけど同時にお母様を連れ戻したお祖母様が何を思っていたのかも、お祖母様がどんな悲しみや苦しみを抱えているのかも、わたしには分からないの。だから何も知らずに嫌いになったりはしたくない。
この旅で少しは色んな事が分かるようになったけれど、わたしにはヴィオやエリーの事情や考えてくれていることは難しくて理解しきれていなくて。でも二人が、わたしのことを大切に考えてくれている事だけは分かる。
ヴィオがそばにいて欲しいと言ってくれたことも、エリーがわたしのことを『姉様』と呼んでくれることも、サラさんが帰ってきていいと言ってくれたことも、全部。とても嬉しくて。だからその人達が喜んでくれたら良いな、って」
それはとても、リチェルらしい言葉で。
「だから、ヴィオの質問の答えにはならないのだけど、わたしはわたしの周りの人たちが幸せになれる選択がしたい。
その為に頑張れることがあるなら頑張りたいし、出来る事があるならやりたいと思うの。だから今は、お祖母様が嫌な気持ちになるなら会いたくないな、ってそれだけなの。
それ以上は、まだ──」
十分だった。
「いや、よく分かったよ」
そう答えると、リチェルはホッとしたように頬を緩めた。
打算も、私欲も。
リチェルにそんな物がない事は分かっていたけれど、きっとこれからもリチェルはそうなのだろう。きっとその時その時で、関わる人たちの感情を一番に優先して、答えを出して行くのだろう。
「ありがとう。ちゃんと言葉にしてくれて」
それでも、今リチェルの口からきちんと聞けて良かったと思った。
と、リチェルが少し顔を曇らせて『それより……』とヴィオに尋ねてくる。
「ヴィオは大丈夫だった? そのお祖母様のこと、エリーが……」
遠慮がちに言葉を濁したのは、イングリットが怖い人だったというエリーの言葉を続けるのに躊躇ったからだろう。苦笑して『大丈夫だよ』と答えると、リチェルは今度こそホッとしたように笑った。