op.15 悲しみと涙のうちに生まれ(4)
ハーゼンクレーヴァー本家は常緑樹に囲まれた広い敷地の奥に位置した。
冬でも豊かな葉をつけた松の木が、寒々しい空の下で身をひそめるように並んで立っている。
馬車から降りると出迎えの使用人が迎えてくれた。流石にヴァイオリンはリチェルに預けてきたので、預かってもらう荷物もなく、察した使用人は案内役を残して、流れるようにいなくなった。
通された部屋は品のある調度品が整えられた客室だった。壁際に掛けられた数点の絵画は、部屋の景観を全く損ねる事なく引き立てている。暖炉に焚かれた火が部屋を温めてくれていて、室温も行き届いていた。
「多分すぐにお祖母様も参ります」
朗らかにそう言うエリーの態度は、声音とは裏腹にかすかに緊張を含んでいるのが分かった。
しばらくするとメイドが飲み物を運んできてくれた。湯気の立ったカップをヴィオとエリーの前に置くと、何も言わずにメイドが下がる。
部屋に沈黙が降りた。
時計の針の音だけが響く。遅いな、とやがてエリーが呟いた。
まだ着いて十分程だが、確かに自身の名で呼んだ客人を待たせるには少し長い。
焦った様子のエリーとは相反して、ヴィオは落ち着いていた。用事があって遅れているわけでは決してないだろう。この待たせている時間も含めて、きっと当主の意思だ。
(分かりやすくて何よりだな)
丁寧に教えてくれているのか、はたまた試しているのか。双方かもしれないが、どちらにせよ動き方を決めるくらいのヒントは投げてくれている。
それから五分ほど経って、ようやくハーゼンクレーヴァーの当主は部屋に姿を現した。
厳かに入ってきた貴婦人は、立ち上がったヴィオに視線を向ける。
まず目を引いたのは全身を包む黒の衣装だった。
近年ハーゼンクレーヴァーで亡くなった親族はいないはずだが、まるで喪に服しているかのような黒一色のドレス。胸元の緑のブローチだけが、わずかな色彩を落としている。
感情を映さない、だが意思のこもった深緑の瞳と、不機嫌に結ばれたままの口元。隙のない立ち姿は確かに相対した人間を威圧させる力を持っていた。
「ごきげんよう、ライヒェンバッハ子爵。遠い所をご足労頂き感謝します」
たっぷりと間を置いて、低く落ち着いた声音でイングリットが口火を切った。
爵位というのは、通常上位の爵位を賜っても下位の爵位が消滅することはない。伯爵位や侯爵位では複数の爵位を持っていることがほとんどで、跡取りは家督を相続するまで別の爵位を名乗ることが多く、ヴィオも同様だからイングリットの呼び方は正しい。
遅れた事に対する謝罪はなかった。ゆっくりとした所作でソファに寄ると、イングリットは腰を下ろした。
「お祖母様……! 来て頂けないのかと思ってちょっと焦ったじゃないですか……!」
「約束をしているのだから参りますよ。落ち着きなさいエリー。お客人の前ですよ」
エリーの言葉を厳格な声でたしなめると、イングリットはヴィオに向き直った。
「どうぞお座りに。顔を合わせるのが初めてだと言うわけでもありませんね。ヴィッテルスブルク侯爵には何度かお会いしていますから」
「えぇ。父と共に一度ウィーンでご挨拶させて頂いたことがあります。ご健勝で何よりです」
目礼すると、イングリットが頷く。その仕草を見て、ヴィオはソファに再び腰を下ろした。
「さて、お互い時間は貴重ですから手短に参りましょう。私の名で貴方に便りを出したのは確かですが、この会談はここにいるエアハルトが整えたものです。これに喋らせても構いませんか?」
「えぇ」
ヴィオが首肯すると、イングリットがエリーに目を向けた。はい、と少し緊張気味にエリーが口を開く。
「今回この場を用意させて頂いたのは姉のリチェルをハーゼンクレーヴァーの血統として認めて頂くためです。兼ねてより姉の居場所を探していたのですが、先日姉がヴィクトル様の旅に同行していることが分かりまして、姉と懇意にしているヴィクトル様にご協力を願い出ました。姉の人となりが保証できれば、認知の際の一助になるかと思い、今回の場を設けた次第です」
エリーの言葉をイングリットは遮る事なく涼しい顔で聞いていた。言葉を切ったエリーの方を見る事なく、つと視線をヴィオの方へと向ける。
「──と、不肖の孫は申しておりますが。子爵の見解はいかがでしょう」
エリーが息を呑んだのが分かった。
小さく息をついて、ヴィオは顔を上げる。
「確かに今は以前お世話になったさる方のご令嬢をお預かりしています。ですが、彼女がハーゼンクレーヴァーのご令嬢だとは、私もご子息から聞いたばかりなので何とも」
「え……⁉︎ ヴィクトル様⁉︎」
エリーが悲鳴のような声を上げるのを、無言で聞き流した。ヴィオの答えに、イングリットがかすかに口の端を上げた。
「ライヒェンバッハの後継は賢明な方のようですね。安心いたしました。えぇ、もちろんそのような事実はございませんよ。この数十年、ハーゼンクレーヴァーは子に恵まれず、私が残せた子も娘がたった一人。その腹から生まれたのはエアハルトただ一人です。回りくどい真似をしたことを改めてお詫びしましょう。本日私が貴方を招いたのは、他でもない子爵が要らぬ誤解を抱えていないか確認をしたかったからです」
「それなら誤解は解けたと思っても? 私がお預かりしている令嬢はハーゼンクレーヴァーには一切関係がないと?」
「えぇ、もちろん。断言いたします。うちの次代はエアハルトただ一人です」
「ちょ……、お祖母様も! どうして……」
「控えなさい、エリー」
それは静かな声だったが、反論を許さない厳しい声でもあった。ビクリと肩を震わせて止まったエリーが、イングリットを見る。
「お前の妄言の為に子爵にわざわざお越しいただいたのです。これに懲りて金輪際そのような戯言を口にするのは止めなさい。お前の汚点となるだけですよ」
話はこれで終わりとばかりに、イングリットが立ち上がろうとして、不意によろめいた。ガタンッと音を立てて机に手をついた当主にヴィオも思わず腰を浮かせたが、イングリットはすぐに体勢を立て直すと手助けを拒んだ。
「……大丈夫です。少しめまいがしただけですから」
入り口近くで困惑したようにイングリットを見ているメイドに外へ出るように手を振ると、イングリットはこめかみを押さえてヴィクトルの方を見た。
「体調が優れないので、私はここで失礼します。見送りはエアハルトが」
エリーの方をチラリと見てイングリットが言う。うつむいていたエリーはそれでもイングリットの指示に頷いた。
「あぁ、そうです。ライヒェンバッハ子爵」
「何か?」
「要らぬ世話かもしれませんが、貴方も本家が少し慌ただしい様子ですね。今しばらくは窓の外より己の足元に注意を払うのが賢明ではないでしょうか」
釘を刺すかのような言葉にヴィオは笑みを浮かべると礼をする。
「ご忠告痛み入ります。どうぞお大事になさってください」
ヴィオの言葉にイングリットはかすかに微笑むと、今度こそ振り返らずに退出した。
うつむいたままのエリーに目をやると、流石にエリーも日々後継の教育を受ける跡継ぎである事に違いはなく、お送りいたします、と丁寧に口にして玄関へとヴィオを促した。