op.15 悲しみと涙のうちに生まれ(2)
「えぇ。姉様の母様でもありますよ?」
クスリと笑ってエリーが続ける。
「姉様と出会った時にもしかして、と思ったんです。ラクアツィアは母様が滞在していたカステルシルヴァとそこまで離れていない。姉様の年齢も一致します。本当はずっと探したかったんですけれど、僕が自由に人を動かせるようになったのはここ最近の話で、なかなか手がかりが見つからなくて……」
「もしかして、あの後ラクアツィアの孤児院に行ったのか?」
ヴィオが尋ねると、エリーは頷いた。
「僕は行ってませんが、すぐに手は回しました。その後姉様たちが孤児院に向かうことも考えて口止めはお願いしていましたから、あそこのシスターからは何も聞かなかったでしょう?」
エリーの言葉にヴィオは嘆息する。
(確かにあの院長なら、見返り次第で容易く口止め出来るだろうな……)
思い返せばシスター・テレーザはリチェルの来訪に然程驚いた様子を見せなかった。
普通は奉公に出した孤児が訪ねてくるなどなかなか稀な事だろうに。
あの余裕のある態度はリチェルの来訪をあらかじめ予期していたからか、とここに来てようやく腑に落ちた。
「その都合でヴィオさん達の足取りについても手紙が確実に手に渡るまでの間は、大まかに把握していました。だからこの町にたどり着く時期も予測できたんです。ごめんなさい、失礼な真似ばかりして」
「それは良いの。エリーにはきっとわたしには想像できないような事情があるのだと思うし」
実の弟とはいえ、ずっと居場所を把握されていたと言う情報に不快感を見せないのは、リチェルらしいといえばリチェルらしい。とはいえ、ヴィオも自身の軽率さを恥じるだけで意外ではなかった。きっと逆の立場なら同じことをする。
ただリチェルの表情は晴れなかった。口ごもって、だけど、と呟く。
「だけど?」
「エリーは、いつもあんな危ないことをしているの?」
リチェルの言葉に、エリーが一瞬驚いたように深緑の瞳を見開いた。
「ううん。さっきも言った通り、わたしには分からない事情がたくさんあるのだと思う。でも……」
リチェルの言葉に他意はない。ヴィタリの時も、リチェルは一番にエリーの事を心配していた。
そのおかげか、エリーにもリチェルの言葉がただ自分を案じる気持ちから出ていることが分かったのだろう。これまでの笑顔が鳴りをひそめ、やがてふっと力が抜けたように笑った。
「心配してくれるんですか?」
「それはもちろんよ。だってエリーは……、わたしの弟なのでしょう? わたしよりも幼いのに……」
「姉様が思っているより幼くないかもしれないですよ。実際僕と姉様は歳は一つしか変わりませんし。それにマティアス……あぁ。あの時はヴァルターも一緒についていたでしょう。一人ではないんです」
でも、とエリーが目を伏せた。
「そうやって心配してもらえるのは嬉しいです」
きっとそれは本心から出た言葉だった。エリーは苦笑して、一つだけ言い訳させてください、と続けた。
「仲のいい姉がいたというのは嘘なんですが、姉様と会って懐かしく思ったのは嘘ではないんです。何しろ僕にとっては、姉様は僕に似ている以前に、母様にそっくりだったので。母は僕が十一の歳に病気で亡くなったんですが、僕にとっては大切な家族でしたから。姉様と初めて会った時、もう一度母に会えたみたいで懐かしかったのは本当です」
「そんなにお母さんとわたしは似てるの?」
「はい。そっくりです」
そう言いきった後、あ、とエリーは短く声を上げて、何か思い出したのかくすくす笑う。
「でも性格は全然違いますね。母様はものすごく気が強い女性でしたから。姉様とは正反対といっても良いくらい」
「そうなの」
リチェルが目をぱちくりと瞬かせる。それから何か思い当たったのか、ごく自然にリチェルはエリーに疑問を重ねた。
「そういえばエリーのお父様はどうなさってるの?」
リチェルの疑問はもっともだった。
エリーが正式な跡継ぎと言うことは、リチェルの母であるリーゼロッテは再婚していたはずで、父親がいると考えるのは自然だ。
(普通であれば、だが──)
それはハーゼンクレーヴァーという名にヴィオが警戒した理由の一つだ。エリーの父についてのおおまかな事情をヴィオは知っている。
エリーの反応を窺うと、エリーは一片の動揺を見せる事もなくカップを静かにソーサーに戻した後、綺麗に笑った。
「いませんよ」
端的な回答だった。リチェルがキョトンとする。
「いない? あ、ごめんなさ……」
「あぁ! 大丈夫ですよ姉様。謝らないでください。死別したとかじゃないんです。僕の父親に当たる人物はちょっと色々不祥事が重なって、本家とは縁が切れているんです」
僕自身もあまり父親には思い入れがないので、とエリーが苦笑する。
「あんまり楽しくない話だからやめましょうか。姉様は僕の父親のことは気にしなくていいですよ。いないものだと思っていただければ」
「う、うん……」
どう反応していいのか分からないのか、困惑気味にリチェルが頷いた。
その時『失礼します』と一人の男性が部屋に入ってきた。見覚えのある顔にリチェルが『ヴァルターさん』と声をあげる。
「お久しぶりです。ヴィオさん、リチェルさん。先日は大変失礼を致しました。改めまして。エアハルト様と同様ヴァルターは偽名で、本名はマティアス・クラインと申します。幼少の頃よりエアハルト様のお側に仕えております」
リチェルが頭を下げる横でヴィオも目礼を返す。マティアスはもう一度深くヴィオに頭を垂れると、すぐにエリーのそばに寄って紙片を渡した。
チラリとそれに目を落としたエリーがマティアスに頷いて見せると、マティアスは一礼してすぐに部屋を出ていった。
「せっかくだから姉様に昔話でも披露したいのですが、時間もないので本題に入りましょうか。こちらに来て頂いたということは、会談に応じて頂けると言う理解で構いませんか?」
もちろんヴィオもその話の為にこの席についているつもりだった。リチェルの代わりに肯定を返す。
「あぁ。そのつもりで来ている。ただ一つ条件がある」
「条件、と言いますと?」
「会談には俺だけで応じたい。リチェルは宿に置いていくつもりだ。これは譲れない」
リチェルは私生児で、ハーゼンクレーヴァー家にはエリーという後継もいる。本来なら認知する理由がない。
今更呼び出すに足る理由は、推測はできても可能性の範疇を出ないのだ。何が起こるか分からない場に、素直なリチェルを連れていく気はヴィオには無かった。
「なるほど。それで構いません」
予想していたのか、拍子抜けするほどあっさりとエリーが頷いた。
「実を言うと、僕もその方がいいと思っていました。お祖母様は怖い方なので、姉様には少し刺激が強いかなと」
苦笑をこぼすエリーを、ポカンとしてリチェルが見つめている。身内にもそう言われるという事は、ハーゼンクレーヴァー家当主の苛烈さは真実なのだろう。
「前々から祖母には話をしていたのですが、ここへ出る前に事付けてありまして、先程のはその返答だったんです。すぐに話が出来るとの事だったので、この後のお時間を頂いても良いでしょうか? ヴィオさんも早い方がいいでしょう」
口ぶりからすると、ヴィオが先を急いでいることも折り込み済みのようだ。リチェルにそれで良いか? と聞くとリチェルはこくりと頷いた。
「では姉様を宿に送ってから、ヴィオさんは僕と一緒に本家へ来て頂けますか?」
「あぁ」
「ありがとうございます。代わりと言ってはなんですが、どうぞこの時間はゆっくりなさってくださいね。姉様も欲しいものがあったら言って頂ければ。可能な限り用意しますので」
その後はエリーは難しいことは何も口にしようとせずに、リチェルと昔話に興じていた。その様子は実の姉弟にしては少しぎこちないものだったが、エリーがリチェルの事を慕っていることだけは、何となく感じられた。