op.14 春への憧れ(7)
ヴィオの態度がどこか以前と違うことはリチェルも気付いていた。
だけどそれは別れが近いからだとか、前回の教会での事が原因であるとか、そう言う風にリチェルは捉えていた。
元々ヴィオは優しい人だと思っていたから、ヴィオがリチェルに優しいこと自体には何ら違和感がなかったのだ。だから──。
『思い返せば出会った時からずっと、君に惹かれてたんだ』
ヴィオの言葉は思いもよらなくて、まともに返事をする事すら思いつかなかった。
リチェルを気遣ってかヴィオは馬車の中でそれ以上何かを話す事はなかったし、リチェルもそれに甘えてずっと心を落ち着かせようとしていた。
だけど心臓は鳴りっぱなしで、頬が風邪を引いた時みたいに熱くて、ヴィオと目を合わせる事すら覚束ない。
だから話さない時間でたくさん考えた。
ヴィオの言葉はリチェルの抱いている恋心と同じ種類の物なのだと思って良いのか、ただの自惚れなのか。いくら考えても答えは出なかった。でもヴィオの性格を考えれば考えるほど、リチェルが勘違いしそうな言葉をヴィオが軽はずみに口にするようには思えない。
本人が目の前にいるのだから聞けば良いのだし、きっとヴィオは答えてくれるのだろうけれど、それにはリチェルが抱いている気持ちも伝えなければいけなくて。自分の気持ちは一生打ち明ける事はないと決めていたから、伝えることなんて考えもしなかった。それは、リチェルに勇気がないだけなのだろうか?
『もう少し君が落ち着いたら続きを話すよ』
ヴィオはそう言ったから、リチェルに話してくれたことで全てではないのだろう。
(でも、それ以上何を?)
疑問がつきない。今でももういっぱいいっぱいだった。
(ヴィオが、続きを話してくれるまで待ってた方がいいのかな……)
頼りきりでは不甲斐ない気がして、だからといって何を返して良いのかリチェルには少しも分からなくて。
悶々と考えているといつの間にか馬車は目的地に着いていた。
ヴィオに促されるままにリチェルも馬車を降りる。馬車を降りる時に手を貸してくれたヴィオは、いつも通りに見えた。リチェルはこんなに混乱しているのに、どうしてヴィオは平静でいられるのだろうか。
(ヴィオとはあと少ししか一緒にいられないのに、そんなに待たせちゃいけないわ……)
そこまで考えて不意に気付いた。
ヴィオと一緒にいられる時間はあと少しなのに、リチェルは馬車の中で全然話も出来なかった。
あと少ししかないなら、最後は笑顔で別れたいとそう決めていたのに。
その時間を大切にしたいと思っていたのに、ずっと黙ったままで。
(でも、何を話せば……)
ずっと思考はループしていて、覚束ない。
今までヴィオと一緒にいて沈黙を苦にしたことなんてなかった。一緒にいるだけで満たされて、心はずっと穏やかで。それなのに今は嵐みたいだ。ヴィオは出会った時と変わらずそばにいてくれるのに。
かろうじてヴィオの後をついて行って、宿の手続きをしてくれるのを後ろで見ていた。
「この後俺は汽車の席を手配をしに行くけど、リチェルは部屋で待っていてくれればいいから」
部屋の前につくと、ヴィオがリチェルの手に部屋の鍵を落としてくれる。
ダメだ、と思った。手の中の鍵を見つめる。明日には汽車で移動で、レーゲンスヴァルトに着いたらヴィオはハーゼンクレーヴァー家にリチェルの代わりに行ってくれる。何があるか分からないから、この先ゆっくり話す時間が取れるとは限らない。
じゃあ、と部屋に入ろうとしたヴィオの上着を咄嗟に後ろから掴んでいた。驚いたようにヴィオが振り返る。
「リチェル?」
「……あの……っ」
言葉に詰まる。心臓がバクバクと早鐘を打っていた。
何を話せば良いかはまだ分からなくて。
(ううん。話したいことはいっぱいあるけど……)
何から話して良いのか分からない。
思考はぐちゃぐちゃで、ヴィオみたいに上手く整理して話せる自信なんてひとつもない。だけど、どうしてもこのまま部屋に戻るのは嫌だった。
「その……、もう少し、だけ……」
そばにいたい。
最後まで口に出すことは出来なくて、言葉に詰まったリチェルの手を、ヴィオがそっと優しく掴んで上着から外した。
「リチェルが良ければ」
そうして穏やかな声で続ける。
「まだ外は明るいから、少し町を歩こうか。駅まで付き合ってもらってもいいか?」
恐る恐る顔をあげると、優しい瞳と目が合った。
(ヴィオは……)
いつでもリチェルの言いたいことを察してくれる。
分かって、リチェルが言いづらいことも先に言葉にしてくれる。その気遣いに、嬉しさと同時に胸の奥が甘やかに痛んだ。
荷物を置いておいで、と言われてリチェルはこくりと頷いた。手を離すと、せめて急いで荷物を部屋に置きに行く。鞄と外套をまとめて部屋に下ろすと、そのまま小走りで部屋を出た。
間も無くヴィオも部屋を出てくる。
「行こうか」
自然に手を差し出されて一瞬戸惑った。今まにないことだった。
だけど手を繋がないと危ないと思われている訳ではない事くらいはリチェルにも分かる。ヴィオの顔をうかがって、おずおずとリチェルが手を重ねると、それで良かったのかヴィオはかすかに笑ってリチェルの手を引いた。
「どうぞ」
外へ出ると重ねていた手が離されて、代わりに腕を差し出された。
一瞬困惑して、すぐに意図を理解した。初めてヴィオがそうしてくれたのは、リンデンブルックでサラの舞台を観に行った時のことだ。あの時は観劇が目的で、劇場は比較的フォーマルな場だったから男性が女性をエスコートするのは自然な事だったのだろう。
だけど今は違う。きっと普通に並んで歩いても構わないのに、敢えてそうしてくれていることが分かる。ためらいがちにそっとヴィオの腕に手を置くと、並んで歩き出した。
(……温かい)
ヴィオの温度はあの時と同じでリチェルよりも少し高い気がした。あの時は近くにある体温に安堵した気がする。隣にいるのがこそばゆくて、ヴィオの隣を歩ける自分が少しだけ誇らしかった。今も鼓動がいつもより早くトクトクと音を刻んでいる。
でも同じなのはそれだけだった。
ヴィオに触れると、胸の奥がギュッと締め付けられるような心地はずっと強くなった。
それなのに少しも離したいと思わないのは、きっとリチェルがどうしようもないくらいヴィオに惹かれているからなのだろう。
呼吸する事すら覚束ない。息を吸うたびに、切ないくらいに心が熱を持つ。
諦めようと思ったのに。
最後まで心の中に閉まったままにしようと決めたのに。
大切に想っていると言ってくれたヴィオの言葉が、何度も頭の中で響いていた。リチェルにとってもヴィオは大切な人だ。
それこそ言葉になんて出来ないくらい。
宿は駅の近くだったから、すぐに着いた。ヴィオが明日の手配をしてくれて、しばらく町の中を二人で歩いた。駅の付近は賑やかな町並みは、少し離れると静かになった。
人通りもまばらな通りを二人で寄り添って歩きながら、たまにそっと見上げると何も言わなくてもかすかにヴィオが笑ってくれる。
その時間がとても穏やかで、幸せで。
好き、という気持ちが溢れそうになる。
(だってヴィオは、立派なおうちの後継ぎなのに……)
ヴィオの父親が亡くなったと言うことは、きっと実質当主はヴィオになるのだろう。リチェルとはとてもじゃないが釣り合わない。リチェルみたいな娘がヴィオのそばにいることはきっと迷惑になってしまう。
リチェルの気持ちもきっと──。
『迷惑な訳ないよ。リチェルさん』
その時、急にアルの言葉が蘇った。
『もし君が僕のことを素敵だと思ってくれたんだったら、僕が好きになった女の子のことも信じてあげてほしいな』
唇をきゅっと結ぶ。
温かに心に浮かぶ言葉は、そっと背中を押してくれるようだった。もしかしたらアルは、リチェルがこんな風になるのを予想していたのだろうか。
(ありがとう、アルさん)
きっとものすごく勇気のいることを、アルはリチェルのためにしてくれた。だったらきっと、ここで怖気付いてはいけないのだ。
「……ヴィオ」
「どうした?」
足を止めたリチェルに、ヴィオも足を止めてリチェルを見下ろした。
息を詰める。心臓の音がうるさい。
(あなたに──)
一体何を伝えたら良いのだろう?
ヴィオがいなかったら、リチェルは自分がクライネルトでどうなっていたのか想像もつかない。
これまでの旅での出会いはなく、多くの当たり前を知ることさえなかった。
シスターのことも、両親のことも、全部知らないままだった。
リチェルの人生を変えた人。
その事に伝え切れない感謝と、初めて知った恋心が混ざりあって、どんな言葉でも表せる気がしない。
(だけど真っ直ぐにあなたは気持ちを伝えてくれたから)
少しでも返したい。
言葉にしなくてもヴィオは分かってくれるかもしれないけれど、その事に甘えたくはなかった。だから──。
「……ヴィオの言ってくれたこと、とても嬉しかったの」
ポツリと、そう落とした。
「とても嬉しくて、でも信じられなくて。今も夢を見てるみたいなの」
続きを促すようにヴィオは頷いて、そっとリチェルの手を引いた。
通りを外れて歩き出しながら、ヴィオは急かすでもなくリチェルの言葉が出るのを辛抱強く待ってくれた。
「……今のわたしは、ヴィオがいないといないわたしだから。サラさんの事も、孤児院でのことも、お父さんとお母さんの事も。その他のことも全部、ヴィオがいてくれたから分かったことばかりで。わたし、あなたにもらってばっかりだって思っていた」
だけどヴィオは『逆だ』と言った。そんなことはないと思うけど、それでもヴィオに少しでも何かを返せていたなら、とても嬉しかった。
ヴィオが足を止めて、リチェルも合わせて立ち止まる。多分落ち着いて話せる場所を探してくれていたのだろう。
通りから少し外れた公園は、遠く遊ぶ子供達の声や、近くを流れる川のせせらぎや木々の葉が擦れる音が聞こえてくる。
腕に置いた手にきゅっと力を込めた。隣にある体温に励まされるように、リチェルは口を開く。
「ヴィオと一緒にいると気持ちが穏やかで、幸せで。だけど、時たますごく胸が苦しくなって……」
目を伏せて、何とかそう口にする。
この旅の中で色んな人に出会ってきた。みんなリチェルにとっては大切な思い出で、大事な人たちばかりだけど、ヴィオだけは少し違う。
「わたしにとってヴィオは特別で、とても大切なひとで、いつか離れなきゃいけない、って分かってるのに。ヴィオが今わたしのそばにいてくれるのは、とても幸運なことだと分かっているのに」
ずっとそばにいたいと、そう思ってしまう。
だけどそれを口にすると、困らせるんじゃないかと怖かった。大切だとヴィオは言ってくれたけれど、それでもヴィオの家が貴族のお家であることは変わらないし、リチェルが孤児であることも変わらないのだ。
「わたし、は……」
あなたのそばを離れるのが怖い。
声が震える。
迷惑にならないだろうか。
正直に伝えることが、ヴィオの重荷にならないだろうか。
どうしてもそんな気持ちが拭えなくて、言いかけた言葉を呑み込んでしまう。
「リチェル」
不意に名前を呼ばれて、リチェルはヴィオの顔を見た。
琥珀の瞳が穏やかにリチェルを見下ろしている。いつの間にか強く握りしめていたリチェルの手を空いた手で開かせて握ると『君が良ければ』と口にする。
「馬車での話の続きをしてもいいか?」
きっと、ヴィオはリチェルがそれ以上言葉に出せないことに気付いている。何を望む事が許されるのか分からない事に。
こくりと頷くと、ヴィオは『ありがとう』と穏やかに言って、続きを引き取った。
「多分リチェルが気にしているのは俺の立場の事だと思うんだが、正直俺も悩んだんだ」
ヴィオの言葉に分かっていてもちくりと胸は傷んだ。
でも、とヴィオが続ける。
「多分君が気にしていることと俺が気にしている事は、全く違う種類のことだ」
「え?」
ヴィオの言葉にキョトンとしたリチェルを安心させるように笑って、ヴィオはリチェルの腕を離すと向き合って、リチェルの手を取った。
「リチェル」
名前を呼ばれただけなのに鼓動がはねた。ヴィオが穏やかな声で続ける。
「──もし君が許してくれるなら、俺は君にこれからもそばにいてほしい。本当はそれが一番言いたかったんだ」
驚きに目を見開いた。
「でも……」
「立場の事なら気にしなくていい。そんな物はどうにでもなるし、俺は他でもない君にそばにいて欲しいんだから」
ただ、とヴィオが続ける。
「知っての通り俺は爵位のある家の跡取りだ。俺のそばにいると言うことは、家に入ってもらうと言う事だから、リチェルにも色んな事を強いる事になる。覚えなければいけないことも、身につけなければいけないことも、きっとたくさん出てくるだろう。それに──」
初めてヴィオが初めて少し口籠もった。一瞬ためらって、だけどハッキリと続ける。
「……俺が問題にしなくても、問題にする人間はゼロじゃない。心ない言葉が君の耳に入ることもあるだろう。もちろん俺も家の人間も君を守るけれど、本来負わなくて良いものを、君に負わせる事になるのは変わらない」
それを君に強要したくはない、とヴィオは続ける。
「リチェルが幸せでいてくれることが俺にとっては一番大事なことだから、その他は二の次で良い。だけどもし君が頷いてくれるなら、その時は俺の持てるもの全てをかけて君を守ると約束する」
ひとつずつ。ひとつずつ。
ヴィオから贈られる言葉が優しく折り重なっていく。
リチェルが言葉にできない気持ちの道しるべとなるように、はっきりとした言葉をくれる。
「返事は今じゃなくていい。俺もまだ家のことが片付いていないから、堂々と君を迎えに行ける身じゃないんだ。ゆっくり考えて決めてくれ」
そう言われて、泣きそうになった。
どうしてこの人はこんなにも優しいのだろう。
いつだって。
いつだってヴィオはリチェルの心が追いつくのを待ってくれている。
きっとヴィオだって、待っているのが平気な訳じゃないと思うのに。
『リチェルが幸せでいてくれることが俺にとっては一番大事なことだから』
そんなの、リチェルだってそうだ。
ヴィオが離そうとした手を、追いかけるように握り返した。驚いたようにヴィオがリチェルを見る。
「──き、です」
気付けば、溢れていた。
「あなたが、好きです」
ヴィオが目を見開く。
言った瞬間涙がこぼれ落ちて、慌ててリチェルは顔を伏せた。ふるふると頭を振って、空いた手で涙を拭うとヴィオの方を向く。
リチェルの立場が問題でないと言うなら、リチェルにとってはヴィオが心配している負担こそ問題じゃなかった。
リチェルの生まれがヴィオに負担になるなら、それはリチェルには変えようがない事だ。だけどがんばって何とかなる事なら、初めからリチェルには迷う理由なんてない。
「わたしは、知らないことも多くて、たくさん……。本当にたくさん、迷惑をかけてしまうと思うけど……っ」
今だってずっと、手を引っ張ってもらってここまで来た。
普通と比べても知らないことがたくさんあるリチェルには、足りないものばかりだ。だけど。
「がんばっても、いいですか……?」
震える声で、懸命に伝える。
もし、他でもないあなたが望んでくれるなら──。
「あなたのそばにいても、いいですか──?」
ヴィオが息を詰めた。
掴んだ手が握り返されて、強い力で引かれた。一歩踏み出したリチェルの身体はいとも容易くヴィオの腕の中に収まる。
「……!」
息が止まりそうになった。
教会で抱きしめられた時は、ヴィオの様子がおかしくて。だからきっと何かあったのだろうと思えたけれど、今は違う。
抱きしめられた身体が熱を上げる。
跳ね上がった心臓はトクトクと早いリズムを刻んでいた。
「──良いのか?」
耳元のすぐ近くで吐息と共に声が落ちる。
そっと顔を上げると、リチェルを見下ろす琥珀の瞳と目が合った。平常は冷静なその瞳が、かすかに揺れている気がした。
ヴィオも不安だったのだろうか。
(そんなの、全然大丈夫なのに──)
リチェルがヴィオを拒むことなんて、考えられないのに。
少しでも安心してほしくて、リチェルは精一杯笑顔を浮かべる。
「はい」
頷いた瞬間に涙がこぼれ落ちた。
リチェルの頬をヴィオの手が包み込むように撫でる。同時に涙を拭われて、その手に自分の手をそっと重ねると、外気に触れた手は少しだけひやりとしていた。
リチェルを見下ろした目が優しげに細められる。
「……ありがとう」
小さくヴィオが呟いて、笑った。