op.01 昔、一人の旅人が(11)
「リチェル」
声をかけられて、急いでヴィオの元へと寄っていく。少し後を歩こうとすると、横に来るよう手招きされた。そばにいくと先程まで涼しい顔をしていたヴィオが、急に罰が悪そうな顔になる。
「すまない、急なことで。説明する余裕も、君の許可を取る手段もなかったものだから」
「え?」
思わず聞き返した。
それはつまり、今この状態のことを言っているのだ。どこかへ売られるはずだったリチェルを、ヴィオが引き取ったこの状況に対して。
「そんな、謝らないでください! お礼を言うのは、わたしの方で……」
あのままだったらきっと酷いところに引き取られていたのだ。ヴィオが来てくれたのはあまりに驚いたけれども、それでもリチェルにとってはこれ以上ない幸運だった。
「でも、どうしてわたしのことを……」
「リチェル」
リチェルの疑問は背後から投げかけられた声に遮られた。
聞き慣れた美しい声。ヴィオとリチェルが振り返ると、口を開く間も無く、声の主が何かを投げてよこす。
柔らかな臙脂の肩掛け。リチェルの唯一と言っていい持ち物だ。
「忘れ物だよ」
リチェルを見下ろして、気怠げにイルザは告げた。それからヴィオの方を見て、笑みを深くする。
「うまくいったじゃないか。あまりに手際が良いから驚いたよ」
「貴女のおかげだ。感謝する」
面識があるような二人の様子をリチェルは戸惑ったように見比べる。そして朧げながら、リチェルの事を知らせたのはイルザなのだと理解する。
「どうして──」
思ったままの疑問がリチェルの唇からこぼれ落ちた。
そもそもどうしてイルザがヴィオを知っているのだろう。ヴィオのことを知っていると言うことは、リチェルが歌っていたことを知っていると言うことだ。
それなら尚更、イルザにリチェルを助ける理由がない。
リチェルの言葉に、イルザが苦虫を噛み潰したかのような渋面を作った。
「勘違いしたら困るから言うけど、微塵もアンタの為じゃないよ。昔の約束でね。これでようやく肩の荷が下りるってもんだ」
イルザらしい物言いだった。だけど、リチェルにも彼女の言う約束事が誰との約束事なのかは分かった。それは多分、きっと──。
「あり……」
「お礼なんて言わないでおくれよ。アタシはアンタが邪魔で追い出したんだよ。いいチャンスが転がってきたからね、ちょうどいいと思っただけさ」
そう言い捨てて、スッとイルザが目を細める。
「本当はそのアンタの持ち物も売り捌いちまおうかと思ったんだがね。一個聞きたいことが出来ちまったから、ついでに渡しに来たんだ」
「何ですか?」
多分、お礼は受け取ってもらえないだろう。だからせめて、とリチェルは居住まいを正す。真っ直ぐにイルザを見上げたリチェルの瞳を気に食わなそうに見下ろして、イルザは珍しく歯切れの悪い声を零した。
「アンタ、何で坊ちゃんの誘いを蹴ったんだい?」
イルザの質問に目を瞬かせる。
何故そのことをイルザが知っているのか、とはもう思わなかった。ただどうしてそんな当たり前のことを尋ねるのだろう、と思った。
「そんなの、当然です」
「どうして? アンタ、アタシのこと嫌いだろう? アタシを蹴落とす良いチャンスだったじゃないか」
「そんなことありません!」
反射的にリチェルは声を上げる。
イルザのことは苦手だ。だけど、決してそれだけじゃない。
「だって、イルザさんはわたしを部屋に置いてくれました!」
「……!」
イルザが目を見開いた。
一年前から、リチェルはデニスによく声をかけられるようになっていた。
デニスが興味を持ったせいもあるのだろう。彼の取り巻きや、商家の子息である団員たちもまたリチェルに興味を持ち出したのだ。
その頃まだリチェルは楽舎の倉庫で寝ていた。
ある晩、彼らが楽舎に忍び込んできた。そのことに気付いて、何だか嫌な予感に突き動かされてリチェルは別の場所に逃げ込んだ。倉庫を物色する彼らは『誰か』を探しているみたいだった。
怖かった。とても怖かった。
彼らが帰ってからも、朝がくるまでリチェルはずっと隠れていた。朝になって、ようやく隠れていた場所から抜け出して、いつものように屋敷の仕事をして帰ったその日、珍しくイルザがリチェルを待っていたのだ。
『リチェル、アンタ今日からアタシの部屋で寝な』
ただ一言だった。
ぶっきらぼうに告げられた言葉は、だけどリチェルを何より安心させた。
『ありがとう、ございます』
リチェルの礼に、イルザはフンと鼻を鳴らしただけで答えはしなかった。
「歌うなと言われたことは悲しかったし、怒りも沸きました。でも、恨んだことはただの一度もありません」
「……」
冷たくても、どれだけ無理を言われようと、リチェルは確かにイルザに守られていた。イルザの意図は分からなくても、リチェルにとってそれは事実だった。
そして今回、イルザがヴィオに知らせてくれたのだと言うのなら──。
「イルザさん、わたしは……」
「アンタは馬鹿だね。悪い奴に騙されるよ」
リチェルの礼を遮って、イルザがため息と共に吐き出した。アタシみたいなね、と自嘲的に付け足す。心底呆れたような声だけど、もうどこにも棘がない。もう一度深くため息をついて、イルザはヴィオに向き直った。
「こんなんだから、よろしく頼むよ」
「あぁ。もう一度御礼を。貴女にはとても感謝している」
「そうだね。アンタの礼は受け取っとくよ。じゃあね」
イルザはリチェルの方をもう見ようともしなかった。さっさと身を翻すと屋敷の方へと戻っていく。
その後ろ姿を呆然と見送って、リチェルは隣に立つヴィオを恐る恐る見上げた。リチェルと目が合うと、ヴィオは『行こう』とリチェルを促した。
「は、い……」
チラチラと後ろを振り返って、だけどキュッと唇を結ぶとリチェルは歩き出す。
(そっか……)
イルザはきっと、ずっと先代の約束を守っていた。きっとその気になれば、リチェルを追い出すことはいつだって出来た。
だから今リチェルはこうしてヴィオの隣を歩いている。
イルザが守ろうとしてくれたから、今ここにいるのだ。
(だけど……)
隣を歩くヴィオの方を見上げて、疑問が浮かぶ。
イルザがヴィオに連絡を取ってリチェルを引き取ってくれたのは理解した。だけど肝心なところが分からないままだ。
ヴィオはどうして、リチェルを引き取ってくれたのだろうか。
ヴィオにとって、リチェルはこの町でたまたま出会っただけの他人だ。リチェルにとっては特別でも、ヴィオにとってはきっと特別じゃない。この青年はきっと、リチェルじゃなくても他人に優しい。
(どうして)
真っ直ぐ目線を合わせても、ヴィオはそれを咎めることもしない。地方の小領主だとしてもクライネルトは爵位を持っている。そこで対等に話ができるような人なのに。そんな人が、どうして。
(どうして、わたしを助けてくれたんですか──?)
聞くのは簡単だ。だけど、怖かった。
もしかしたらあの地下室で気づいた恐怖よりもずっと、リチェルにとってはこれからを知ることの方が恐ろしく思えた。
助けてくれたのは一時的なことで、ヴィオがすぐにリチェルを手放そうとしてるのだったら?
このままヴィオが、一人でどこかへ行ってしまったら?
「リチェル?」
足を止めたリチェルをヴィオが振り返る。
リチェルの身体を気遣ってかヴィオの足取りはゆっくりだった。それでも立ち止まる気配がないのは、早く屋敷を離れたがっているようにも思えた。だから立ち止まるのはきっと迷惑だ。迷惑なのに──。
「ヴィオさんは、どうして、わたしを……」
聞かずにはいられなかった。
震える声で言葉を紡ぐ。下を向いて、つっかえながら。リチェルの言いたいことを理解したのだろう。すぐそばにきたヴィオが穏やかな声音で名を呼んだ。
「リチェル」
「……はい」
「早く君を休ませたいが、今日の内にこの町を出ないといけない」
それがクライネルト当主との約束なのだとヴィオはとつとつと続ける。
「俺は、訳があって旅をしている。だからずっと君と一緒にいる訳にはいかないが、リチェルがいたいと思える場所が出来るまでそばにいることは約束する」
ヴィオの言葉にリチェルがおずおずと顔を上げる。
「それと君を引き取った理由だが──」
ヴィオが困ったように目を泳がせる。
「もう少し君の歌を聞いていたかったから、じゃ理由にならないか?」
思っても見なかった言葉に、リチェルはぱちぱちと目を瞬かせた。キョトンとするリチェルを、ヴィオは黙って見つめている。
「…………ダメだろうか」
沈黙に耐えかねたのか、ヴィオが気まずそうに続ける。
ダメも何もない。
だって、本当は理由の中身なんてリチェルにとっては何でも良い。
ふるふると首を横に振る。ダメじゃないです、と呟いた。
「全然、ダメじゃないです……」
きっと他にも理由はあるのだろう。
ヴィオがリチェルを引き取れた理由だって、今の言葉では説明にもなっていない。
だけどヴィオは誠実だ。
それだけは、まだ少ししかそばにいないリチェルにも分かっていた。
大事なことは、たった一つだけ。
「一緒に、いてくれますか?」
だから、それだけを尋ねる。
リチェルにとって大事なのは最初からそれだけだった。ヴィオに引き取られて、すぐに引き離されないのであれば、それで良かった。
ヴィオが頷く。
「あぁ。少なくとも君の次の居場所が見つかるまでは」
ぽつり、と一粒涙がこぼれ落ちた。
気持ちはまだまとまらない。色んな言葉が思い浮かんでは、泡のように消えていく。十分なのか、それだけでは不安なのか。ありがとうなのか、ごめんなさいなのか。
だけど浮かんだ感情が、嬉しいである事は確かだった。
たじろぐヴィオに気付いて、急いでリチェルは涙を拭う。嬉しい時はどうすれば良いのかは知っている。他でもないヴィオのお陰で思い出した。
はい、と答えてリチェルは精一杯笑顔をつくる。
「よろしくお願いします」
それは少女本来の、春の陽だまりのような笑顔だった。
次回から二話です。