op.14 春への憧れ(6)
町から離れると、辺りは少し静かになった。
窓を閉めて二人きりで馬車に座っていると、ふと二ヶ月前のことを思い出した。そういえばリチェルと二人きりで旅をするのは久しぶりに感じる。あの頃は乗り合い馬車に乗っていたから、二人きりで馬車に乗ったのは初めてだろう。
その事を自覚しているのかどうかは分からないが、ヴィオの前に座ったリチェルにはいつもよりぎこちない雰囲気があった。
(……不安にさせていたのだろうか)
確かにヴィオはリチェルに対して自分の気持ちを伏せていたし、気付かれるようなこともなかったと思う。ヴィオの立場をおぼろげながら知っているリチェルは、ヴィオと今後会えるものだとは考えていなかったのかもしれない。だけどそれが原因でアルがああ言ったのだとしたら──。
(不謹慎だが、君も離れたくなかったのだと思っても良いのだろうか)
そんな考えが頭をよぎって、我ながら都合がいいなと自嘲する。ただもう曖昧なままにしておくつもりもなかった。
「リチェル」
名前を呼ぶとパッとリチェルが顔を上げる。
「どうしたの?」
「朝君に言ったこと、今少し話をしても良いだろうか?」
ピクリとリチェルの肩が震えた。
話したいことがある、とは伝えた。リチェルもすぐにその事だと分かったのか『もちろんよ』と笑って見せるものの、どこかその様子はぎこちない。
「──まず君に感謝したい。一昨日の教会でのこと、リチェルがいなかったら俺はここまで落ち着いていられなかっただろうし、あの時そばにいてくれたのが君である事を本当に有難いと思っている」
「そんな……、わたし何も……」
恐縮して否定するリチェルに、静かに首を横に振る。
リチェルでなくてはダメだった。あの時そばにいたのが他の誰でもきっと、ヴィオは今ここまで平静ではいられなかっただろう。
「それだけじゃない。これまでの間ずっと、俺は君に支えられてきた。君といたことで気付かされたことがたくさんある」
リチェルはとても心優しい少女で、他人と関わることを少しも厭わなかったから、そんなリチェルに引かれるようにヴィオも他者と関わってきた。
ルフテンフェルトでのガスパロとの事も。
リートやリリコの事も。
アルとの関わり方も。
リコルドでの出来事も、全て。
リチェルと出会ってなかったら、全ての関わり方が変わってきたように思う。
「俺は、あの時君の歌に気付けて本当に良かったと思っている。リチェルはいつも俺にしてもらってばかりだと言うけれど、本当は逆だよ。俺の方が君にもらってばかりなんだ。これは俺の正直な気持ちだから、出来ればそのまま受け取って欲しい」
助けたのはきっと最初の一度だけだ。今後家へ帰った時にそれがどう言われようと、ヴィオはあの選択を後悔することは一生ないだろう。
ヴィオの言葉をリチェルは黙って聞いていた。
たまにかすかに動く唇が、言われている内容が頭の中で自分と繋がらないのだと物語っているようで、それは謙虚な彼女らしい。やがてかすかに首を振って、だけど『そんな事ない』と言う言葉は最後まで発しなかった。ヴィオがそのまま受け取って欲しいと言った言葉を素直に聞こうとしている様子が、ただ可愛らしかった。
かすかに笑って、ヴィオは先を続ける。
「リチェルは俺の両親の事情はある程度知っていると思うんだけど、俺の母は俺が幼い頃から病気がちだったんだ。父が家を出る数ヶ月前に母の病状が悪化して、記憶に齟齬が出るようになった」
「そう、なの?」
遠慮がちにリチェルが応じる。
「あぁ。だから父は母の病気の治療方法を探していたのだと思っている」
「それでこんな遠くまでいらしてたのね」
そうだな、と小さく頷いた。
馬の合わない弟を軍から呼び戻して当主の代理を頼んでまで、ディートリヒは自分で母の治療法を探すことを選んだ。
「正直俺は、どうして父上が行くんだろうと思っていたよ」
「え?」
「父には果たすべき責務があり、身内の事だとしても優先するのはどうかと思っていた。いや、身内のことだから余計にか。医学に詳しい訳ではない父が行くよりも他の人間に任せる方がどう考えても効率的だろうと、ずっと考えていた。正直父上の立場を考えると軽々な行動だと、苛立ってすらいたよ」
リチェルが目を丸くしている。
当然だろう。きっとリチェルは誰のためだったとしても、まず自分が動くことを選ぶ人間だ。ヴィオの考え方の方が馴染まないに違いない。
「だけどリコルドで出会った医者の先生に言われたんだ。『きっと父は母のことが大事だったから動かずにはいられなかったんだろう』って」
その言葉にリチェルがこくりと頷いた。
「わたしもそう思うわ」
「……あぁ。俺も、ようやく分かった」
ヴィオの言葉にリチェルがキョトンとする。何も分かっていないのだろう少女の目を真っ直ぐに見てヴィオは続ける。
「俺にとってはリチェルがそうだったから」
若葉の瞳が大きく瞬いた。
「無意識だったのかもしれないが、今まで君のことだけは誰かに頼む気にならなかったんだ。
リンデンブルックに連れていくのは本当は俺じゃなくていいし、ハーゼンクレーヴァーの手紙だって受け取れなかった事にも出来た。だけどそうしなかったのは、他でもない俺が、君に関しては自分で動かずにはいられなかったからだ」
他の誰に任せることも出来ない。
放っておくことも出来ない。
今までずっと、リチェルの事だけはヴィオは誰かに譲ることが出来なかった。ただ一度、カステルシルヴァでリチェルをマルコに預けたのは、自分のエゴを意識したから敢えてそれを選んだだけで。
リチェルが呆然としたようにヴィオを見ている。かすかに開いた唇から漏れるのは吐息だけで、少女が何の言葉も見つけられないのだと分かる。それが分かって、ヴィオは先を続けた。
「思い返せば出会った時からずっと、君に惹かれてたんだ」
きっと初めから。
あの時あの歌声を聞いた瞬間から、リチェルはヴィオにとって特別だった。
「……っ」
パッとリチェルの頬が赤く染まった。ヴィオの視線を避けるようにうつむいた少女の手が、膝の上でキュッとスカートを掴んだ。
「……あ、の……」
リチェルの声が震えている。膝の上の拳が手のひらを傷つけそうなくらいキツく握り締められていることに気付いて、思わず手を取るとびくりとリチェルの身体が震えた。
「……っ、その」
「あまりキツく握ると傷がつく」
「だ、だいじょうぶ……」
答えるリチェルの手を開くと、思ってた通り爪の跡がくっきりとついていて、そのあとをなぞるように親指で撫でた。リチェルが目に見えてうろたえて、息を詰まらせる。
「すまない。嫌だったか?」
そう聞くと、リチェルはふるふると首を横に振った。そう言うリチェルはヴィオの手を振り払う事はなくて、ただただ恥ずかしいだけだと理解して一先ず安堵する。
だけどリチェルがヴィオの言葉に戸惑っている事だけはよく分かった。
(急ぐ気はないからな)
リチェルの手を離すと『リチェル』と小さく名前を呼ぶ。恐る恐る顔を上げたリチェルと目を合わせて、ヴィオはかすかに笑う。
「俺は君に心から感謝しているし、本当に大切に想っている。今はそれだけ分かってくれれば良い。急に混乱させるようなことを言ってすまない。あとはもう少し君が落ち着いたら続きを話すよ」
そう伝えると、リチェルは一言も発さないままやがてこくりと頷いた。
背に背中を預けて、外に視線をやる。横目で見たリチェルはうつむいたままだった。
馬車が汽車のある町につくまでずっとリチェルは黙ったままで、ヴィオも敢えて話さないまま今後についての思索を巡らせていた。