op.14 春への憧れ(4)
「リチェルさん」
不意に後ろから声をかけられて、リチェルは振り返った。
「アルさん」
昼のための仕込みがひと段落したのだろう。調理用のエプロンを脱いで、店から出てきたアルは外の窓の掃除をしていたリチェルの近くにくると、代わるよ、とリチェルに手を差し出した。
「リチェルさん、きっと上の方は届かないでしょ?」
「うん、そうなの。ごめんなさい。お願いできるかしら」
確かにリチェルの身長では一番上までは背が届かなくて、踏み台を持ってこようと思っていたのだ。アルがリチェルから雑巾を受け取って、リチェルと場所を代わる。
「今日の昼過ぎにはここを出るんだって?」
「うん。ヴィオが馬車を手配してくれて、汽車が出る町まで向かうらしいの」
「それならすぐ近くだから、一時間もすれば行けるんじゃないかな。もっといればいいのに……。あ、でも遅くなって宿が取れないと困るもんね」
そう話しながらアルがリチェルが届かなかったところを、慣れた手つきで拭いていく。
「リチェルさんはこの後どうするの?」
「この後?」
「ヴィオ君は家に戻るんでしょ? リチェルさんは?」
「わたしも、お世話になっている方のところに戻る予定よ」
「そっか」
じゃあヴィオ君とはしばらくお別れだね。とアルがしみじみと呟く。
「ヴィオ君とリチェルさんの家って遠いのかな。今まで一緒だったし、たまにしか会えないと寂しいよね」
「…………」
何気ない言葉だった。
だけどそれはリチェルにこの先を想像させるには十分で、思わず黙り込んでしまった。その様子にアルが目を瞬かせる。え? と驚いたような声をあげて、リチェルの方を見る。
「……会える、よね?」
何か言わなきゃ、と思った。
だってアルはヴィオの事情を知らない。普通なら、確かに連絡を取って会うことも出来るはずだ。だけど多分、ヴィオとリチェルは──。
そうね、と笑えばいいだけだった。
また会えたら嬉しいわ、と言うだけで良かった。
だけどそう口にすることがどれだけ難しいのか、その時になってリチェルは初めて知った。
うつむいたまま黙り込んだリチェルに、アルはギョッとして周りを見回して『リチェルさんこっち!』とあたふたしながらリチェルを店の裏へ引っ張っていく。裏までくるとアルは引っ張っていた手を離して、リチェルの方に向き直る。
強引に引っ張ってきた事に気が咎めたのか、焦ったようにアルが謝った。
「ごめんね、リチェルさん。ええと、僕何か良くない質問したかな? でもヴィオ君がリチェルさんに会わないつもりとか、そんな事はないと思うよ? 絶対」
絶対、の所に強い意志を込めてアルが口にする。その事にアルの優しさが伝わってきて、リチェルは何とか笑みを浮かべることが出来た。
「ごめんなさい。急に黙ってしまって。深い意味はないの。でも、ヴィオは忙しい人だから、わたしに構っている暇はないと思うの」
実際もう会うことはないだろう。
ヴィオが家に戻って、ヴィオでなくなってしまったら、リチェルとの間には埋めることが出来ない隔たりが出来る。
「……リチェルさん。待って。本当に? 本当に、会えないの?」
だけどアルはリチェルの様子から、沈黙の意味を的確に察したようだった。それはダメだよ、とアルにしては強い言葉を口にする。
「だってリチェルさんはヴィオ君のこと──」
「!」
アルの言葉に弾かれたように顔を上げた。
「……どうして」
声が震える。
どうしてアルがそれを知っているのだろう。ロミーナが口にしたのだろうか。だが、リチェルはロミーナに対してもハッキリとヴィオが好きだと言ったことはない。だとしたら……。
アルさん、とリチェルはこぼす。
「わたし、そんなに分かりやすい……?」
震える声で呟いた。
だって、ヴィオは聡い人だ。そんなに周りに分かる態度をしていたなら、きっとヴィオにも伝わってしまっているだろう。
それがどれだけ迷惑をかけるのか、想像が出来てしまう。
だってクライネルトでも、周囲からデニスには近づくなと言われ続けた。リチェルのような人間が近付けば品位が落ちるから、と。きっとその通りの意味なのだ。
だからもしリチェルの気持ちが周りにも伝わっていたとしたら、ヴィオにもきっと迷惑をかけてしまう。
急いでリチェルはアルに頭を下げた。
「ごめんなさい。アルさん。困らせてしまうのは分かるけれど、ヴィオには黙っていてほしいの。どうかお願いだから……」
気付かれたとしても、直接伝えたわけではない。それなら何とか言い訳も出来るかもしれない。そう思って懇願するように口にする。
「うわ! 顔をあげてリチェルさん! そんな顔しないで! どうしてそんなに……」
「だって、ヴィオに迷惑をかけてしまうもの……」
「迷惑? リチェルさんに好かれることが? そんな訳……」
そう呟いて、アルがリチェルを見下ろす。
そして束の間、黙り込んだ。
不自然な沈黙に、リチェルは恐る恐る顔を上げる。いつになく真剣な表情で何かを考えていたアルが、不意に『……迷惑なんかじゃないよ』と小さく呟いた。
「え?」
「迷惑な訳ないよ。リチェルさん」
そう言って、アルが少し困ったように笑う。それから深く息をついて、少しだけ僕の話を聞いてくれる? と優しく言った。
「ええ、もちろん」
「ありがとう」
柔和な笑みを浮かべて、アルが穏やかに口を開いた。
「リチェルさんは、もしかしたら自分なんかがヴィオ君に、とか考えてるのかな、と思ったんだけど。合ってるかな?」
アルの言葉に目を見開く。
それは確かにリチェルが考えていることで、リチェルにとっては揺らがない真実だった。だけど肯定するとアルをまた困らせてしまう。そう思うと何と答えていいか分からなかった。
口の中が乾く。
旅に出てから心が揺れることがたくさんあって、それまで心を押し殺してきたリチェルには自分の気持ちについていけないことが多い。特にヴィオのことに関しては顕著で、今もそうだった。
だけどアルはそんなリチェルの戸惑いも分かっている気がして。ゆるゆるとアルを見上げると、結局リチェルは素直に頷いた。
そっか、と少し寂しそうにアルが笑う。
「以前、リチェルさんは僕のピアノを褒めてくれたよね」
「え? えぇ。だってアルさんのピアノは、とても綺麗だから……」
「ありがとう。それに君は僕が優しい人だってくれたし、人を笑顔にすることが好きなんだ、って教えてくれた」
アルの言いたいことが分からなくてキョトンとする。
だってそれは全部本当のことだ。アルが優しい人なのは、リチェルだけじゃなくてきっと周りのみんなが知っていることだと思う。
「つまりリチェルさんは、僕のことをそれなりに認めてくれてるって事でいいんだよね?」
「それは、もちろん。でも認めるとかそんなのではないわ。アルさんのピアノは素敵だし、とても優しくて素敵な人なのは本当のことよ」
そう言うとアルは照れたように笑った。
「面と向かって言われると照れるな……。あぁ、じゃなかった。えっと……」
言葉を濁して、アルの目が泳ぐ。だけどもう一度深く息を吐いて、アルがリチェルの方を向き直った。
「リチェルさん。僕は、君が好きだよ」
目を瞬かせる。
キョトンとして、すぐにわたしもアルさんが好きよ、と首を傾げるとアルが何故か困ったように笑った。
「うん。だけど僕は、君が女の子として好きなんだよ。リチェルさん」
その言葉を、理解するのにとても時間がかかった。
ポカンとして、アルを見つめる。
(女の子として?)
その意味を分からない程、リチェルはもう無知ではなかった。
意味を理解した途端、頭が真っ白になった。何か言わなきゃいけないのに、一番最初に思い浮かんだのは、喜びよりも申し訳なさで。どうしよう、という戸惑いで。
「心配しなくていいよリチェルさん。僕は君に僕の気持ちに応えてほしいから言った訳じゃないんだ」
戸惑わせてごめんね、とアルが穏やかに謝った。まるで初めから、リチェルの答えが分かっていたように。
「そう。だからリチェルさんがヴィオ君のことが好きだと僕が分かったのは、僕が君が好きで、ずっと見ていたからで。リチェルさんは誰にでも優しいから、わかりやすい訳じゃないんだ。そこは安心していいよ。僕が、君を見てただけだから」
そう言って、アルはためらいがちにそっとリチェルの手を取った。
その手を両手で包むと、真正面からリチェルを見つめる。リチェルさん、とアルが落ち着いた声でリチェルの名を呼ぶ。
「君は『自分なんか』って思っていいような女の子じゃないよ。ヴィオ君に申し訳ないなんて、絶対に思わなくていい。僕はリチェルさんが優しいことを知っているし、君の心が綺麗なことを知っている。それは普通どれだけ欲しいと思っても、なかなか手に入らないものなんだ。君は十分に魅力的で、素敵な女の子だよ」
どうか、とアルが呟く。
「もし君が僕のことを素敵だと思ってくれたんだったら、僕が好きになった女の子のことも信じてあげてほしいな」
支えていた何かが取れるみたいに、瞳に涙が浮かんだ。
もらった言葉が優しくて、温かくて、もったいないくらいで。そんな風に言ってくれるこの人の気持ちに、だけどリチェルは応えられない。
アルがギョッとして、わたわたと『ハンカチ! ハンカチ!』とポケットを探り出す。その仕草がおかしくて、リチェルはクスクスと笑った。
「ごめんなさい……っ、アルさん」
泣き笑いのまま袖で涙を拭う。
「アルさんが優しいから、ちょっと涙が出ただけなの。ありがとう」
「うん。……その、事情は分からないけど、ちょっとでも元気になってくれたなら、その。良かった」
あ、とアルが思いついたように声を上げる。
「応えられないのは分かってるから、断りの文句は勘弁してほしいな。それを聞くと僕昼の営業でソースにマスタードとか入れそうだし!」
「はい。あの、ごめ……じゃなくって、えっと。その……ありがとう、アルさん」
精一杯、笑ってそう言った。
きっとアルが今リチェルに言ってくれたことは、優しいだけじゃ言えないことで、とても勇気のいる事だ。リチェルにはとても出来ない。
だけど誰かに好きだと言われることは、とても温かなことだった。
同時にアルに好きと言われて余計に、自分の気持ちがくっきりと見えたことにリチェルは気づいた。
アルはすごく優しい人で、そんな人に好きだと言ってもらえることはとても幸せな事なのに、だけど今のリチェルには応える事は出来ない。
(ヴィオが、好きだから──)
ギュッとリチェルはスカートの裾を握り締める。それはどうしようもない気持ちで、自分じゃもううまく制御できなくて。
だからせめて目の前の優しい人の道行きが幸せなものでありますように、とただ願った。